◎虚実は糾える縄の如し
山崎健太
「嘘から出た真」という言葉があるが、嘘(=虚構)は真(=現実)の中で作られるものでもあり、嘘と真の関係は卵と鶏の関係に似ている。卵が先か鶏が先かという議論は措いておくにせよ、卵が鶏から生まれる以上、卵が鶏よりも小さいことは自明である。では、現実の中に孕まれる虚構もまた、現実より小さなもの、現実を縮小再生産したものでしかないのだろうか。答えは否である。産み落とされた卵がやがて親鳥へと成長するように、虚構もまた、新たな現実を生み出す可能性をその裡に秘めているのだ。
劇団うりんこ『お伽草紙/戯曲』は、太宰治『お伽草紙』を元にこふく劇場の永山智行が脚本を書き、地点の三浦基が演出を担当した舞台作品である。そもそも太宰の『お伽草紙』自体が、「舌切り雀」や「カチカチ山」などの広く知られた民話を題材とした作品であり、民話を中心として小説/戯曲/舞台が同心円を描いて並ぶことになる。水面に広がる波紋のように広がるこの同心円は、内向きに転じる形で舞台の構造として反復される。現実の中の虚構、そしてさらにその中の虚構。舞台の上の虚実はくるくると変転していく。
劇場に入ると舞台上には既に人がいる。舞台左手前の椅子に腰掛ける老人。手には紐が握られていて、その先は舞台中央後方に立つ巨大な笠(昔話に登場するようなそれを思い浮かべていただきたい)を支える棒に繋がっている。巨大な笠とつっかえ棒の組み合わせは、鳥を捕えるために子どもが仕掛ける罠を模しているようにも見える。その手前には、岩でできた小島のような盛り上がり。竹が何本か生えている。老人は開演までの間、休むことなくしゃべり続ける。キツイ方言、おそらくは名古屋弁だろうか、のために言っていることの全てが理解できるわけではないが、入ってくる客に声をかけたり、中日ドラゴンズの歌を歌ったりと楽しげな様子だ。老人が開演前のアナウンスを読み上げ、しばしの間の後やがて開演。
この老人、私たち観客には、芝居の登場人物としてではなく、私たちと同じ劇場空間を共有する人間として認識される。観客への声掛けや開演前のアナウンスは、老人が舞台上の虚構の存在ではなく、劇場空間という現実のレベルにいることを印象づける。この印象は芝居が始まってからも続く。一言二言発する場面こそあるものの、老人は舞台の進行にはほとんど関与しないからだ。そもそも、実はこの老人、戯曲には登場しない。つまり、三浦基が戯曲『お伽草紙/戯曲』を舞台化するにあたって、演出の一環として配した人物なのである。この老人は舞台『お伽草紙/戯曲』においてどのような役割を果たしているのだろうか。
【写真は、「お伽草紙/戯曲」公演から 撮影=清水ジロー© 提供=劇団うりんこ 禁無断転載】
照明の落とされた舞台、右奥方向に細長い長方形の照明が伸び、そこを通路として役者たちが登場する。舞台奥の茫とした薄暗がりから白々と伸びる長方形は妙に非現実的で、スクリーンの向こうの非現実からこちら側、つまりは現実へと役者が渡ってくるための通路のような趣である。役者たちはぐるりと舞台を回り、やがて笠の裏へと消えていく。その間、全員が一斉に台詞を発し続けるため、その内容を完全に捉えることは難しいが、先回りして言うならば、そのけたたましさはたくさんの雀が一斉に鳴き散らす様に似ている。発せられているのは「舌切り雀」の雀たちの台詞である。印象的な照明も手伝って、私たち観客は劇場という現実空間から「舌切り雀」の物語世界へと一気に引きずり込まれる。ところが、この「舌切り雀」の芝居はやがて、防空壕に避難する家族の一場面へとスライドしていく。「舌切り雀」の老夫婦の口論は防空壕の父母の口論へと重なり、「舌切り雀」は父親が娘へと読み聞かせていた昔話として回収されるのだ。舞台という虚構の中に、防空壕という「現実」と昔話という「虚構」の二つのレベルが設定される。
老人が、観客である私たちと舞台の外部=現実を共有する存在であることを踏まえると、舞台『お伽草紙/戯曲』の構造が見えてくる。劇場という現実に対する舞台空間の虚構、舞台上の防空壕という「現実」に対する昔話の「虚構」という三重の同心円である。老人は舞台の隅から芝居を見やる。老人の年齢を考えると、舞台上の「現実」である戦争中の防空壕は老人の記憶の中の風景であるとも考えられる。舞台上で繰り広げられるのは老人によって想起された記憶であるというわけだ。この解釈を文字通り「支える」のが老人の腕に繋がれたつっかえ棒である。舞台の背景にそびえ立つ巨大な笠とそれを支えるつっかえ棒。老人がいなくなりつっかえ棒が外れたならば、舞台は笠に覆われそこで繰り広げられる光景は消えてしまう。老人がいなくなれば想起される風景も消えるのだ。舞台という虚構は老人という現実の存在をその基盤としている。
