◎ニッポンのからだ―KYOTO EXPERIMENT2011報告(第3回)
水牛健太郎
三回目の今回は、5日から10日までの間に見た公式プログラム3本と、フリンジ2本を取り上げる。
まずはフリンジの1本、岡崎藝術座の「街などない」。元・立誠小学校の一室の大きな本棚の前に4人の若い女性が、光る生地を使った衣装を着て座っている。そのうちの1人が、かなり露骨なセックスに関する話を他の女性に対して仕掛け、渋々ながら話に乗ってくる人がいたり、黙っている人がいたりと様々だが、最後近くまで延々と続く この「ぶっちゃけガールズトーク」が作品の基調を成す。
その合間に、女性の1人浜子が突然「大地の母」を名乗り、3人の「娘」に領土を分配する、というプロットが「リア王」を引用する形で演じられたり、ジュネの「女中たち」の一節が演じられる。また、原爆開発に貢献した物理学者オッペンハイマーの伝記(『オッペンハイマー 「原爆の父」と呼ばれた男の栄光と悲劇 』PHP研究所)の引用が読まれる。そして、ぶっちゃけ話の合間に「1500歳」など異常に長い時間が登場したり、背後に別の位相が存在するというシグナルが発せられ続ける。全てが宙吊りになっているような不思議な感触の作品で、「芝居」と「ごっこ」と「日常」の間の細い隙間を縫っていく感じがした。
終演後確かめたいことがあって台本を買った。果たして思った通りで、女性たちの「ぶっちゃけガールズトーク」は一字一句すべて台本に書かれており、一見「アドリブ風」のところも含めて、アドリブは一言もなかった。この作品は、若い女性たちがぶっちゃけ話をしながら「大地の母」や「女中たち」を演じているのではない。若い女優たちが「ぶっちゃけ話をしたり、『大地の母』や『女中たち』になったりする若い女性たち、に見えてその実なんだかわからないもの」を演じているのだ。いうまでもなくその「なんだかわからないもの」は、女優たち自身とは全く別の何かなのだ。私たち全ての中にあって、この女優たちの中にもあるが、しかし女優たち自身と決して混同してはならない何か。その「なんだかわからなさ」を正確に表現するために、きっちりと書き込まれた台本があり、精妙なバランスを取った演出もあると見えた。
マルセロ・エヴェリン他の「マタドウロ(屠場)」は、8人のダンス、というかパフォーマンスだった。比較的単純な構成で、最初に山猫のマスクをかぶった男性が太鼓を叩いて登場。続いて7人のとりどりのマスクをかぶった男女が登場し、講堂の入り口横で山猫は観客側、他は壁側を向いて服を脱ぐ。下半身も含め、素っ裸になる。8人はそれぞれ身体のどこかにノコギリをガムテープでくくりつけている。山猫以外のメンバーも2本のノコギリをこすったり、ブタの鳴き声のような音を出す道具を持っていたり、警笛を吹いたりと、それぞれに鳴り物を持っていて、10分ほど合奏する。雑踏の喧騒を思わせる音響だ。
それから8人は、講堂をぐるぐると輪になって走り始める。長い。延々50分ほども走るのだ。ところどころ手を上げてみたり、2人の男が手をつないだり、ニワトリのような走り方をする人がいたりと、変化が全くないということはできない。そうはいってもやはり長い。彼らの体力には驚く。40分以上も走り続けてなおトンボを切る人がいたり、全員で声を合わせて歌ったりする。息が切れる様子もない。凄い。しかしやはりちょっと単調だ。最後に8人はマスクを脱ぎ、観客に向けて横一線で立った。マイクから息の音だけが響き、間もなくそのまま退場した。何か胸をつかれるような感じがした。
どうしても意味を探したくなるような公演だったし、それらしい意味を付けるのは難しくないだろうが、それはあえてしない方がよいと思う。そして、退屈であったのも否定しない。文脈が分からないせいかもしれないし、単にわたしの感性が鈍いのかもしれない。ブラジルはあまりにも遠い。先のことは分からないが、たぶん私は一生ブラジルに行けないだろう。そんなに遠い、地球の裏のダンスが簡単に分かってもつまらない。「何か変なの見たなあ」というぐらいに思っておきたい。
モモンガ・コンプレックスの「とりあえず、あなたまかせ。」は元・立誠小学校の自彊室という部屋で行われたが、この部屋がすごかった。六十畳の和室で、部屋を取り囲むガラス窓の趣深さと言ったらない。なんでこんな部屋が小学校にあったのかわからないが、しみじみと京都の底力を感じる。
