青山円形劇場プロデュース「CLOUD-クラウド-」

◎透明なゴミ袋のような雲のなかで
 中尾祐子

「CLOUD-クラウド-」公演チラシ
「CLOUD」公演チラシ

 役者が台本を越えて、複雑で厚みのある物語世界を構築していく過程を目の当たりにするのは気持ちがいい。その役者の演技が巧みであるならば、なおさら爽快だ。ステージ上に演出家と役者の信頼と挑戦が満ち溢れているならば、もう言うことは何もない。
 そんな舞台に出会えたのかもしれない。表題の舞台で構成・演出を手がけた鈴木勝秀氏が公演終了後、台本を公式ホームページ上で公開した。その台本を読み、いくつか得るところがあって心地よかったのだ。

 第一の理由は舞台は生き物である、ナマモノであるということの再認識を与えてくれたから。セリフは音となり、文字はリアルとなる。文字の羅列として書かれている以上に、書かれていないことを掘り出して、緻密な世界をつくり出している。登場人物の会話、アドリブ、身体言語、表情、手の震え…、台本には指示されていない要素がステージ上には詰め込まれていた。役者は台本に従っているだけではない。台本から自由に飛び立つ。役者に翼を与えているのは演出家だ。演出家は役者に道筋を指し示し、そこから羽ばたかせる。この舞台の台本と実際の芝居との距離を目撃して、舞台とは挑戦をぶつけ合う共同作業であるということを実感させられた。

 第二に実感できた嬉しさは、一緒に考える場を与えられる幸福感だ。問いが投げられる。演出家から、役者から。なぜだろうと疑問が浮かぶ。答えをああでもない、こうでもないと考えを練る。おそらく演出家も役者も知らない、その答えをともに分かち合い求める。同じ場所で同じ時間に同じ空間に閉じこもって、その疑問を“共有している感覚”。これが舞台の魅力だ。そのことも改めて認識させられた。

 役者はたった5人。田口トモロヲ、鈴木浩介、粟根まこと、山岸門人、伊藤ヨタロウという味のある俳優5人だ。

 主人公は「ライフロガー」を名乗る中年のオガワ(田口トモロヲ)。ライフロガーとは「ライフログ」をつづる人間のこと。ライフログのやり方を教えてもらいたいと、オガワを訪ねる若い男エンドウ(鈴木浩介)がいる。刑事のイタバシ(粟根まこと)とウサミ(山岸門人)も、住人のいなくなった公営団地に一人住み続けるオガワを訪問する。オガワにはインターネット上でチェスをたしなむ相手がいる。それが第5の登場人物、アマリ(伊藤ヨタロウ)だ。2人はチェス以外に哲学的な会話も交わす。

 物語の舞台はオガワの住まい。オガワの日課はライフログをつづることだけだ。ブログが自分の日々の言動を他人にも読ませることを目的としてつづる日記なら、ライフログは自分のためだけに自分の日々のデータをひたすら記すだけのインターネット上の記録媒体を指す。ライフログは人の目に触れることを、誰かに思いを伝えることを、人を楽しませることを想定しない。単なるデータの羅列にすぎない、究極の自己満足だ。

「CLOUD-クラウド-」公演の舞台写真
【写真は、「CLOUD-クラウド-」公演から。撮影=加藤孝
提供=こどもの城 青山円形劇場 禁無断転載】

 オガワはライフログを「クラウド」という名のインターネット世界に残している。人間もフロッピーも限界がある。その一方でクラウドは無限だから、クラウドに記録を残せば、自分のデータは無限に生き続ける。ライフログを始めると、モノトーンだった自分の今までがカラフルなものに色づいた。クラウドに自分のデータを残すと、無限を手に入れられたようで、世界中がオガワのために存在しているような気分を味わえた。オガワはエンドウにこう説明する。

 ライフログは他人に読ませる・見られることを想定していないものなのに、クラウドにライフログを残すことで一生記録が残ると安心するオガワ。皮肉さを感じさせる。

 舞台を眺めていると、オガワは存在一つでこの世を生きていると思わせる。ステージには中央にコネクターの付いたブラックな塊、床を走るグレーのコード以外は無い。オガワは本やCD、写真、DVDなどをデジタルに換え、物そのものは捨てたと言う。この舞台の外見のように、生活を匂わせる物が一切無い。

 オガワは自分の思考回路や判断機能さえもコンピューターへ委託する。外部脳を使って思考をデータ化・習慣化することで、決めることも判断することも免れるようになった。思考さえも捨てしまったのだ。人間でいる必要はなくなる。

