世田谷パブリックシアター「現代能楽集 VI 奇ッ怪 其之弐」

◎<劇的>なるものの威力
 高橋 英之

「現代能楽集VI『奇ッ怪 其ノ弐』」公演チラシ 「このあとすぐ、アレが、この村を襲ったんだよ」

 このセリフと同時に、全ての光が失われ、音が止み、舞台の上で繰り広げられていた希望あふれる村の祭りの準備の雰囲気がたちどころに消え、正に、<劇的>なるものが降臨した。
 劇作家・木下順二は、<劇的>なるものの効果として、「逆転を伴う発見」ということ指摘している。能の物語ではなく構造そのものにチャレンジした前川知大の『現代能楽集』は、紛れもなく<劇的>なるものを舞台に立ち上げた。死者として舞台に立つシテと、その姿をひたすら見守ることによって魂の救済を試みるワキ。死者と生者の出会いとなる前場と、死者たちの記憶の場を呼び覚ます後場。この夢幻能の構造の力を借りて、前川知大は衝撃的な「逆転を伴う発見」をもたらしてくれた。

 舞台は、5年前の、災害で有毒ガスがあふれ壊滅状態となった村。いまでは亡霊たちが徘徊する村の神社に、諸国一見の僧ならぬ神主の息子・矢口(山内圭哉)が久しぶりに戻って来ることからこの物語は始まる。災害のときすでに村を離れ、都会で難を逃れたまま、心のどこかに罪悪感を宿してきたらしいこの男は、廃墟の神社で、山田と名乗るホームレス(仲村トオル)に出会う。どうやら、山田はただの浮浪者ではなく、この村に残された亡霊たちの話相手、いわばワキを任じているようだ。そこへ、村を再開発するための調査をしているという橋本(池田成志)と曽我(小松和重)が登場し、山田は亡霊たちのことを説明するために3つのエピソードを語り出す。

 一つ目のエピソードは、交通事故で子供を亡くした母親が、その死を受け入れられず、子供から移植された臓器をもつ人間を探し求めるという話。最後には、「お母さん、俺、大丈夫だから」という息子からの声を聞くという不思議な現象に遭遇して、母親は立ち直る。ワキたる山田は、「ちゃんと、気にしてあげるだけでいいんだよね」と矢口に説明するのだが、まだワキとしての役割を理解していない矢口には何のことだか分からない。

 二つ目のエピソードは、暴行現場を見て見ぬふりした男が、植物人間となってしまった被害者の生霊に取りつかれるという話。いたるところでその生霊は立ち現われ、ついには家の中にまで入り込んできた。「関係ないじゃん」という付き合ってる彼女の言葉に同調しつつ、男はやがてその罪悪感に耐えきれず「逮捕して下さい」と交番に駆け込む。「生霊は、罪悪感につけ込む」という山田の説明に、どうしたらよいのかわからない男は、やがて万策尽きて、ただ病室のベッドに寄り添い、首をうなだれ、耳を澄ます。すると、生霊は立ち去り、植物人間は生還する。ワキたる山田は、ここでは何も説明しない。まるで、新参者のワキとしての矢口に、「これで、ただ聞くということがもつ力を理解できただろ?」とでもいうように。

 三つめのエピソードは、妻の話をろくに聞かないでいるうちに、妻が鬱病となり精神病院の中でついには自殺するという悲劇に遭遇した男の話。妻の死後、彼は、「聞く」ことに、がむしゃらに取り組もうとする。最初は、悩みを持つ人たちのための電話相談室のボランティアとして、そして電話をかけてきた女性に対してのニセ医者として。結局、本当に耳を傾けることができなかった男は、災害が起こったこの村の滝壺で自殺を図るが、山田に救われた。ワキとしての山田がしたことは話を聞くだけ。それだけ。山田は説明する。「話を聞くだけ、それだけでも、よかったりするんですよね。」