ところが、大方の観客の予想を覆し、老人が席を立ちつっかえ棒が外れても巨大な笠は立ち続ける。老人の夢想というフィクションは、その瞬間、現実からの独り立ちを始めるのだ。現実を越えてなお歩み続ける虚構の世界。ここに至って同心円は反転し、虚構が現実を飲み込み始める。「あんまりつまらないから、やけになつて、ウソばつかり書いたやうな気がする。ヒラタなんて男もゐないし、そもそも私には妻も子もゐない。ここは防空壕の中ぢやないし、外は戦争なんかぢやない。その他の事も、たいがいウソだ」と男が言い、舞台上の「現実」はその足元を危うくする。男がゆっくりと倒れてきた笠に飲み込まれ姿を消すと、舞台に残るのは鬼や狐など昔話のキャラクター、「虚構」の登場人物たちである。「現実」の中にあると思われた「虚構」が「現実」の登場人物である男をその内部に仕舞い込み、虚実は反転する。
この虚実の反転は役者の身体のあり方のレベルでも反復される。そもそも舞台という虚構は現実の中に作られるが、同時に身体という現実に虚構をまとうことで成立するものでもある。例えば舞台上で「カチカチ山」が演じられる場面。そこに立つ女が兎を、男が狸を演じることでそれは成立する。我々観客は、役者の身体という現実に役という虚構を貼り付けて舞台を観ており、そこでは現実が虚構に包まれる。三浦基は役者の身体に負荷をかけることでこの構造を破壊し、虚構の膜の向こうに隠された役者の身体を露わにして見せるのだ。例えば、ヒラタという男がウイスキーを飲む場面では、戯曲の指示以上に過剰に杯を重ねさせ、ボトル1本分以上の液体を役者に飲ませる。そこに現れてくるのは、ヒラタの「ウイスキーを飲む」という行為ではなく、実際に役者が大量の液体を飲むことの大変さである。あるいは防空壕での一場面。娘はチョコレートをかじるのだが、チョコレートを舐め回すその仕草は少女の所作としては過剰にエロティックであり、そのエロティックさはむしろ役者の身体に属する性質のものだろう(このエロティックさは直後に続く「カチカチ山」で、少女が兎へと転ずることの伏線としても効いている)。そしてまた、浦島太郎についての講釈を長台詞で述べる兄は、噛む度に台詞を初めからやり直す。やり直しが三度四度と重なるうちに、観客の関心は台詞の内容ではなく、次は噛まずに言えるのかという一点へと集中していくことになる。これらの演出によって、舞台上の虚構に没頭していた観客の注意は役者の身体そのものへと向かう。役者の身体という現実が、役という虚構を食い破るのだ。
【写真は、「お伽草紙/戯曲」公演から 撮影=清水ジロー© 提供=劇団うりんこ 禁無断転載】
一方、戯曲にも登場する「カチカチ山」に代表される民話や童話もまた、その裡に現実を孕んでいると見ることができる。例えば、童話「赤ずきん」は「男には気を付けろ」「ふらふら出歩くな」という少女への警告である、という具合だ。劇中には次のような台詞もある。「カチカチ山の物語に於ける兎は少女、さうしてあの惨めな敗北を喫する狸は、その兎の少女を恋してゐる醜男。これはもう疑ひを容れぬ儼然たる事実のやうに私には思はれる」。演劇と民話はともに、虚構が現実を包み込む形で成立しているのだ。少女の隠喩である兎を演じる女と醜男の隠喩である狸を演じる男。ここにもまた虚構と現実の織り成す同心円があるのだが、ではこの同心円の一番外には何が位置しているのだろうか。役者の身体か演じている役か。兎/狸の裡に潜む少女/醜男と、それらを演じる役者の身体とはどのような関係にあるのか。そこにあるのは互いが互いをその内部に含んでいるような奇妙な関係である。
舞台『お伽草紙/戯曲』にあるのは虚構と現実のせめぎ合いだ。一見明確に見える虚構と現実の多重構造も、両者のせめぎ合いの中でその境界は常に揺らいでいる。時に現実が虚構の向こう側から顔を出し、時にフィクションがその境界を越えて現実の側にあふれ出す。作品がその枠組みを越えていくと言い換えることもできるだろう。作品のラストに配された、「紀元二千七百年」を「にせんななひゃく」と読むか「にせんしちひゃく」と読むかというやや唐突なやり取りは、端的に読み方の問題である。そして「もう百年あとには、しちひやくでもないし、ななひやくでもないし、全く別な読みかたも出来てゐるかも知れない」という台詞。ここで言われているのは思いもしない「誤読」の可能性だ。現実の中に作られた作品という虚構は観客を経/得ることで再び現実と接続し、そこに未知の世界が立ち上がる。その意味で虚構と現実が描くのは同心円ではなく、陰と陽のかみ合った対極図であるのかもしれない。虚構と現実を車の両輪として世界は回る。