この部屋に緋毛氈を敷いた白神ももこたち5人のダンサーは、和風のお座敷遊びの趣向で軽やかに遊んでみせた。しかし白神の解釈した「和風」とは、何か意味の分からない所作を、「はっ」とか言いつつ、きばって決めてみるというのに近い。それらしく決めてはいるけれど、「和」を装えば装うほど、実際の「和」との距離があらわになる。ダンサーの衣装も和服なんかではもちろんない。和柄のパンツなのだ。生演奏の音楽も、実はガムランだったりするのである。
つまり、このパフォーマンスは本当の「日本の伝統」とは何の関係もない。もちろん白神自身もそのつもりで、その距離と戯れたのである。京都のど真ん中の立派な和室でこんなパフォーマンスをするのは、十年早ければ「怖いもの知らず」と言われたかもしれないが、今は怖いものなど、もうどこにもないと誰でも知っている。「日本の伝統」自体が、いったん切れたところから再解釈されたものであり、京都ですら、ほとんどはそうなのだ。それを見切った上での白神の仕掛けである。可愛らしくて楽しいのに、たじろぐような批評性を秘めたパフォーマンスであった。
翌日、京都芸術劇場春秋座での笠井叡「血は特別のジュースだ。」では、モモンガ・コンプレックスのパフォーマンスにはなかった「日本の血」が、ソーダ・ファウンテンよろしく噴き上がっていた。低く構えた腰を軸にした手足の動き。すり足。メンバーがEXILEのような黒服だろうと、白塗り白ドレスのお姫様スタイルだろうと、漂うのは強烈な「和」臭であった。この公演には現代資本主義に対する批判というテーマ性もあるようだったが、それは正直なところよく分からなかった。万札で舞台がいっぱいになる(アフタートークでの笠井の発言によれば、本物なら10億円に相当するというから、10万枚ということになる)という演出もあり、それは面白かったけども。舞踏に対する私の無知もある。不勉強を反省したい。
同じ日の夜、KIKIKIKIKIKIは20代半ばの女性3人によるダンスユニット。それぞれ「小さい」「大きい」「太っている」という身体的特徴があり、いかにもダンサーという身体からずれている。今回の作品「ちっさいのん、おっきいのん、ふっといのん」は3人が昨年から今年にかけて書いたブログ記事を、当てぶり的な動きを用いながら再構成したものだが、そうした私小説ならぬ「私ダンス」的な内容が、「ふつうの女性」のイメージをまとった3人の個性とうまくマッチしていた。3人という人数もあって、ニッポンの女性の身体性についてのドキュメンタリーのようにも見えた。3人が日本女性代表のように感じられたのは、どういうわけか外国人の観客がこの公演にたくさん入場してくるのを見たせいもあるだろう。
強く感じられたのは、自意識の複雑さと、からだとの絡み合いである。冒頭、3人はアイドル風に、語尾を伸ばして自己紹介する。次に1人ずつ事前に録音した自己紹介を流しながら踊るのだが、同じ人なのに声の高さが1オクターブも低くて驚く。そっちの方が大人の女性としてごく当たり前の声なのだが、踊る彼女らが急に見知らぬ人たちに見えてきて不気味になる。そしてそれは紛れもなく事実なのだ。私はこの3人のことを何も知らない。
彼女たちの身体はいかにも軽やかで、自由で楽しげで、それと裏腹に頼りなく、そしてどこか煮詰まっていて閉じられてもいる。複雑に絡み合った自意識でがんじがらめになった身体。唐突に『マタドウロ』のパフォーマーたちの走る姿が脳裏に蘇る。そう、今私の目の前にある3人の身体は、あのブラジル人たちの身体とちょうど正反対のものに見えるのだ。
作品の白眉は、終盤、3人がそれぞれの母親の若いころの服を着て踊る場面だ。それぞれの母親のプロフィールを紹介し、母親を尊敬している、だから母親の服を着て踊るという彼女たち。着替えて舞台に登場した3人は、急に老けて見える。30年ほどの間に、20代女性に対する役割期待は大きく変化している。プロフィール紹介でも語られたように、彼女たちと同じ年齢の時、母親たちは皆結婚しており、子供を生んでいた人もいた。25歳の女性を売れ残りのクリスマスケーキにたとえる言い回しがまだ生きていた時代である。
母親の服を着た彼女たちの踊りはゆっくりとしており、何だか苦しげで、不自由で、彼女たちが母親の人生に対して持っているイメージが決して明るいものでないことを物語っている。主宰のきたまりは腰を落とし、摺り足でゆっくりと歩く。伝統的な日本人の身体が突然出現する。何という暗さだろう。そう、本当の伝統は、決して楽しくも明るくもない。そこには日本の社会と身体が抱える深い矛盾が、図らずも表出していた。
【筆者略歴】
水牛健太郎(みずうし・けんたろう)
