◎お祭りシェイクスピア-スタジオライフ版シェイクスピア喜劇
吉田季実子
2006年以降、1年に少なくとも1回はシェイクスピア作品の上演を行っている劇団スタジオライフは今年、『夏の夜の夢』と『十二夜』の2作品を上演した。いずれも再演ではあるが、キャストも一部変更しており、『夏の夜の夢』ではさらにWキャストでの上演だったために、合計3パターンの公演が期間内に繰り返されることになった。これは劇団のシェイクスピアシリーズにおいてははじめての試みである。
この上演形式に関して、演出家である倉田淳はレパートリーシステムが今回の上演のテーマの一つであるとプログラムの中で言及している。役者がすべて男性であり、かつレパートリー制での上演というのは16世紀に劇作家ウィリアム・シェイクスピアが実際に戯曲を書いていた時代での上演形式の踏襲にほかならない。
再演、あるいは再々演であった今回の公演では、衣装および舞台装置のデザインを宇野亜喜良に委託した。一種サイケデリックな色使いを伴う宇野の衣装にあわせ、メイクもデザイン画に近づけるように施されていたためであろうか、以前の公演よりもより濃く、鮮やかなものになっており、背景ともども宇野の世界観が舞台上に構築されていたといってよい。
装置に関しては、両作品で共通の積み木上のパーツを組み替えるかたちとなっており、いずれもほとんどの場合は登場人物たちがかなり高い装置の上によじ登って立ち、さらにはそこから飛び降りるなどのアクションを伴うことで、祝祭の前夜を舞台とする二つの喜劇における騒乱の空気をそのまま客席に伝えるのに役立っていた。
『十二夜』の舞台はエピファニーの祭の前夜に設定されている。嵐で難破したヴァイオラとセバスチャンの双子は離れ離れになり、一人になったヴァイオラは男装して公爵オーシーノーに仕え、シザーリオと名乗る。女役のスタジオライフの俳優が男装する役を演じるところに二重の性の逆転がある。
オーシーノーが想いを寄せる令嬢オリヴィアのところに赴いたシザーリオにオリヴィアは一目ぼれしてしまい、オリヴィアの叔父のサー・トービーや侍女のマライア、執事のマルヴォーリオも加わっての大騒ぎになる。
セバスチャンが無事に帰還することで事態は一件落着し、オリヴィアはセバスチャン、サー・トービーはマライアと結ばれ、シザーリオはヴァイオラに戻ってオーシーノーへの恋を成就させる。
『十二夜』は2回目の上演で今回はシングルキャストだったが、冒頭の嵐の場面から装置の積み木が崩れ組み替えられることで船が難破し、ヴァイオラが遭難するまでが描かれる。
嵐の後、暗い船の残骸の後ろから登場する道化のフェステ(石飛幸治)には片腕がない。もちろんそのことについては最後まで触れられないのだが、この片腕のフェステが歌うバラード調の「人生は雨と風」が、しだいに明るく転調されて人々のにぎやかな総踊りにつながる。祝祭における明るさと表裏一体の得体の知れない暗さ、馬鹿と呼ばれ、笑いを人々に提供しながらも往々にして真実を見極めるという立ち位置をもつ道化の身体上の障害の描かれ方は、この喜劇の笑いが一筋縄でいかないことを感じさせる。
スタジオライフで女役を演じる役者は、歌舞伎や宝塚歌劇のように本物に肉薄し、あるいは超越するように異性を演じるわけではない。あくまでも男性の部分をのこしつつ女性を演じるのであり、当然観客も違和感を覚えることもある。今回のような喜劇ではその違和感が笑いを誘う原因のひとつともなっていたのであり、言うなれば観客はシェイクスピアの時代の観客たちがオリジナルの上演を見て感じていた違和感と笑いを追体験しているのである。
『十二夜』においてヒロインのヴァイオラが男装するというのはまさに異性装の劇団にとっては格好の題材である。しかし、それだけでなくアントーニオからセバスチャンへの恋情、シザーリオに迫るオリヴィアなどさまざまな恋愛模様が、オール男性キャストだからこそ生き生きと描かれている。
大団円に3組のカップルが誕生する中、アントーニオ(岩崎大)は一人、喜びの輪からはずれて沈んだ様子を見せる。この演出はしばしば指摘されている、セバスチャンとアントーニオの間の同性愛を示唆するものである。
また、兄の喪に服す貞淑な令嬢として描かれることの多いオリヴィア(及川健)は突然現れた美青年を何とか振り向かせようとする強気な女として登場していることは、及川の活発な動きからも一目でわかるようになっている。その一方で才気煥発な侍女のマライア(林勇輔)に関しては、身分違いながらも真剣にサー・トービー(笠原浩夫)を愛するけなげな女性として表現されている。
これらの原作のキャラクターからの書き換えはセリフよりも役者の演技によって表されている部分がほとんどである。
