◎邪悪
杵渕里果
『おやすみ、かあさん』(‘Night, Mother)は、1983年ピューリッツア賞受賞の戯曲。
「アラフォーおんなが自殺するはなし」というと「やたら暗い」けど、現代演劇に「自殺」がからむのは、『セールスマンの死』、『動物園物語』、『欲望という名の電車』…あんがい忌み嫌われてもないみたい。
「自殺」をめぐる葛藤は、健康な人でも…というか、そのカラダがそのカラダを殺せるくらい健康なカラダの人なら、窮状から消え去る手段としての「自死の誘惑」に襲われうるワケで、とりたてて異常なものではない。
なのに「自殺」がらみの葛藤は、まずその本人が隠すし、遺族も黙って抱えこんでヒミツにすることが多いから、外からはその存在じたい見えにくい。そんなふうに隠しこむ風習のためますます人は、孤独のドツボに落ちてゆく。
でも演劇にしてさしだせば、「特定の誰かの死」から離れたかたちで「自殺」についてコミニケーションする契機にできる。多くの力ある劇作家が「自殺」を好んで描いてきたのは、「演劇」という制度を最大限活用させられるテーマだから、なんだろう。
さてさて、『おやすみ、かあさん』。題名は、これヒロインの辞世の台詞。
「おやすみ、かあさん」(’Night, Mother)、ひとこと残してベットルームでピストル自殺する娘ジェシー、「かあさん」ことセルマの二人芝居。
ま、「娘」といってもアラフォーの、不良息子に苦労してるこちらも「かあさん」だから、世代の違う母親二人の芝居、といってもいい。
ちなみに、「’Night, Mother」のアポストロフィ、たぶん「Good」の省略じゃないかな。さすがに「Good night!」と言いえまいし。
それにしてもこの台詞、じかに言うの。母親に。そう母親に予告して、ベットルームに篭る。
それってどうよ。
「自殺の是非」以前に、「どうせやるなら黙ってれば?」て思うんだよね。
ジェシーは癲癇の持病があって働けない。結婚にもやぶれ、実家に転がり込んで居候的に暮らしてる。当面の彼女の生きる理由は、母セルマの世話くらい。
なにやってもだめ。やるきもおこんない。いま自分が確実に上手にできそうなのは、自分を殺すことくらい…
こんなふうに考えてる人に、「生きてればたまに楽しいことがあるよっ」とか微笑みかけたら無責任。
「たのむから生きてほしい」なんて頼んだら、頼んだアンタの気持ちを乱さないために「生きててほしい」ってかんじで偽善的。
「『楽しさ』を求めるなんざおこがましい、人間たるものじぶんの生命をまっとうする義務が!」、なんてウエカラ目線もどうかと思うし、だいいちそんな義務、証明できゃしない。
そうした義務感を培ってくれるとしたら宗教だろうけど、ジェシーによれば、
〈イエスだって自殺よ、わたしに言わせりゃ。〉
神なき時代、「それでも生きろ」とは誰も説得的にいえないよ。
でもさ、だったら、「どうせやるなら黙ってやれば?」。
ジェシーはなんで「予告自殺」するんだろ。原作戯曲をひらいてみるに――あ、今回の上演の感想こそ知りたい人は最後の最後に書いてるので下のほうへスクロールしてね♪
◎予告した理由その1【口がすべった】
舞台は、還暦のセルマと娘ジェシーが同居する郊外の住宅のリビングルーム。時刻は夜の八時すぎ。
ジェシーは今夜十時に決行するつもり。亡父のショットガンはどこか、母セルマに尋ねて見つけ出す。
不穏に感じたセルマが、銃なんかどうするの強盗なんかこないわよ、と銃をとりあげようとすると、ジェシーはあたし自殺するの、と銃を抱え込む。セルマ、びっくり仰天。
ジェシー、その場のいきおいで言ってしまったみたい。
◎理由その2【家事を引き継ぎたい】
意志を告げるやいなや、ジェシーは怒涛の家事伝達を開始する。
やれ洗濯機の使いかた判るか、洗剤の場所知ってるか。ゴミの曜日、犬にあさられない出し方。食品配達をいつもたのむ人の名前、頼み方。〈自分の薬、注文できる?〉。当面の食料品のストック状況。鍋やタオルのしまい場所、云々。
引き継ぎのついでに、セルマが好きなコカコーラの注文を牛乳にとり変えて、これからは牛乳をのみましょうねと健康管理もする始末。「逆縁の不孝」、ここまでこれば「逆縁の誉」ってかんじ。
娘ジェシーの母セルマへの気遣いは、長期入院する妻が夫の身を案じるが如し。成る程、アーサー・ミラーのセールスマンが黙って死んだのは、奥さんがしっかりしてたからなんだわね。
