▽小川和彦(会社員)
★★★★
舞台を一貫して占領するのは黒い喪服である。スペイン・アンダルシア地方の閉鎖的な村、女主人ベルナルダ・アルバ(新井純)の二度目の夫の死に際し5人の娘たちに8年間の服喪を命じ、その中で女たちの鬱屈した性への欲望がふつふつと湧き出してくる。男は女たちの会話の中でのみ登場し、歪んだ欲望を増幅させる。男の姿を覘き見ることすら禁ずるアルバによって、一見厳しく律せられたように見えるこの一家が、性への渇望によって次第にきしみを帯びてくる過程が見事である。終幕でアルバは、情欲に溺れた末娘が自殺すると「うちの娘は生娘のまま死んだんだ」と口外を禁ずる一方で、「涙を見せるのは一人きりになってからだよ」と抑えきれない親としての悲しみも漂わせる。この終幕部分だけが全員が白い夜着であり、それまでの黒との対比が素晴らしい。またピアノとパーカッションによる生演奏があまりにも美しく、女たちの哀しみを深めていた。
(9月2日19:00の回)
▽大岡淳(演出家・劇作家・批評家)
★★
女性的な繊細さをたたえながら、それでいて、壁のごとくそそりたつ美術。南欧のジリジリと輝く陽光が地平線へと沈む様が、静謐な美へ転じもする照明。登場人物の情感に時に寄り添い、時に彼らを冷酷に突き放す音楽。フレームはいずれも多義的で現代的なのだが、肝心の演技術がリアリズムにとどまっているのは何故だろう。いやリアリズムでも構わないのだが、女優たちは、悲しければ泣き嬉しければ笑うという直情的な表現に終始していると見えた。おそらくここには、演ずる役の、理解でき共感できる点を膨らませるのが演技だという暗黙の前提がある。なるほど、家柄に執着する母や、その圧制の下に束縛され苦しむ娘たちに対して、我々は理解も共感もできる。だが本来、安易な理解や共感を拒絶する異質な何かを表現してみせるのが、リアリズムの真骨頂ではないだろうか。この物語では、それは例えば「純潔を守ることは神への道である」という感覚ではなかったかと思うが、異質な何かに触れたという衝撃は、残念ながらこの舞台からは得られなかった。
(9月2日14:00の回)
▽田中泰史(地方公務員)
★★★☆(3.5)
10人の女優の共演という華やかな趣とは異なり、舞台は重苦しい。原作者ロルカはこの作の2か月後に銃殺というが、乗り越えがたいほどに重い家の掟、ムラの因習がテーマがうまく表現されているからだろう。夫を亡くし家長となった母が支配権を行使し、年頃の娘達に8年の服喪を命じる。しかし、恋多き彼女らはその 枠を逸脱し、そこに悲劇が生まれる。世間を見通せる女中に対し、しがらみから見えなくなっている母の悲劇という対比も示される。分かりやすい描き方だが古風でもある。
舞台袖に楽士が2人いて、荘重な音楽を奏で、音楽劇としての要素をもつ。オリジナルの作曲であり、力が入っている。役者も何人かが歌う。しかし、劇と音楽との相乗効果となると今一歩ではなかったか。
また、チラシの裏面には「ベルナルダ・アルバの末娘は生娘のまま死んだ。わかったかい!」と劇の末尾のセリフが大きく書かれている。パンフレットの知識も動員して前半を見ると結末はほぼ見えてしまう。それとも、この劇のはストーリー以外のところで勝負していると言いたいのであろうか。
(9月3日19:00の回)
★詩森ろば(風琴工房主宰 劇作家・演出家)
★★★
ガルシア・ロルカは難しい。内容が難解ということではなく、日本で上演する場合、どこに焦点をあてたら成功するのかという点において。登場人物たちの行動原理に宗教的背景が大きく横たわっており、しかも性質が日本人と違いすぎる。どこにアクチュアリティを見出せばいいのかよく解らない。
新井純さんがタイトルロールを演じ、中川安奈さんなど実力のある俳優で構成された今回のチームは、つまらなくて見ていられないということはもちろんないと最初から解っていた。しかし、戯曲に対して素朴な信頼感が、それ以上でもそれ以下でもないものにしてしまっているようにわたしには感じられた。重厚なムードに貫かれた作品をより重厚にしようとするのではなく、書かれていることがじつにくだらない、というのを逆手にとり面白がれば、それはひとの生命力をダイレクトに感じさせる作品になったのではないだろうか。結果としての悲劇ではなく、わけの解らない情熱と抑圧された性欲が迸る様に圧倒されたかった。ひとの身体に宿るエネルギーはそれだけで、いまの時代、演劇が提示しうる希望となりうる。ベルナルダの家、酷いことになってるけどちょっと楽しそうだな、と思えるくらいでいいのではないか。そのように思った。