 そして、オガワを360度囲む無言の観客。それはあたかも、名前も素性も知らないインターネット上の「その他大勢」のようだ。インターネット上に自分のメッセージやデータを残すことは、このように名を持たない複数の目にさらされていることを暗示しているのだろう。ライフログのように一般には非公開のものでも、まったく誰の目にも触れないデータはインターネット世界にありえない。

 実のところ、エンドウもイタバシ・ウサミもライフログの世界だけで生きているオガワの住居を訪ねた。イタバシはオガワがネット上でチェスをしていること、賭け事の裏情報を流していることを知っていた。

 オガワがコードを手に持って、「誰かいますか?」「誰もいない…」と宙に向って問いかける場面が2度ある。ネット上の会話、交流とはまさしくコード一本を手に持って独り立ち尽くし、空に向って話しかける。そんな寂しい光景なのだろう。どこからも返事が返ってこないのに、見ている無数の目はある(この舞台では観客)。でも、一人ぼっち。他人からは容易に見られているけれども、自分からは他人を見ることが出来ない。インターネット世界のそんな関係性を円形という舞台のカタチが巧妙に表わしていた。

 物語の終盤に差しかかり、エンドウは訪問の本当の目的を明かす。自分はハッカーであり、殺人を犯し指名手配されて刑事に追われていることを。他人のブログ、ライフログをあちこち盗み見ていたが、「誰かは誰かのコピーに過ぎない。つまらない」「オリジナルなんてない。特別な人なんていない」と退屈していたこと。
 「でも、オガワさんのライフログは釘付けになった」
 「だって、オレのことなんですもん」

 偶然似てしまっただけと言い張るオガワに向かって、エンドウはまくしたてる。「誰かは誰かのコピーに過ぎない。ではなぜ、オガワさんはオレをコピーしたんですか? 選んだんですか?」と。

 エンドウは続ける。「なぜ奥さんの話を消したんですか?」
 オガワは結婚していたこと、離婚したことは認めている。しかし、「あんな劇的なストーリーは決してない。作り話だ」と主張する。でもエンドウは譲らない。
 「だから、オレはここにやってきた」
 「これから自分はどうなるのか、知りたい」と。

「CLOUD-クラウド-」公演の舞台写真
【写真は、「CLOUD-クラウド-」公演から。撮影=加藤孝 提供=こどもの城 青山円形劇場 禁無断転載】

 エンドウは自分の未来がどうなるか教えて欲しいと他人に尋ねる。自分の未来は他でもない自分が紡ぐものなのに。自分で考えて行動して生み出す出来事なのに。まるで「未来のことを覚えていない」と言っているようで、記憶をデジタルに預けてしまった人の悲しさが垣間見える一言だ。

 オガワは刑事の手からエンドウを匿う。しかし、無事逃げたように思えたエンドウはオガワの元に戻ってくる。オガワは「友達だと思っていたからかもしれない」と、匿った理由を説明する。ところが、エンドウは「病原菌だから、殺す」と確信を持つ刑事のイタバシに撃たれ地に伏す。オガワは銃を手に取るが、イタバシを撃つという意思が固まらない。

 イタバシが高笑いしながら去ろうとしたその間際。倒れたと思っていたエンドウが最後の力を振り絞ってイタバシに銃を向ける。イタバシはあっけなく倒れる。

 この時のイタバシの表情には震えた。俳優、粟根まことの感じ取った、考えたイタバシのあらゆる正負の感情がぎゅっと凝縮されていて、背筋の凍る表情を見せた。だが、この後の場面にも頭をガツンと殴られたような衝撃を受けた。
 台本に書かれている内容は、下記部分だ(斜体字はト書き)。

エンドウ「オレを撃てます?」
オガワ「え…」
 ~中略~
エンドウ「戦場では…戦友が連れて逃げられないくらいの傷を負ったら、無傷の方が撃ち殺してやるのが友情の証なんですよ…置き去りにして、敵になぶり殺しにされないようにね…」
オガワ「…」
エンドウ「やってくれます?」
 音楽。
 エンドウ、銃を拾い上げ、オガワに差し出す。
 オガワ、意を決してエンドウに近づき、銃をつかむ。
エンドウ「ありがとう…」
 エンドウ、そのまま息絶える。

 銃を渡すエンドウとオガワの間で震える空間。声に出さない感情の渦。視線だけで緊張を走らせる2人の表情。あの震える手の指し示す間合いが、筆者の脳裏にこびりついて離れない。「…」や文章と文章の間に、濃密な人間関係が人生が絡み合っている。