ワンダーランド編集長。1967年12月静岡県清水市(現静岡市)生まれ。高校卒業まで福井県で育つ。東京大学法学部卒業後、新聞社勤務、米国留学(経済学修士号取得)を経て、2005 年、村上春樹論が第48回群像新人文学賞評論部門優秀作となり、文芸評論家としてデビュー。演劇評論は2007年から。2011年4月より京都在住。元演劇ユニットG.com文芸部員。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/category/ma/mizuushi-kentaro/
【上演記録】
KYOTO EXPERIMENT2011(京都国際舞台芸術祭)
▽岡崎藝術座『街などない』
作・演出・美術 神里雄大
出演 上田遥(ハイバイ) 坂倉奈津子 斎藤淳子(中野成樹+フランケンズ) 石澤彩美
元・立誠小学校 職員室(2011年10月4日-5日)
[音響] 高橋真衣
[舞台監督] 佐藤泰紀
[衣裳] 天神綾子
[制作] 急な坂スタジオ
[製作] 岡崎藝術座
[助成] セゾン文化財団
チケット料金 前売2,000円 当日2,500円
▽マルセロ・エヴェリン/デモリションInc.+ヌークレオ・ド・ディルソル『マタドウロ(屠場)』
元・立誠小学校 講堂(2011年10月7日-8日)
上演時間65分
クリエーションメンバー:アレキサンドラ・サントス、アンドレ・リーン・ジッゼ、シポ・アルバレンガ、ファガオ、ファビオ・クレージー・ダ・シルヴァ、イザベル・フロタ、ジャープ・リンディジャー、ジェイコブ・アルヴス、ジョシュ S、ラヤネ・ホランダ、マルセロ・エヴェリン、レジーナ・ヴェロソ、セルジオ・カダー、シルヴィア・ソテ
助成: FUNARTE Grant(2008年)、SIEC/FUNDAC(ピアウイ州文化振興助成)
製作:ヌークレオ・ド・ディルソル・スタジオ(テレジナ、ピアウイ州)、アムステルダム・ヘットヴェーンシアター レジデンスプログラム、リオ・デ・ジャネイロ振付センター
共催:立誠・文化のまち運営委員会
主催:KYOTO EXPERIMENT
チケット 3,000円(一般)2,500円(ユース[25歳以下]・学生)1,000円(高校生以下)
※16歳未満入場不可、一般/ユース・学生券は、当日500円増。
関連イベント
ワークショップ
「マルセロ・エヴェリン ワークショップ」
日時:10月11日(火)・12日(水)
会場:京都芸術センター 講堂
レクチャー
「ブラジルパフォーミングアーツの現在」
日時:10月9日(日)13:30‐15:30
会場:flowing KARASUMA 2F
▽モモンガ・コンプレックス『とりあえず、あなたまかせ。』
元・立誠小学校 自彊室(10月8日-10日)
構成・演出・振付 白神ももこ
出演 北川結・夕田智恵・眞嶋木綿・東山佳永・白神ももこ
音楽 やぶくみこ
チケット料金 2,000円(前売・当日共)
▽笠井叡『血は特別のジュースだ。』
京都芸術劇場 春秋座(京都造形芸術大学)(10月10日)
上演時間 70分
演出・構成・振付:笠井叡
出演:笠井叡、笠井禮示、寺崎礁、定方まこと、鯨井謙太?、大森政秀
舞台監督:松下清永(松下清永+鴉屋)
音響:角田寛生
照明:森下泰(ライトシップ)
制作:花光潤子
共同製作:KYOTO EXPERIMENT
主催:KYOTO EXPERIMENT
ポスト・パフォーマンストーク ゲスト:萩尾望都(漫画家)
料金・チケット 3,500円(一般)、3,000円(ユース[25歳以下]・学生)、1,000円(高校生以下)
※全席指定 未就学児入場不可 一般/ユース・学生券は、当日500円増。
▽KIKIKIKIKIKI『ちっさいのん、おっきいのん、ふっといのん』
京都芸術センター 講堂(2011年10月9日-10日)
上演時間85分
ポスト・パフォーマンストーク-10月9日(日)終演後
トークゲスト: いしいしんじ(作家)
作・脚本・演出・振付:きたまり/出演:きたまり、野渕杏子、花本ゆか/
舞台監督:浜村修司/音響:小早川保隆/照明:魚森理恵/
助成:アサヒビール芸術文化財団/
製作:KIKIKIKIKIKI /
共同製作:KYOTO EXPERIMENT
主催:KIKIKIKIKIKI 、KYOTO EXPERIMENT
チケット 2,500円(一般)、2,000円(ユース[25歳以下]・学生)、1,000円(高校生以下)
※一般/ユース・学生券は、当日500円増。