(9月1日19:00の回)
▽金塚さくら(美術館勤務)
★★★★
片隅に吊下げられた籠の中で、鳥は生きている。
舞台の上で予期せぬ動きをするのは彼らだけだ。他のすべては綿密に計算され、訓練された女優たちは指先まで定められた通りに動く。必要とあらば無理な体勢で静止し、影の落ちる先すら見越した美しい構図を舞台に作る。
ここに身体の自由はなく、彼女たちは常に抑圧の下にあるが、しかしその不自由は決して息苦しいものではない。目指すスタイルが徹底して貫かれているからで、その姿勢は真摯だ。
誇張された動きや正確な発声による丁寧な台詞は、時として不自然なほど過度に劇的で、そのためか田舎町の醜聞を題材にした戯曲も下世話な生々しさとは無縁だ。歪んだ女系家族の確執も、まるで神話か伝説めいて、異界を覗いたように妖しく美しく、理解や共感よりも全体で茫漠と胸を打つ。
高い美意識の陰に霞みがちな物語の主意は、件の鳥籠が補足していた。従順に囚われたまま、小鳥たちは籠の中で身勝手に振舞っている。
(9月2日19:00の回)
▽都留由子(ワンダーランド)
★★★
二人目の夫を亡くし、家柄を誇るアルバ家の当主となった誇り高きベルナルダは、5人の娘たちに8年の服喪を命じ、家の中の全てと娘たちの全てを支配する。当然ながら若い娘たちがそれですむわけはなく、長女の婚約者と末娘が密会するようになり、悲劇が起きる。
いかにも陽光溢れるアンダルシア地方らしく(行ったことはないが)、紗幕を使った舞台装置に当たる照明はまぶしく、美しく、家の中に閉じ込められた女性たちの閉塞感を際立たせる。台詞術(特に新井純と坪井美香の!)といい、どの場面を切り取っても絵になる姿であることといい、生演奏の音楽といい、全てが計算され、コントロールされた舞台であり、結末が半ば予見されるのに最後までちゃんと観客を引きつける、力のある舞台だった。
だから十分満足し、面白かったのだ。だから、その全体を笑っちゃえるようだといいなあと思ったのは、閉塞と束縛に抗う者の悲劇がちょっと重たい、軟弱な観客のないものねだりです。
(年9月4日14:00の回)
▽後藤隆基(立教大学大学院)
★★★★
ガルシア・ロルカの遺作。ウンプテンプカンパニーによる上演の鍵言葉は、抑制と静謐さであったように思う。
女優陣のアンサンブルが秀逸。殊にベルナルダ・アルバを演じた新井純の見事さは衆目の一致するところだろう。しゃがれ気味の強い発声は力を失わず、杖を床に打ちつけ、はげしい気性が窺える反面、封建社会の陰影を感じさせる抑制と静謐さが、舞台に張りめぐらされた緊張を体現していた。またポンシア役の坪井美香との掛け合いはその力量を十二分に体感させてくれた。
中川安奈は、未婚のまま四十歳を前にした長女を控えめに美しく好演。次女以下の娘たちも若い女優が光る。祖母に配された蜂谷眞未は道化めいた風貌で、喪服の舞台に一点のアクセントを与えていた。
舞台美術も重要である。天井の高いシアターⅩの舞台を紗幕で仕切り、中心にテーブルの置かれた演技空間が形成される。その紗幕が家の壁となるわけだが、八年間の服喪を科され、母の圧政下に置かれた「家」の閉鎖性に反し、全てが透かし見えるような効果を付していた。たとえば、聞かれてはならぬ母と女中の対話を、娘たちが紗幕越しに立ち聞きしている描写を視覚化していたように。
そうした諸要素が、全体を通底する青白い照明と相まって、ベルナルダの「静かに!」という幕切れの台詞と、静止画のような最終場面に集約されるのである。
ピアニストとパーカッショニストによる音楽が作品成立の基盤となっていたことも特筆しておきたい。
(9月4日14:00の回)
▽北嶋孝(ワンダーランド)
★★
最前列で見ることになったので、登場する女優たちの脚と腰がちょうど目と鼻の先で動いている。みな裾の長い喪服をまとっているから、かぶりつきのおこぼれがあるわけはない。何を妄想しているのかと自分を叱咤しつつ顔を上げると、袖の紗幕の吊り下げ具合や天井の照明群など、舞台裏の光景が目に入るではないか。
いかん、いかんと舞台に目を凝らすと、そんな雑景、雑念に関係なく、遠いスペイン・アンダルシア旧家の重苦しい家族の空気が、これも正統、荘重な演技・演出によって最後の破局までじっくりと煮詰められていく。新井純、中川安奈ら女優たちの熱演にも引き込まれ、幕を閉じた後も、むせかえるような熱気が客席に伝わってきた。