積み木型のセットの側面はピンクとブルーに塗り分けられており、舞台上では入れ子構造になっている性差が実は表裏一体のものにすぎないということを示唆しているかのようである。あえて女役を女らしく演じないことが原作以上に舞台上で表現されるキャラクターに滑稽味だけでなく現実味を与え、さらには「女らしさ」「男らしさ」とはいったい何なのだろうかという疑問すらも観客に投げかけるところにこの上演の成果がある。
筆者が観劇したのは初日であったため、初日ならではのハプニングもあった。サー・トービー役の笠原のズボンがアクションの最中に破けてしまって、客席は大笑い、舞台上でもそれにちなんだアドリブが飛び交った。作品が喜劇ということも幸いし、実によいハプニングであったのではないかと思われる。
シェイクスピアによる戯曲は西洋演劇の古典作品として、特に日本ではある程度の権威をもって受け止められる傾向があるが、そもそも創作年代当時においては整った台本があるわけでもなく、庶民が楽しめるエンターテイメントであったはずなのだ。堅苦しくありがたがるだけではなく、その場で同時的に起きていることをそのまま舞台上で展開されるプロットとともに大いに楽しめばよいのである。
オール男性キャストによる上演というだけでなく、笑いのあり方についても過去にタイムスリップしたかのような感覚を味わえたのは幸運だったといえる。
今回3回目の上演になる『夏の夜の夢』では特に異性装の物語は登場しないが、劇中劇が大きな比重を占めている。
シーシュースとヒポリタの婚礼の前夜、ライサンダーとハーミアは親の決めた結婚に逆らって森へと駆け落ちするが、ハーミアの婚約者のディミートリアスと、ハーミアの親友で彼に片思いのヘレナも後を追ってくる。4人の男女は妖精王オーベロンと妃のティターニアの諍いのとばっちりで妖精パックの魔法に翻弄される。最後には無事に2組のカップルが出来上がり、領主たちとともに婚礼に臨むことになる。
外枠の領主の結婚のプロット、そしてその余興の『ピラマスとシスビー』は4人の恋人たちの物語と比べしばしば軽視されがちだが、スタジオライフ版の『夏の夜の夢』では職人たちの劇中劇とアマゾンの女王ヒポリタにスポットが当たっているのが初演以来の特徴であり、特に劇中劇に関しては野次によって中断されることも省略されることもなく、本来は滑稽なものとして描かれている場面がシリアスに続行されるのは極めて珍しい。
そしてその悲劇的結末をみたヒポリタが心を打たれて自らを夫のシーシュースから遠ざけていた戒めを解いて夫に抱き付く演出は、ヒポリタが虜囚であるという点を強調することにもなっており、しばしば外枠として軽視されがちなシーシュースとヒポリタの婚儀が、男性が暴力的に女性を支配する結婚だということを示唆している。
終幕にパックが口上を述べた後、セットを裏返すと接吻する男女の顔が現れる仕組みになっているが、一見異性愛を寿ぐ祝婚歌のような結末であっても、そこに至るまでの過程の複雑さを見せつけられた後では素直に納得できないのもこの芝居の計画のうちかもしれない。
外側に位置するシーシュースとヒポリタの物語と内側に位置するピラマスとシスビーの物語がシリアスであるのとは対照的に、メインプロットとして解釈されがちな森の中での2組の恋人たちの物語はとことんコメディーとして演出されている。
舞台上には積み木型のセットが高く積まれ、その間を移動できるように天井まで何本もの登り棒状のカラフルなポールが伸びているが、スタジオライフの役者たちはその身体能力を最大限に使って器械体操のようにセットの間を飛び交っている。
特にハーミア(岩崎大)とヘレナ(坂本岳大)はいずれも男役以上に大柄な役者が演じており、小柄などの原作にあるような身体的特徴にはあてはまらない。しかしその反面、原作にも共通する女役を男性俳優が演じていることへの楽屋落ち的な言及が随所に見られた。このニュアンスを体現できるのは、ひとえにスタジオライフが本物と同等、あるいはそれ以上に「女らしい」女役をあえて作ろうとしていないことによる成果であり、おそらくそれはシェイクスピアの時代に通じる笑いだというのは前述したとおりである。
特に今回のハーミアとヘレナは非常に暴力的であった。魔法にかけられた後の森の中での二人の争いのみならず、パックに翻弄されて同時にヘレナを愛することになった二人の男たちに向けての彼女たちの暴力はプロレスの技のようにフィジカルなものであり、その前にはヒポリタを従わせるシーシュースの政治的暴力などはかすんでしまう。
この芝居の中で笑える部分/笑えない部分があるように、演出家は笑える暴力/笑えない暴力を描き分けている。