 これほどの重厚さを台本のどこから読み解き、表現できるのだろうか。あるストーリーの単なる再現・立体化ではない。濃密な息づかいの詰まった生の世界が、そこには形づくられていたのだ。これが舞台の醍醐味だ。

 この芝居をインターネット世界に奪われつつある人間の自我に対して警鐘を鳴らす内容と解読するのは簡単だ。だが、それは答えにならない。答えは明らかにならない。なぜ? ばかりが浮かぶ。そんな難解さがこの舞台には似合う。

 たとえば、この舞台にはあるセリフが3回登場する。エンドウが読み上げるオガワの単調な食事メニューだ(下記参照)。

「朝。トースト、ソーセージ2本、アメリカンレリッシュ&タバスコ、ラズベリージャム、有機豆乳、野菜ジュース、エスプレッソ。昼。焼きおにぎり(冷凍)、コロッケ(冷凍)、サンペレグリノ。夜。ポトフ、パン、バター、エスプレッソ。」

 1回目は舞台上の第一のセリフとして登場する。舞台で発せられる第一のセリフは、観客に強い印象を残す大事な部分だ。2回目はエンドウが指名手配犯であることが明らかにされた後。エンドウが再びオガワの住まいに現われ、オガワと再開する前に一人でそのメニューを読み上げるのだ。3回目はエンドウが自分の正体をオガワに告白した後、エンドウがイタバシに撃たれる直前の場面だ。繰り返しは強調の表れである。1回目、2回目、3回目と繰り返されるごとに、観客への響き方が変わってくる。なぜ、一見意味のあまり隠れていないような単純なセリフを3度も挿入したのか。

 もう一つ興味深い疑問を挙げたい。
 最後のシーンで、オガワはエンドウの死後、自らビニール袋をかぶる。このビニール袋は舞台開幕の前、膨らまされステージ上に積み重ねられていたものだ。透明の袋の中にはいくつもの球体が詰め込まれていた。袋は軽いのでフラフラ浮き上がって客席に流れ出たり、天井に引っかかったりしていた。それが題名の「CLOUD-クラウド-」を連想させる物そのものだった。舞台の始まる前に存在感を示していた透明のビニール袋を、最後のシーンで主人公に被らせる。何を意図しているのだろう…ワクワクさせるじゃないか。

 オガワがビニール袋を頭からすっぽりかぶり、アマリがステージ中央の黒い塊からコネクターを力強く引き抜く。やがて周囲に街中の雑踏が戻る…。暗転。舞台は終了だ。

 筆者はこの最後のシーンで、オガワが雑音あふれる現実社会に戻っていったと感じた。「友」を殺し、透明の袋=クラウドをかぶるという行為そのものは、閉じこもっていた部屋から外に出るというプラスの意味には結びつきにくい。でも、筆者は前向きなイメージを率直に感じたのだ。

 その一方で、さらなる負の感情がオガワを包み込んでいるようにも思えた。劇中、アマリがオガワに「悲しむことができないのは、愛することがないからだ」と指摘する場面がある。悲しむことも愛することも、隣に他人がいないと成り立たない。自分と同じ境遇を持った「友」、エンドウを失ったオガワは一人ぼっちになった悲しみを感じているのだろうか。ビニール袋をかぶったその姿は、肉体もとうとうクラウドの世界に落ちていったという結末をも連想させた。

 まったく一筋縄ではゆかない芝居だ。でも、考えを膨らませることの楽しさをじっくりと堪能できた2時間だった。

【筆者略歴】
 中尾祐子(なかお・ゆうこ)
 1981年千葉県生まれ、立教大学大学院文学研究科修了。フリーライター。文化人類学専攻。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/category/na/nakao-yuko/

【上演記録】
青山円形劇場プロデュース「CLOUD-クラウド-
青山円形劇場(2011年6月23日-7月3日)
*上演時間は休憩なし、約2時間

構成・演出=鈴木勝秀
出演=田口トモロヲ、鈴木浩介、粟根まこと、山岸門人、伊藤ヨタロウ

照明=倉本泰史
音響=井上正弘
衣裳=小原敏博
美術=原田愛
演出助手=新里哲太郎
舞台監督助手=殿岡紗衣子
舞台監督=安田美知子
宣伝美術・Web=永瀬祐一
写真=西村淳
舞台写真=加藤孝
制作進行=相場未江
制作=大島尚子
協力=マッシュ、シス・カンパニー、ヴィレッヂ、オフィス鹿、エアー・パワー・サプライ、オフィス新音、二村

周作アトリエ、BAT DESIGN
企画・制作=こどもの城劇場事業本部

全席指定・日時指定
料金 4,800円(全席指定・消費税込み)


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