でもね、これってまずいんじゃないか。胸の奥からそんな声がする。引き込まれやすいぼくの軟弱もさることながら、エロい風俗が跋扈し、ナンパな身体がはびこっているいまの世の中で、閉鎖空間の性的抑圧を濃密、丹念に、しかもまじめに仕立て上げては、万人向けのテレビドラマでは味わえない豪華な、しかし消費的カタルシスになりはしないか。翻訳臭のセリフが散見する舞台の根っこに、閉ざされた家族関係を洒落のめし、笑い倒す精神をちっとも見つけられないのがもどかしい。気の触れた祖母や年配の女中が異界の目、世間の風を運ぶ道化役=批評軸に徹していたらと、あらぬことを考えてしまった。
(9月2日14:00の回)
【上演記録】
ウンプテンプ・カンパニー第10回公演「ベルナルダ・アルバの家」
両国・シアターΧ(カイ)(2011年9月1日-4日)
作:ガルシア・ロルカ
台本・演出:長谷 トオル
演奏:神田 晋一郎(Piano)、則包桜(Percussion)
出演:
新井純、中川安奈、坪井美香、内田晴子、こいけけいこ、蜂谷眞未、薬師寺尚子、成田明加、森勢ちひろ、西郷まどか
台本協力:加蘭京子
作曲:神田 晋一郎(音楽美學主宰)
美術:荒田良
照明:望月大介(A.S.G)
衣装:竹本 さよ子
宣伝美術:長谷トオル
パンフレット編集:加蘭京子
スチール撮影:中道翔子
チラシ写真:福吉隼人
舞台監督:中村眞理
制作:「ベルナルダ・アルバの家」制作委員会+中村昌利
制作助手:池田未優
企画:ウンプテンプ・カンパニー
後援:スペイン大使館
チケット:前売4,000円 当日4,300円 学割3.000円(学生証の提示)
演出の長谷です。それぞれの感想を目にし、演劇に何を求めているかが伺われ、大変興味深く拝読いたしました。観る視点をどこに置くかで、真逆の感想になっているように感じ、一様でないことにほっとしています。
致し方ないと思いますが、やはり400字という文字制限では書き切れない部分があるように思い残念です。それぞれの批評軸の前提なるものがもう少し知りたい気がしてなりません。曖昧な言い回しではなくきっぱりとね。
皆様、お忙しい所、レビューをお書き下さりありがとうございました。
大岡淳氏が批評家を名乗る以上、もう少ししっかりと観て書いて貰いたかった。わたしも同じ日に観劇したが、この演劇はリアリズム的な表現も使っていたとは思うが、それにも増して計算し訓練された身体的表現も随所に伴っていたと思ったが。もしかして観ていなかったのだろうか?そして「悲しければ泣き嬉しければ笑うという直情的な表現に終始していると見えた」とあるが、あまりにも短絡的な言い回しに、演劇そのものを害されたような気分がする。もしかして貴兄には、感情表現の濃淡や陰影を感じられないのではないか。そして大岡氏のリアリズム的演劇の定義があまりにも曖昧すぎて、それ以後の文章は何を言いたいのかさっぱり分かず、批評の体を成していない。
伊藤様、厳しいご意見ありがとうございます。言葉足らずですみません。演技に関する評価なので客観化するのは難しいですが、私が「リアリズム」として想定するのは「スタニスラフスキー → ストラスバーグ」の系譜であり、紋切型を回避し、サブテキストを重視する演技術です。この戯曲のサブテキストとしては「なぜ娘たちはこの家を出ないのか」を考える必要がある。もちろん母が怖いし、他に生計を得る手段がないからですが、それだけではないと思えます。だがこの演出は、あくまで家族間の人間関係をストレートに描いているだけと見えました。それから身体表現は、私には付け足しのようなものとしか見えませんでした。以上です。
補足しますが、この戯曲を完全に脱リアリズムの身体表現で上演した例として、錬肉工房の岡本章さんの演出が挙げられます(記憶が定かでないですが、テアトロかどこかで劇評を書いたような気がします)。いささか単調ではあったものの、セリフひとつひとつを身体の深層でキャッチしようとする試みは徹底しており、なかなか強烈なものでした。あの上演と比較して辛口になってしまったところはあると思います。
大岡淳様、ご返事痛み入ります。どうやら貴兄がこの芝居をリアリズム演劇と規定している事は分かりました。ご自分で前提を規定して、『スタニスラフスキー → ストラスバーグの系譜』と批評を展開させようとしていますが、わたしには無理があるように感じます。何故ならその学問的に演劇体系を前提にしても、わたしと、また多くのこの芝居を評価している人たちとすれ違っていると思われるからです。