ともあれこちらのお宅では、娘ジェシーこそ母セルマの生活全般の面倒をみる、事実上の「おかあさん」だったのね。
セルマは「子どもがえり」した状態で、ジェシーに身辺のことをさせながら六十坂を超え七十、八十、看取られるまで世話をうけ続ける予定だったので(そういう台詞もある)、たしかにジェシーは「死」という背水の陣でもしかなけりゃ、セルマに家のしごとを伝達できなかったろう。
それで予告したんなら、わかる、わかる。家事なんて書置きで残すよりダイレクトに言うほうが早いしわかりいいもん。
◎理由その3【聞いておきたいことがあった】
母セルマって人は、まじめに話すのが苦手というか大嫌い。話に尾ひれをつけ口からでまかせ、自分がオモシロイ方向に情報を歪める癖がある。良く言えばお喋りで親しみやすい、悪く言えば論理的整合性に無頓着な「堅牢で鉄面皮なオバチャン」タイプ。
ジェシーはこういう事実が歪む会話に不満があったようで、最期のいまこそ私と真面目に話してみてよママ、と頼む。
不仲にみえた両親。ママはパパを愛してた?、聞かれるうちにカンに障ってきたのかセルマは、パパはあんたを生まれたときから出来損ないっていってたよ、とクギをさす。
セルマの親友アグネスが、どうもジェシーを避けて遊びにくるかんじがする。この理由を聞いてみるとセルマは、アグネスはあんたの癲癇を怖がってるんだよ、と応える。なぁんだそれだけのことだったの!
ところが違う話題にうつった折にセルマが口を滑らすに、アグネスの娘カーリーンが、ジェシーの夫を寝取った女だったらしい。それでアグネスはジェシーを避けていた様子。
そういうのを承知の上で、セルマはアグネスと親しくつきあい続けたんですね。
がちょーん。死のうという二時間前にこんなこと知ろうとは。やぶへびというか、死にたい理由が最後に増えたというか。
◎理由その4【それが有利なカードだから】
おそらくセルマという人は、その場その場で自分を有利にしたい人。一瞬でも自分を優位にたたせるネタがあれば、相手を傷つけようがかまわずぱっと飛びついて口に出す。そういうやりかたで世間と、そしてジェシーと関わってきたのね。
セルマはジェシーの自殺の意志を聞くやいなや、ここは「私の家」だから自殺してはいけない、銃やタオルも「私の」だから使ってはいけない、「私の」「私の」と重ねてくる。実家居候組、でもどり娘のジェシーが、ますます居たたまれなくなるであろうワードをガンガン飛ばしてくる。
でも、ジェシーが「自殺」というカードをゆずらないとみるや、〈あんたにもっと気を遣ってあげる。聞かれればほんとうのことを言う。ちゃんと言い分を認めてあげる〉〈ここはあんたの家でもあるんだから〉と次第に譲歩をみせはじめる。
ジェシーにしてみれば、活発で負けん気の強いセルマをへこませられる切り札は、「自分の自殺予告」しかなかったろうよ。
◎予告した理由その5【ママが自分を責めないため】
ジェシー本人の弁によると、〈話したのは、ママが自分を責めないように、後ろめたくならないようにしてあげたかったから〉。
死のうとおもったのはママのせいでも誰のせいでもなく、それしかない、と自分が考えたそのせいだと伝えておきたかったと。
だけど、そこまで思いやるならさ。
自殺を止められないのは場合によっては自殺幇助が問われかねないわけで、「自殺直前の二時間の対話」なんて、セルマは一生、他人に隠さなくてはなるまい。「自殺」以上に重たい秘密を背負うことになるまいか。
明日になれば警察がくるわよ。〈誰かに何故わたしがこんなことしたかって聞かれるから、ただ分らないって言うのよ〉。
そんなことまで気をまわすジェシー。指示は的確なんだけど、そんなに母親の今後を思いやるなら黙って死んだら親切だろうに。
でも、やってしまった。
銃声を聞いたセルマは、そのままジェシーの指示どおりに息子宅に電話をかける、ところで終幕。
しかしセルマ、案外タフにみえる。そんな二時間すごして本当に自殺なんざされたら、とりあえず朝まで呆然自失、動けなくなりそうだけど、すぐ次の行動に移るんだもん。銃声をきいたら電話しろとジェシーは指示したけど、本当にすぐできるってタフな気がする。
セルマの台詞に〈考えなきゃならないことは嫌い。前に行くのが好き〉っていうのがある。