筆者が観劇したのが千秋楽であったことも一因かもしれないが、出演者自身が笑ってしまうほどの体力の限りを尽くした大騒ぎの後で、しばしばドタバタのコメディーとして解釈されがちな劇中劇がシリアスに上演され、ヒポリタの解放につながるというのはやはり奇異な印象を受ける。2組の恋人と妖精たちの物語は魔法の影響下にあり、人間たちの本能が噴出した一夜ととらえることもできる。
それに対し外枠の結婚と劇中劇は魔法の影響を受けていないからこそ、魔法から醒めた恋人たちによって客観視される出来事になる。したがって大騒ぎの夜が明けた翌朝、結婚式の余興にしてはあまりに暗すぎる劇中劇が上演され、それを目の当たりにしたヒポリタが夫への愛を表明する決意をするという結末は、外枠のカップルの結婚に暗い印象を与えている。
笑える暴力の物語は魔法が見せた夢として処理されても、笑えない暴力の物語は現実からは消えない。父親によって強いられたハーミアの結婚という暴力は、魔法の力を借りて解決することができた。次にヒポリタに必要なものは自らの置かれている場所を自覚的に解釈して、暴力と渡り合って行こうとする意志なのではないだろうか。
最後に幕前にあらわれる接吻する男女の頭部は、見方を変えればまったく対等に向き合う男女の姿にも見えてくる。笑える暴力の中で女がフィジカルに男を圧倒するならば、笑えない暴力の中でも女はメンタルで男を圧倒していけばいいだという示唆すら感じ取れる結末であった。
スタジオライフのシェイクスピアシリーズでは、明らかに男性だけの劇団であることの利点が反映されている。シェイクスピア作品に限定した場合、創作年代当時と同じジェンダー構成での上演であるということが、戯曲に含まれる楽屋落ちなどのほのめかしを漏らさずに伝える手段になっており、当時の笑いのニュアンスを観客に追体験させるという効果を発揮している。
スタジオライフに垣間見えるアマチュア性は、シェイクスピア作品の権威を脱構築している。シェイクスピアシリーズと銘打ってはいても、それを全くのコメディーとして上演することは今日私たちがシェイクスピアは格調高く難解であると身構えてしまう鎧を外して、創作年代に近い素直な受容を可能にしてくれるのである。
また、あえて男性の身体を放棄せずに演じられる女役は、「女らしさ」を固定することの不自然さを暴露している。男性の身体を借りて表象される女役の肉体はあくまでも強靭である。肉体的に男を圧倒するほど強すぎる女たちが舞台狭しと暴れまわり精神的にも男に立ち向かっていく力強い姿からは、見た目のぎこちなさから生じるおかしさ以上に「女たちよ強くあれ」というメッセージが伝わってくるのである。
【筆者略歴】
吉田季実子(よしだ・きみこ)
1978年4月東京生まれ。東京大学理学部卒業。東京大学大学院人文社会系研究科満期修了。法政大学、東京経済大学非常勤講師。イギリスルネサンス演劇専攻。共著書に『今を生きるシェイクスピア』(研究社)、共訳書に『反逆の群像-批評とは何か』(青土社)。「ミュージカル・蜘蛛女のキス劇評:蜘蛛女の操る幻想-『心配しないで。この夢は短いけれど、幸せの物語なのだから』」で、第15回シアターアーツ賞佳作入選。
【上演記録】
劇団スタジオライフ 『十二夜』『夏の夜の夢』
▽東京公演 紀伊國屋ホール(2011年10月22日-11月8日)
▽大阪公演 サンケイホールブリーゼ(2011年11月12日-13日)
▽新潟公演 りゅーとぴあ新潟市民芸術文化会館・劇場(2011年12月3日)
▽かめあり公演 かめありリリオホール(2011年12月10日)
・韓国公演 同徳女子大学パフォーミングアーツセンター(2011年11月18日-20日)
作:ウィリアム・シェイクスピア
翻訳:松岡和子
上演台本・作詞・演出:倉田淳
美術・衣装:宇野亜喜良
出演:
『十二夜』
松本慎也、関戸博一、曽世海司、及川健、林勇輔、笠原浩夫、青木隆敏、牧島進一、坂本岳大(客演)、石飛幸治、岩﨑大、藤原啓児、奥田努、冨士亮太、原田洋二郎、鈴木智久、篠田仁志、神野明人
『夏の夜の夢』
笠原浩夫、関戸博一、岩﨑大、及川健、仲原裕之、緒方和也、坂本岳大(客演)、青木隆敏、石飛幸治、林勇輔、倉本徹、牧島進一、松本慎也、曽世海司、藤原啓児、緒方和也、平居正行、及川健、織田和晃、関戸博一、原田洋二郎、鈴木智久、冨士亮太、原田洋二郎、笠原浩夫、篠田仁志、堀川剛史、曽世海司、青木隆敏、神野明人、奥田努、藤原啓児、坂本岳大(客演)
前売・当日 (一般)5700円、(学生)Lifeシート4000円
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