わたしもロルカは多少なりとも見識がありますが、よしんば大岡氏の言う重要なサブテキストが「なぜ娘たちはこの家を出ないのか」と言うことは、サブテキストなどではなく、この芝居を貫く主題だからです。この主題はロルカの他の作品にも共通するものであり、土地に根ざして生きることの矛盾がテーマなのであり、演出は、台本にわざわざ台詞として書き足してありました、女中頭に対して「このよそ者め!」これは原作にはない台詞です。この一言で、冒頭の女中頭が不在のベルナルダをなじる場面までの作品全体の貫通行動が、くっきりとしたラインで繋がり、また冒頭の女中が、女乞食を売女(これも原作にはない)と罵ることでこの演劇が原詩的な物語に昇華していったように感じました。そう排他的な貧村を主題にした話なのだと。家族の人間関係を通して、外の世界を暗示的に描いていると思いますよ。演出の長谷氏は、逆に物語が進んで行くスタイルの戯曲を、敢えて忠実に見事に計算されて描いているようにお見受けしました。
それから「それだけではないと思う」じゃあ貴兄はどう思うのですか? そこを語らなければ批判にはなりませんよ。わたしは六〇才を越え、何故、今この芝居をこのようなスタイルで上演したのか理解できる気がします。「ベルナルダは何故、家の敷居を村人にまたがせようとしなくなったのか?」こちらの方がこの作品の本質的な問いだと思いますが。ただ、ここまで端正に描く事で、観た人が考える事を放棄するとしたら残念です。
音楽家の神田晋一郎です。
私も大岡氏の批評はよく理解できなかったので、9月8日にツイッター上でお話を伺いました。すでにコメント欄で大岡さんが書き込まれている内容と重複するところも多くありますが、以下にこれを紹介いたします。
また、私の不躾な質問に丁寧に答えてくださった大岡さんに感謝いたします。
bigakubito→神田晋一郎
ooka_jun→大岡淳氏
bigakubito
大岡さん、お久しぶりです。共演したこともあるのですが覚えていらっしゃいますか?ワンダーランドの批評読みました。ある意味、非常に興味深いのでいくつか質問させていただいてもよろしいでしょうか。
リアリズムにとどまらない表現と、異質な何かを表現してみせる真骨頂のリアリズム、この二つは大岡さんのなかで明確に異なるものですか。
いずれもよくわからないのですが。
ooka_jun
御無沙汰しています。そうですね、別ですね。演劇史的に言えば、前者はメイエルホリドが、後者はスタニスラフスキーが代表しています。後者はストラスバーグを経由し、ハリウッドの映画俳優の演技術に発展しています。スタニスラフスキーの演技術は、チェーホフの戯曲に対応しています。つまり、口に出していることと心で思っていることに落差があるセリフですね。これを巧みに表現するため、スタニスラフスキーは徹底して紋切型を嫌いました。またストラスバーグの演技術は、テネシー・ウィリアムズあたりと相性がよい。無意識下の欲望と葛藤する人間像。ストラスバーグ自身の演技は『ゴッドファーザー2』で見ることができます。普通のくたびれた爺さんが、確かにユダヤマフィアの親分に見える。この多義性ですね。いずれにしても、桐朋出身者が多かったため、桐朋が「スタニスラフスキー ⇒ ストラスバーグ」というリアリズムの王道を教えていないことの限界を感じたというところです。
いっぽう、リアリズムにとどまらない表現というのは、私の以前のボスである鈴木忠志や、現在のボスである宮城聰が追求しているような、身体技法を中心とした表現をイメージしています。こちらは「メイエルホリド ⇒ グロトフスキ」が中軸です。
bigakubito
口に出していることと心で思っていることの落差、無意識下の欲望と葛藤する人間像、これらが演技で表現できていない。あるいは紋切り型である。
これがあの批評の主旨だと理解していいですか。
ooka_jun
はい、そういうことです。主には俳優に対する注文ということになると思います。
bigakubito
わかりました。ありがとうございます。しかしお節介でしょうが、あの批評文、非常に伝わりにくいかと…演劇を学問的に学んだ人なら伝わっているのかな。
ooka_jun
400字という制約があるので、わかりやすく書こうとすると、どうしても下品になっちゃうんですよね。とはいえ、詩森ろばさんは同じ400字なのに、私より遥かに的確な指摘をされているので、精進したいと思います。ご指摘ありがとうございます。
****
大岡氏は400字ではわかりやすく書けない、とおっしゃっていますが、私はその趣旨をツイッター1回分で要約して見せたわけです。
なぜ「口に出していることと心で思っていることの落差、無意識下の欲望と葛藤する人間像、これらが演技で表現できていない。あるいは紋切り型である。」を主張しようとしてあのような(解説がなければ到底理解できない)批評文になるのか?