だから彼女、すぐ電話するのかも。そしてこの夜のことは、二度と考えないですごせるかもしれない。考えたってらちがあかないし。
あ、でも、〈考えなきゃならないことは嫌い〉なセルマならなおさら、心の底から「なんで死んだか理由がまったくわかんない」状態のほうがマシじゃん。
うーん。どっちなんだろう。
ジェシーの「自殺の予告」からはじまる二時間は、あとに生き遺るセルマの役に立つんだろうか。たんなる「自殺」以上にタチ悪いんじゃないかしら。
哲学者のマーク・ローランズという人なら、この状態を、「邪悪」という概念でくくるだろう。(『哲学者とオオカミ―愛・死・幸福についてのレッスン』マーク ローランズ/翻訳・今泉みね子/白水社 2010年)
ローランズに拠れば、「正しいこと」だと確信してやった行いでも、相手を傷つける可能性の検討を怠っているなら、その行為の結果が悪ければ「邪悪」といえる。
たとえば「子供を性的虐待する親」、がいたとして、その親が、それを子どもへの「正しい罰だ」「躾だ」と確信していたり、それじたいよくないことだ考える教養そのものを欠いていたにしろ、その行為は「邪悪」には違いない。
個々の人間が確信してる「正しさ」なんて、その社会の常識からずれてしまっていたり、本人の意図を外れて作用してしまう可能性はザラにあるわけで、自分の確信する「正しさ」が、他人からみて一般的に妥当なものか、「正しさ」を無効にする事態はありえないといえるか、折にふれ批判的な検討を繰り返す義務がある。
だとすれば。
〈ママが自分を責めないため〉、「自殺前にそれを予告して対話する」というジェシーの二時間の「善意」は、母セルマに対する「邪悪」な行為にかわりうる。
また、そんなこというなら母セルマもけっこう「邪悪」。
ジェシーにさんざん重ねていた軽蔑的ないいまわしやあてこすり、娘の言い分に耳を貸さず自分の見解を押し付ける母親という立場をもちいた「パワーハラスメント」みたいのは、やっぱり、それが果たして妥当か検討を怠ったことによる「邪悪」な作法だもん。
まぁ、どっちもどっち。「邪悪」な娘。「邪悪」な母。
『おやすみ、かあさん』は、人間の「邪悪」(ローランズの定義する意味での)を描いた戯曲だよね。
さてこの戯曲、昨年末、青山真治演出、白石加代子(セルマ)、中嶋朋子(ジェシー)の出演で上演されました。
まず舞台装置。
戯曲の指定をだいぶはしょってた。
戯曲には〈セットは二人がこの国の特定の場所に住むある特定のリアルな女たちだということだけを表していればよい〉、〈雑誌類や刺繍カタログ、灰皿や菓子器などでごたごたに散らかっている〉、と書かれている。
舞台中央にソファーとダイニグテーブルがあり、そのまわりだけ「部屋」らしく飾っているんだけど…
上手側に、幅2メートルくらいの物置というかロッカーが、一個、どーんとおいてある。扉の前で、中嶋朋子のジェシーが立ったりしゃがんだり、中身を点検する。この家には収納家具がこれ一個しかないんだろうか。それにしてもバインダーに挟んだリストをめくりながら、まめまめしく在庫チェックを続ける中嶋朋子は、さながらコンビ二の店員の如し。生活臭、なし。
下手側にはキッチン。コンロと流しのセットが、これまた一個、どーんとおいてあって、この前でセルマ役白石加代子がココアを煮る。そして、コンロの下から鍋を取り出して床に散らかすんだけど、たしか、真っ黒こげで使い込んだかんじがするのはヤカンだけで、あとの鍋類がピカピカだった気がする。プロの厨房みたいな巨大なずんどう鍋が複数でてきた印象が残ってるけどさだかではない。生活臭、なし。
この舞台装置は、戯曲冒頭の指定を最小限守りつつ、最大限に経済しながら、かつ、役者に負荷をかけない程度には家財道具を配置してできあがったかんじ。
中途半端に「生活」の気配があったりなかったりするもんだから、死を決めたジェシーが母セルマに家事の要点を伝え遺す必要性も、この家族の歴史も、実感として伝わってこない。
演出の青山真治は、舞台演出はこれが二回目なんだそう。経験が浅いゆえの初々しいミステイクかもね。
でもさ、もともと映画監督なんだし、もっと装置に配慮が深くてもよさそうなもんだけどねぇ。
さて、中嶋朋子が演じたジェシー。