「奇ッ怪 其ノ弐』」公演の舞台写真1
【写真は、「現代能楽集VI『奇ッ怪 其ノ弐』」公演から。撮影=石川純
提供=世田谷パブリックシアター 禁無断転載】

 「聞く」ということがもつ不思議な力を、おぼろげながら理解し始めた矢口の前に、奇妙なことが起こる。村の再開発の調査をしにきた2人の男が、立ち去ったと思った途端、またその2人が、最初と全く同じパターンで、「こんちわー」という声を発しながら、舞台奥から登場してきたのだ。ここに至って、この2人の男たちが、能楽のシテであったことが判明する。つまり、彼らは死者であったのだ。亡霊たるこの男たちを目の前にして、言葉を失う矢口の前で、この2人の男は、また立ち去り。そして、すぐに「こんちわー」という能天気な挨拶で三度目の登場。ワキを任じる山田は、全く動じていない。むしろ、積極的にその繰り返しに付き合おうとしている。同じ話を何度でも聞こうとしている。ついに、矢口は、自分から亡霊たちに声をかける。「ま、ゆっくりとしていって下さい」。話を聞くということの力を、そしてワキとしての役割を、ようやく理解し始めた矢口に、満を持してという面持ちで、山田が語り始める。「この神社の話をしようか」と。場の持つ記憶を静かに見守るワキとしての役割を矢口に譲り、災害が起こる直前の神社で、山田はいまは亡き矢口の父親を自ら演じ始める。

 ここからが、この前川知大の新境地。3つのエピソードを並べてみせて、能楽のカギであるワキの存在と、その「聞く」ことの力をテーマとして、死者たるシテの存在とからめて得意のSF的な展開してみせれば、それだけでも十分に面白い作品になっていたに違いない。普段の劇団員たちとは違う役者と、舞台美術(堀尾幸男)をはじめとしたプロ中のプロのスタッフたちが盛り上げる中で、特に追加の工夫などなくても、十分に、さらに大きく成長したと評価される作品になっていたハズなのだ。

 しかし、前川は、あえてその先の挑戦をしてきた。能楽のもつ構造そのものに、あえて自由度を奪われる形で、能としての後場に挑んできた。そして、それは、見事に成功していた。おそらく、この『現代能楽集』のシリーズ最高傑作として。

 舞台は、時が変わって、5年前の神社。夏祭りの準備に追われる村人たちが、楽しそうだ。久しぶりに帰郷してきた青年は、恋人を連れてきた。この村で8年ぶりに赤子をもうけるという。若者と娘は、村で真剣に農業に取り組む希望を語る。縄が張られ、紙垂が掛けられる。酒屋の青年は、いままで売れなった地酒をネットで直販して、手ごたえを感じている。幟が立てられ、神棚が飾られる。その一挙一足を、静かに見つめるワキとしての矢口。そこにいる皆が、「これから」を語る。山田が演じる神主、すなわち、矢口の父は、そのことをことさら確認するように、「これから」について論じる。美しい棚田を観光資源にし、おいしいこの村の米を、どんどんネットで直販する。組合なんか通さないで、これらは独自の販路を開拓するのだと。そして、その場にいた皆が笑顔で答えた時、突如として、冒頭で紹介した<劇的>なシーンが舞台を襲う。

「このあとすぐ、アレが、この村を襲ったんだよ」

 暗転のあと、「これから」があふれていた場は、朽ち果てた廃墟となっている。ワキたる矢口は、その場に立ちすくむ。「これから」を語っていた村人たちの、動作をひとつずつ思い出す。その場に記憶された亡霊たちの所作をなぞってみる。

 この<劇的>なシーンは、舞台芸術が、戯曲というような文学の一部としてではなく、正しく、音と、光と、所作と、美術と、セリフと、その場のもつ空気が融合されて立ち上がる総合芸術であることを改めて確認させてくれる。そして、それは、能の構造が<劇的>なるものを舞台空間に降臨させる装置として、十二分に威力を発揮した瞬間でもあった。