ここから一つ疑いが起こります。
つまり、大岡氏は批評することよりも文体や批評家自身の人物像の提示にこだわった。「批評文という体で、自己演出、自己アピールをしているのではないか」という疑いです。そういえば彼は演出家ですね。
もしそうなら、これは批評という行為の信頼を著しく失墜させるものではありませんか?そうではないことを願ってやみません。
また、私自身の率直な感想を言えば、
女優たちは明らかに様々な表情・感情を豊かに見せていたと思います。それを「直情的な表現に終始している」と切り捨てるパラダイムがあり得たとしても、やはりあまりにも暴力的な単純化があまりにも主観的になされたという印象は拭いきれません。現に、女優たちの演技について大岡さんと同じ立場の主張を強くされている方はいないですね。・・・・だからこそ大岡さんの批評が物議を醸していて、そのこと自体はいいことなのかも知れませんが(笑)
批判ばかりになりましたが、ただ、私はスタニスラフスキーもメイエルホリドも文章上で知識として知っているのみで、具体性を持って理解できているとは言い難い。だから大岡氏の主張をくみ取り切れているかどうかは疑問なしとしない、ということは付け加えさせていただきます。
大岡さん、僕はまた共演できる機会があればいいと思っています。
そのときのことを思うとワクワクするほどです。
すごくいい作品になる可能性だってある!ご検討ください。よろしくお願いします。
この投稿は時間的なタイムラグがありますね。大岡さんの発言は糸の切れ凧このように迷走している感がありますよ。いや貴兄の演劇の好みが自明にあり、その色眼鏡をかけ評していることが判りました。追伸に書かれている、岡本章さんの「ベルナルダ・アルバの家」はわたしも拝見しました。今回と同じ女優さんも出演していましたが、あの実験的な作業と、今回のとでは同じ水準に置き引き合いに出すこと事自が無理な話です。あの能的要素を取り入れた身体性と発語の実験的作業は、テキストとして「ベルナルダ・アルバの家」でなくても構わなく、表現方法の実験と捉えています。わたしはあくまでもあれは実験的試みと捉えています。貴兄には大きな視点で論じて貰いたかった。
伊藤様、「それだけではない」の中身は、批評文中にある「『純潔を守ることは神への道である』という感覚」が答えです。それがすなわち「異質な何か」として、私が考えるもののひとつです(もちろん一例にすぎませんが)。誤解されているといけないので一応申し上げますが、「異質な何か」とは「家の外」という意味ではないです。この「家」そのものが「異質な何か」に見えてほしいということです。おっしゃるような「排他的な貧村を主題にした話」という、我々が理解も共感もできてしまう解釈におとしこんでいることがそもそもつまらないと申し上げたつもりです。これは、新劇全体が抱え込んでいる構造的な欠陥であり、黒テント出身の長谷氏がそれを超克したとは私には思えませんでした。そしてそれは「役の理解・共感できるところ」を抽出する、俳優たちの演技方法にも通底していると考え、そこも批判しました。だから問題の根本は「異質なものに出会う衝撃」を舞台に求めるか否かの一点だと思います。
で、それを「好み」といってしまえば「好み」です。しかし、批評は学問とは異なるので、つきつめてしまえば「好み」を根拠として発せられるしかないような気がしますが、どうですか。その「好み」が、ひとつの演劇観としてどの程度の精度を持っているかということが問題なのでしょうし、その点で私の批評の精度が低いという批判は成り立つと思いますが、ただ「好み」や「色眼鏡」であることそれ自体を否定してしまうと、批評は成立しないと思います。作品の良し悪しについて、純粋客観的な価値基準など存在するわけがないからです。だから「ああ岡本章とかが好きだから長谷さんのは気に入らないのね」と私が見られることが、マズイことだとは思えないのですがどうでしょう。私としては「ええそうです、私はあっちの方が好きで、そういう立場から批評を書いています」と開き直るしかないような気がします。
神田さん、まず文体に対するご批判はおっしゃる通りで、わかりにくくなってしまって申し訳なかったです。正直に言いますが、神田さんを含め、知っている人が何人も関わっている公演であり、特に桐朋出身者については、私は5年位非常勤講師を務めていましたから、なんというか、別に気を遣ったつもりはありませんが、「こんな身近な人たちに、私は私の演劇についての理解(日本の新劇がなぜ正統なリアリズムを喪失したのか)を何も伝えることができておらず、それは私自身の責任だ」と考えざるをえず、潔い断言ができなくなったことは事実です。つまり、この劇評を私は引き受けるべきではなかったのだと思います。
そのうえで、やはり「直情的」という批判を撤回する気はありません。もう韜晦する必要もありませんからあえて遠慮なく言いますが、桐朋の学内の公演でああいう演技はさんざん見たし、私自身がかつて彼らを演出して、そこを克服できなかったという反省を持っているのです。つまり「リアリズムを少しだけ逸脱した演技」というのは「出来損ないのリアリズム」と区別がつかないのです。その程度には、新劇の劇団のリアリズム演技というのは、劣化したとはいえ、様式としての完成度を備えたものです。俳優座とか文学座とか民芸とか演劇集団円とか青年劇場とか東京演劇アンサンブルとか東京演劇集団風とか、見て回ってもらえればわかると思います。