一点の曇りもなくさえざえと死をみつめ、でも朗らかに笑みを絶やさないジェシー、といったかんじ。最期まで母親を気遣い、励まし、母との最期の二時間を少しでも楽しもうとしてみえた。病気がちで自殺に追い込まれた寡黙な女性ではなく、「自死」という決断を恐れない「りりしい健康な女性」といった印象。大河ドラマでお市の方の自害の場面とかやるばあいおよそこんなふう。
白石加代子のセルマ。
アングラ演劇でならした白石加代子の十八番であろう。セルマがジェシーの癲癇発作がどんなふうか説明する場面、狂乱ぎみに身体を震わせ「べろべろばー」と舌を出しオモシロイ顔をしてみせた。たぶんファンサービス。
これをみた中嶋朋子のジェシーは、「アハっ♪、かあさんったらオモシロイっ」とばかり無邪気に笑う。
…本筋から考えれば、そんなとこでジェシーが喜ぶのはかなり「トチ狂ってる」。おそらくたとえ演目が『おやすみ、かあさん』であっても、大女優白石加代子が出演する以上、なにがなんでも「白石加代子ショウ」が優先されるべきなんだろうね。
「トチ狂ってる」といえば、セルマがココアを作る場面。
死ぬわ、死ぬな、の議論のらちがあかず、セルマは小休止的にココアを作ってあげるともちかける。
ジェシーは〈マシュマロ入れないで〉と頼むと、〈マシュマロ入れなきゃ。それが昔式だ。二つ?三つ? 三つのほうがいいよ〉と押し付ける。〈じゃ三つ。〉
ジェシーは、たぶんしかたなく応じたと思うんだけど、中嶋朋子のジェシーの場合、満面の笑みで〈じゃ三つ。〉とはしゃいでみせる。
それが「おふくろの味」ならそれが飲みたいわ、今夜はママとの最後のランデブーなんだもん、ごめんねママ、でも死ぬの、決めちゃった、ママのこと大好き、ぐすん。
このジェシー、なんで自殺したいか、ほんと、よくわかんなかった。彼女が自殺したいとしたら、台本にそう書いてあったから。セルマが止められなかったのも、台本にそう書いてあったから。
中嶋朋子も白石加代子も、戯曲に書き込まれたジェシーとセルマの意地の悪い挑発、内面のわだかまりはきれいさっぱり黙殺、スルーしながら、ひたすら「愛し合う母と娘」「娘の哀しく潔い選択」「最愛の娘をとめられなかったかわいそうな母」、といった単純素朴な情感の図式に落とし込んで演じてた。
とおりいっぺんのステレオタイプで「善良そう」な母娘ふたりを演じたって、メロドラマにもなりゃしない。「愛情」ではなく「愛情の破綻」、ディスコミニケーションのそれらしさをたちあげずして、「自殺」にリアリティがでるわけがない。この上演、演技をたちあげるときの解釈が、ローランズいうところの「邪悪」、なんだよ。
死にたい娘と止めたい母。二時間、めいっぱい泣いて、笑って、叫んで、ズドーン、ご愁傷さま。
参考文献:『哲学者とオオカミ―愛・死・幸福についてのレッスン』マーク ローランズ/翻訳・今泉みね子(白水社 2010年)
【筆者略歴】
杵渕里果(きねふち りか)
1974年生れ。テレアポ。都内の演劇フリーぺーパー『テオロス』で劇評を始める。『シアターアーツ』も投稿あり。好きな劇団:少年王者舘、三条会、東京ミルクホール。好きな俳優:伊藤弘子、坂井香奈美(流山児事務所)、稲荷卓央(唐組)。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ka/kinefuchi-rika/
【上演記録】
あうるすぽっと・豊島区『おやすみ、かあさん』
あうるすぽっと(2011年11月26日-12月4日)
○作:マーシャ・ノーマン
○訳:酒井洋子
○演出:青山真治
○出演:白石加代子・中嶋朋子
○美術:青木拓也
○照明:倉本泰史
○音響:内藤勝博
○衣装:藤井百合子
○ヘアメイク:笹部純
○演出助手:平井由紀
○舞台監督:北条孝、後藤泰徳
○宣伝美術:早田二郎
○宣伝写真:坂本正郁
○版権コーディネーター:マーチン・R、P・ネイラー
○協力:白石加代子事務所、砂岡事務所、ニケステージワークス、六尺堂、エアー・パワー・サプライ、SEシステム、東京衣装、Pure、ビートル
○広報:小沼知子、小仲やすえ(あうるすぽっと)
○制作:ジェイ.クリップ
○プロデューサー:笹部博司・上谷忠
○主催:あうるすぽっと(公益財団法人しま未来文化)・豊島区
○企画・製作:メジャーリグ・ジェイ.クリップ
全席指定 4500円
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