作品のほぼラスト、巨大な笠が閉じる直前には、浦島太郎が玉手箱を開ける場面が配されている。竜宮城でこの世のものとも思えない時間を過ごした浦島太郎は、玉手箱という土産とともに地上へと帰る。浦島太郎が持ち帰ったのは時間だ。玉手箱は竜宮城での夢の時間を地上という現実に持ち帰るための器だったのだ。私たち観客もまた、竜宮城で夢の時間を過ごした浦島太郎のように、虚構の世界に遊ぶために劇場へと足を運ぶ。ならば劇場は竜宮城であり、あるいは巨大な玉手箱であるのかもしれぬ。芝居を見終えた私たちは扉を開き、現実の中に虚構を解き放つ。玉手箱から解き放たれた時間が浦島太郎の世界を変えたように、劇場の扉から解き放たれた虚構が世界を変える。作品を締めくくる「ムカシ ムカシノオ話シヨ」という台詞は現実の中に虚構を召喚し、世界を変えるための言葉なのだ。
(1月22日昼公演観劇)
【著者略歴】
山崎健太(やまざき・けんた)
1983年東京生まれ、早稲田大学文化構想学部表象・メディア論系幻影論ゼミ1期卒業生。現在、同大学院文学研究科表象・メディア論コース所属。演劇研究。
【上演記録】
劇団うりんこ「お伽草紙/戯曲」
KAAT神奈川芸術劇場中スタジオ(2012年1月19日-22日)
原作=太宰治
戯曲=永山智行(こふく劇場)
演出=三浦基(地点)
キャスト=内田成信、越賀はなこ、丹羽美貴、高田博臣、牧野和彦、にいみひでお、藤本伸江、和田幸加、花山ヨージロー
演出助手=佐久間晶子
舞台美術=杉山至+鴉屋
衣裳=ごとうゆうこ
照明・音響=四方あさお
音響オペ=新美豊
イラスト=よしながこうたく
フライヤーデザイン=京(kyo.designworks)
制作=安形葉子 製作総指揮=平松隆之
日程 【】内はアフタートークのゲスト ♪はお得なプレビュー料金ステージ
●名古屋=愛知県芸術劇場小ホール(全席自由)
1月13日(金)19:30【三浦基(演出家・地点代表)×平松隆之(制作・劇団うりんこ)】
1月14日(土)14:00
1月14日(土)18:00【永山智行(劇作家/演出家・劇団こふく劇場代表)×唐津絵理(愛知芸術文化センター主任学芸員)】
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●横浜=KAAT神奈川芸術劇場中スタジオ(全席自由)
1月19日(木)19:30♪【鹿島将介(演出家・重力/Note)×三浦基】
1月20日(金)15:00♪【吉田小夏(劇作家/演出家・青☆組)×平松隆之】
1月20日(金)19:30 【杉山至(舞台美術家・六尺堂)×三浦基】
1月21日(土)14:00
1月21日(土)18:00 【相馬千秋(F/Tプログラム・ディレクター)×三浦基】
1月22日(日)14:00
一般早得2500円/高校生以下1000円などチケットかながわにて取扱中(各回限定)
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●広島=アステールプラザ多目的スタジオ(全席自由)
2月1日(水)19:30
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●福岡=ぽんプラザホール(全席自由)
2月3日(金)19:30♪【泊篤志(劇作家/演出家・飛ぶ劇場代表)×平松隆之】
2月4日(土)14:00
2月4日(土)18:00【柴幸男(作家/演出家・ままごと主宰)×うりんこ俳優陣】
2月5日(日)14:00
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●大阪=大阪市立芸術創造館(全席自由)
2月10日(金)15:00♪
2月10日(金)19:30【杉原邦生(演出家・KUNIO主宰)×池浦さだ夢(男肉 du Soleil団長)】
2月11日(土)14:00
2月11日(土)18:00【山崎彬(劇作家/演出家・悪い芝居)×平松隆之】
2月12日(日)14:00
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●相模原=グリーンホール相模大野多目的ホール(全席指定)
2月25日(土) 15:00【三浦基(演出家・地点代表)】
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●豊川=ハートフルホール<豊川市御津文化会館>(全席指定)
3月4日(日)15:00
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●松本=まつもと市民芸術館小ホール(全席自由)
3月18日(日)14:00
料金 前売:一般3000円 学生2000円 ♪プレビュー2500円
当日:一般3500円 学生2500円 ♪プレビュー3000円
公演名が違っていたので本日(2月16日午前)訂正しました。関係者のみなさんにご迷惑をおかけしました。(ワンダーランド編集部)