本来私は太田省吾の方法に影響を受けていたのですが、95年に劇団黒テントで佐藤信氏と共同演出をおこない即興的演技術を学んで以来、自分が演出家として追求すべき演技方法を見失いました。その後、04年に桐朋短大で演出した『コンベヤーは止まらない』に至るまで、私自身がまさに「少しだけ逸脱したリアリズム」を追求した経緯があります。その、およそ10年にわたる迷走の結果、これでは正統派新劇の連中からは「拙劣」と見られてしまうし、小劇場演劇の連中からは「古臭い」とみられてしまう、と反省しました。そこで私は、ブレヒトの京劇論と鈴木忠志の演技論を勉強し直して、あえて「身体表現を中心とした脱リアリズム」に舵を切りました。そしてやっと、自分がプロの演出家になることができたと自覚しました。実際、芝居だけで食えるようになりました。当然ながら、桐朋で教えることはやめました。
従って今回の『ベルナルダ・アルバの家』について正直に言えば、かつて10年の迷走の折に、なぜ自分の演出の評判が悪かったのか、やっと観客の視点で、理解できたという気がしたのです。そこで、非常にお節介なことを申し上げますが、このままの路線を歩む限り、ウンプテンプ・カンパニーがプロ(何がプロかというのも議論の余地がありますが)の劇団としてやっていくのは難しいことではないかと思います。これは、劇評とは全く別で、皆さんの知人である私からの忠告として申し上げます。気を悪くされたら申し訳ないですが、以上で私は言いたいことを言い尽くしました。
どうも誤解を生む書き方をしているので補足しますが、佐藤信氏や加藤直氏と一緒に仕事ができたのは、私にとっては非常に面白く、ありがたく、得難い経験だったのであって、その点に何の後悔もありません。あまりに多くを学んだからこそ、何をやるべきかがわからなくなったのです。10年の迷走も必要な時間だったと思います。そしてその迷走期間があったからこそ、鈴木忠志という演出家の偉大さがよく理解できたというところもあります。
ところで「リアリズムを逸脱したリアリズム」が、どれもこれも折衷的で失敗を宿命づけられているかといえば、そんなことはありません。例えばお隣の韓国は、日本の新劇の影響下に近代演劇を開始したのですが、その発展過程は日本とは似て非なるところがあり、「リアリズムを逸脱したリアリズム」でも、面白い成果があがっています。日本とは違って、ひとつの演技方法が、様式として固着せず、弁証法的に発展するという経過をたどったのですね。林英雄氏演出『ゴドーを待ちながら』など、その産物です。だから、上記コメントの忠告は、決して「君たちも脱リアリズムの身体表現で行け」という意味ではありません。虚心坦懐に世界の演劇を学んでもらえれば必ず先達は見つかるし、私自身、そのような文脈を日本の演劇界に導入することを、批評家としてやってきました(創作家としてはすっかり「身体表現」の人になっちゃいましたが)。以上、補足でした。
伊藤さんと神田さんと別々にコメントしていますので、それぞれ文脈が異なるわけですが、それを「迷走」と受け取られると困りますので、あえて強引にまとめます。私の演劇観に従って言わせてもらえれば、この劇団がとるべき、演技方法についての選択肢は以下のいずれかです。
(1)西洋のリアリズム演技術に徹底的に学び、スペイン民衆のキリスト教的モラル(のちょっとイカレているところ)というような(それ以外にも色々ある)、日本の我々には理解しがたい、なにやらおぞましい側面までも、リアルに表現してしまう。それにより、新劇の限界を超える。
(2)新劇の様式性と見比べたとき、相対的な良し悪しを競うことになってしまう演技術は思い切って放棄し、脱リアリズムの身体表現技法に転換する。既に岡本章氏のようなロルカ演出例もある。
(3)リアリズムをベースとしながら、リアリズムを逸脱する、第三の演技術を開発する。現状のスタイルが「第三」の演技術であるとは思えない。少なくとも私の目にはそう見えない。比較して、平田オリザ氏の現代口語演劇が、新劇ともアングラとも異なる「第三」の演技術であるという印象は、明瞭である。あのくらいのオリジナリティを示してもらわないと「身体表現も少し入っているけど、感情表現はやけにステレオタイプに見える、なにやら一風変わった新劇」にしか見えない。世界演劇の中に、手本はいくらでも見つかるはずだ。
ここまで批判的な感想を言うのが私しかいないのは、他の評者の方々が、新劇を大してご覧になっていないからではないかと思います。勘違いであればすみません。
大岡様、わたしは貴兄が批評家と名乗っているので、あなたが書いた批評に対して批評をしているのです。貴兄は論のすり替えを行っていますよ。あなたが言うサブテキストとして「なぜ娘たちはこの家を出ないのか」という事に対して、わたしはその事は戯曲上の主題だと言ったのです。それからその延長として「それだけではない」とはどういう事なのかと言う質問に「『純潔を守ることは神への道である』という感覚」という答えが返ってきましたが、これは劇中に何度か出てくる重要な台詞であって、サブテキストではありません。