「奇ッ怪 其ノ弐』」公演の舞台写真2
【写真は、「現代能楽集VI『奇ッ怪 其ノ弐』」公演から。撮影=石川純
提供=世田谷パブリックシアター 禁無断転載】

 実は、この作品を2度観た。2度目は、<劇的>なシーンのセリフが発せられるずっと前から、鳥肌が立ち、思わず涙さえ流れてきた。そして、その情緒的な人間としての自分の反応に驚きながら、前川知大がこの作品の中に密かに仕組んだもうひとつの、いわば隠しテーマに気がついた。それは、<劇的>なものがもつ威力と同時に怖さ。人は、この<劇的>なもので、全てを御破算にして、ひとつの悲劇としてこの村の物語を理解してしまうことができてしまう。それは、自分自身がそうなってしまったことからも明白だ。<劇的>なものは、すさまじいパワーを持っている。しかし、2度目の観劇で、気づかされてしまった。この村はどの道滅びる運命にあったことを。
 「これから」を語る人たちのアイデアは、冷静に振り返ればどれも陳腐なものにすぎず、その程度のことで村を救うことなどはできないようなものだった。結局、神主の息子は村を捨てたのだったし、村には8年間も子供が生まれなかった。その神主も収入が途絶えつつあったのだ。地方と呼ばれるいくつもの場所で仕事をし、その疲弊ぶりを、今回の東日本大震災のはるか前から身をもって感じてきた自分には、そのことが悔しいほどよくわかる。「これから」として語られたことは、いまこの瞬間に、また、どこかの村や町で語られ、結局のところ実を結ばないようなものにすぎないのだ。
 それが証拠に、「5年前」のこの神社の惨劇とは別に、「4年前」に駐車場の毒ガス事故で死んだシテたる2人の男たちは、この村の復興のために、もはや祭りの準備の場で語り交わされたような地道な努力をしようとはしていなかった。それは、「温泉」や「地熱発電」で一発あてようとするギャンブル。ちょっと思いついたようなアイデア程度のことでは復興などできるはずもなかった村、結局は、大した努力などなく幸運が舞い込むことを待つだけの村。それが、<劇的>なものによって、一瞬のうちに「これから」があふれていた美談の場に変わってしまう。それは、ニセモノに過ぎないのだと。そんなアイロニカルなメッセージを、前川知大は密かに滑り込ませてきた。自分には、どうにもそんな風に思えてならない。その複雑なるメッセージの伝え方こそが、能楽が数百年たっても残そうとしている威力でもあり、木下順二が指摘した「逆転を伴う発見」を自分にもたらしたものなのだ。

 この作品は、これから能楽堂に初めて足を向ける人間を間違いなく増やしたと思う。<劇的>なるものを生み出す装置としての能そのものを、生まれて初めて、観てみたいと感じた演劇ファンは、自分だけではないはずだから。
(観劇日:2011年8月26日)

【参考文献】
木下順二『“劇的”とは』(1995年)
梅若猶彦『能楽への招待』(2003年)
安田登『異界を旅する能-ワキという存在』(2011年)
久繁哲之介『地域再生の罠-なぜ市民と地方は豊かになれないのか?』(2010年)

【筆者略歴】
 髙橋 英之(たかはし・ひでゆき)
 1963年生れ。京都府出身。マサチューセッツ工科大学修士。現在、ビジネスパーソン。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/category/ta/takahashi-hideyuki/

【上演記録】
 世田谷パブリックシアター「現代能楽集VI『奇ッ怪 其ノ弐』
 世田谷パブリックシアター(2011年08月19日-09月01日.)

[作・演出]前川知大
[出演] 仲村トオル/池田成志/小松和重/山内圭哉/内田 慈/浜田信也
/岩本幸子/金子岳憲
[企画・監修]野村萬斎
[美術]堀尾幸男
[照明]原田保
[音楽]寺田英一
[音響]青木タクヘイ
[衣裳]伊藤早苗
[振付]平原慎太郎
[ヘアメイク]宮内宏明
[演出助手]谷澤拓巳
[主催] 公益財団法人せたがや文化財団
[企画制作] 世田谷パブリックシアター
[企画協力] イキウメ エッチビイ
[協賛] トヨタ自動車株式会社/Bloomberg
[協力] 東京急行電鉄/東急ホテルズ/渋谷エクセルホテル東急
[後援] 世田谷区
平成23年度文化庁優れた劇場・音楽堂からの創造発信事業

一般 S席6,500円/A席4,500円


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