『「排他的な貧村を主題にした話」という、我々が理解も共感もできてしまう解釈におとしこんでいることがそもそもつまらないと申し上げたつもりです。』これこそ、簡単に理解も共感したつもりになってしまう事柄なのではないでしょうか? 貴兄の弁を借りればわたしには、その想像が「異質なものに出会う衝撃」なのです。
大岡氏の言う『新劇全体が抱え込んでいる構造的な欠陥であり』これは超課題の事ですか? それとも観客との「理解と共感」の予定調和の事を言っているのでしょうか? ここは別の一つの論点になり得ると思いますが…。
とにかく、掻い摘んで指摘すると、ご自身でリアリズム演劇とこの芝居を規定し、サブテキストの問題点を取り上げ、今度は新劇の構造的欠陥を超えていないと無理矢理に展開させようとしていますね。
穿った見方をすれば貴兄は「女優たちは、悲しければ泣き嬉しければ笑うという直情的な表現に終始している」と言い放ってしまったことを(わたしにはそうは思わなかった)、何故か『スタニスラフスキー → ストラスバーグの系譜』を持ち出して、展開させようとしているように感じますよ。要するに貴方が言い切る批判が一面的であり、その前提の建て方が強引だと申しているのです。
それから貴兄の表現方法の好みで、今回の作品を同じタイトルだからといって、わたしは岡本さんと長谷氏を比較して語っても意味がない、全く別のアプローチなのですからと言ったのですよ。
もう一つ『「好み」や「色眼鏡」であることそれ自体を否定してしまうと、批評は成立しないと思います。』批評家が、開き直られて好みをむき出しにされては敵わない(笑) それじゃあ批評としての説得力も問題提起もなくなりますよ。あるのは自己顕示欲かやっかみのみって事になりませんか。
あの芝居を作るのにかかる並々ならない作り込んだ労力を、演劇に携わって来た者としてヒシヒシと感じます。
そして舞台上に強く静かに流れる女優たちのアンサンブルのエネルギーを感じます。それが素敵なのです。わたしは、一観客として今そんな芝居が観てみたかったのですよ。以上です。
流れが前後してしまった。
大岡淳さん、貴兄の「この劇団がとるべき、演技方法についての選択肢」の三点は、貴方が気に入るためですか? そうじゃないでしょうからお伺いします。何のためにですか? その一言が足りないとぞんざいに聞こえますよ。
大岡淳さん、伊藤崇様 そして神田晋一郎さん、それから上演台本までお読みレビューをお書き下さった、詩森ロバさん、そして私たちの大切な芝居のレビューを丁寧に書き下さっ小川和彦様、田中泰史様、金塚さくら様、都留由子様、後藤隆基様、皆々様には御礼申しあげます。そして今回の企画に協力的にご指導下さった。北嶋孝さまに心から感謝致します。
昨今の流動するだろう演劇情勢の中で、今回の「ベルナルダ・アルバの家」がどのような評価で位置づけされていくか僕には多少の好奇心がありました。そして様々な感想はこれからの芝居の作り方を発想する上で好材料になったと思います。
特に大岡淳さんたちのやりとりは、不毛の部分も含め、季節が秋口へ入り、芝居の残り蚊のように、終わってしまった芝居を懐かしめました。
怒らりるかも知れませんが、大岡さんのレビューはある程度予想していたものでしたが、その後の書き込みは、何かを示唆するに十分値するものと評価しています。(あまり僕の知り合いの名前を出さないでくれよ、気恥ずかしいから)
今後社会がどう変わっていくか余談が許されないのが現状ですが、経済だけは確実に疲弊していくでしょう。演劇がそうした社会とどうコミットして行くか、誰もがこれからいっそう表現の模索を続け無ければならない気がします。
どのような演技術であれ、若い演劇人の強い意識と基本的な技術の水準を上げることが急務だと思っています。(僕がそう若くないので)ドカーンと新たな技法など降ってくるわけでないので、広く世界を見渡しながらより見聞を広げながら、死ぬまでには一つでも獲得できればと思っているのですが、演じる者と共に見つけられれば良いと思っています。
俳優がいなくなってしまっては、どんな演出メソッドを労しても、新劇であろうが、老舗の前衛的劇団であろうが、面白さを感じなくなってしまいました。
幸いにこれまでに独自に培った演劇感を踏み台に、挑み続けていきたいです。黒テント時代の癖か、同じような方法で芝居づくりは考えていません。今回は今回でまた何か新たな事に挑みたくなります。誰に何と言われようが僕にはそれが楽しいのです。
でも、大事にしているものは忘れたくありません。それは芝居は関係で創ると言うことです。そして作品の精度をどこまで上げられるかが当面の僕の拘りです。そして観客の世代の層を広げることで、演劇の新しい評価軸が生まれてくると僕は思っています。決して現存の芝居をジャンルを否定しているのではなく、只、今を追従したくないだけです。
みなさまありがとう。
伊藤様からいくつか疑問が寄せられていますが、その答えを含め既に私は言いたいことを言ってしまいましたし、伊藤様の立場もよくわかりました。長谷さんからしめくくりに相応しいコメントが寄せられたことでもありますし、私からの投稿はこれで終わりとさせていただきます。
ただ最後にひとつ、3つの提案をしたのは何故かと問われましたのでそれに答えますが、これはですね、わかりやすく言ってしまえば、成田明加をよろしく頼むということです。薬師寺さんも明加さんも、桐朋の中では才能を感じた学生さんでした。彼女らはプロの俳優を目指しているはずです。私自身は、もう桐朋とは関わりを持っていませんし、彼女らの今後について責任を負う立場にありませんし、上記の投稿ではボロクソに言っていますが、でもやっぱり桐朋の卒業生に対しては愛情を持っているのです(もっとも私は学生からは嫌われていましたけど)。その多くは、愚直にして真摯な情熱の持ち主たちだったと思っています。だから、今後とも明加さんを劇団員として抱えていくなら、長谷さんに、道楽につきあわせるのではなく(もちろんそんなおつもりではないでしょう)、彼女が食える俳優としてやっていけるようにしっかり育てていただきたい、とお願いをしているのです。そのためには、まずカンパニーとして成功していただかなくてはなりません。そのための提案です。伊藤さんも神田さんもなにやら私が自己顕示欲をひけらかすために傲慢な発言をしていると受け取られたようですが、私自身は既に静岡で芝居で食っていますから、こんなところでわざわざ目立つ必要などないのです。静岡の観客は、東京の演劇の批評なんて読みませんから。そうではなくて、私の気持ちとしては、知人だらけのウンプテンプだからこそ、本当の成功を収めてほしいという意味で厳しいことを言ったまでです。だからこれは、神田さんへの忠告まで含んでいると思っていただいてよいです。いや、私への反論などどうでもいいので、そんなことより、1日も早く本多や紀伊國屋で2週間くらいステージが打てるカンパニーに成長して下さい。さもなくば、集客の数こそ少なくとも、名の知れた演劇評論家たちが毎回高い評価を寄せて、安定的に公的支援が得られるカンパニーに成長して下さい。そういう向上心がないのなら、プロを目指している若者を巻き込まないで下さい。ということです。
しかし既に、そのような私の気持ちは、じゅうぶん長谷さんに伝わっていると了解しています。だから以上の投稿は、伊藤さんと神田さん向けに補足しました。
今日は第七劇場の『かもめ』を、日帰りでシアタートラムで見てきました。鈴木メソッドの影響を一歩乗り越え、それこそリアリズムと身体表現を統合した新たな演技スタイルを創造しようとする姿勢には、興奮させられるものがありました。既に彼らはドイツやフランスで評価を得ており、国内でもツアーを組める集団に成長しています。上り調子です。こういう連中とガチでやりあって下さい。よろしくお願いいたします。
僕は前回の投稿で、大岡さんの文章が批評である事よりも文体や批評家自身の人物像提示を重視したものであり、本質的には自己演出・自己アピールであること、また、批評でなされている主張(演技の表現が直情的である)が暴力的ともいえる単純化に基づいた主観的な決めつけであることを指摘し、批判しました。
後者に関しては、僕とは意見が違えど、大岡さんの立場は了解しました。
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3つほど指摘し、僕の最後の書き込みといたします。
・その後の大岡さんの書き込みはより露骨な自己アピールに堕してしまったこと。
・芝居で食うとか、世間の評価であるとか、そういうことは芝居や音楽の良し悪しとは本質的に無関係であること。スポーツだってそうです。スーパーでレジ打ちしながらサッカーやってる選手はダメな選手でしょうか。
・「成田明加をよろしくたのむ」はちょっとずるいなあ。ヒールを買って出たんでしょう。最後にいい人みたいな顔をするなんてそんな紋切型の演出を大岡さんがすべきじゃない。スタニスラフスキーは紋切型を嫌ったんでしょう?
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しかし、大岡さんの曲者ぶりはちょっと魅力的です。上から目線でごめんなさい。でもこれはけっこう本気で言ってます。また、辛口のエールの部分はありがたく頂戴いたします。向上心は持ってますよ。頑張ります。
またどこかで意見を交わせたらうれしいです。これは繰り返しになりますが、また共演してください(笑)
大岡氏のわたしの問いに対する答えが、自分の教え子が「食える俳優になって貰いたい」ですか、あまりにも突然の陳腐さで言葉を失いました。結論が個人的な関係の二人の若い女優の上昇のための提案なのですから、正直言って呆れました。残念ですが、わたしには貴兄の弁は後追いのいい訳めいた詭弁にしか聞こえません。
最後に、わたしの率直な感想として、プロの現場でご活躍中のベテランの新井純さんや、中川安奈さんらとの競演体験ほど若い俳優には財産になると思います。若い俳優は、演劇に向き合うしっかりした姿勢を学んだ事と思います。わたしには、彼女らはこうした実力ある女優に見劣りせずにしっかり向き合いながら、巧みにアンサンブルを作っていたように見受けられました。大岡さん、役者が着実に成長していくというのはこのような座組での芝居づくりを経験し、実力を付けて行くのものなのです。それが俳優にとって本当の成功なのですよ。わたしには、作品作りの根底に、このカンパニーがこうしたやり方で、意識的に役者を育てていこうとする姿勢を感じ取ります。貴兄にはどうもそれが見抜けないようですね。
これ以上の議論は不毛と判断し、これにてわたしの書き込みは最後にします。