甘もの会「はだしのこどもはにわとりだ」

◎完璧な劇空間の果たす役割
 落雅季子

「はだしのこどもはにわとりだ」公演チラシ
「はだしのこどもはにわとりだ」公演チラシ

 甘もの会は、京都在住の劇作家、肥田知浩と、演出の深見七菜子からなる二人のユニットだ。数年に一度だけ咲く花のように密やかに公演を行い、また数年の熟成期間に入ってしまう。そんな彼らの二年ぶりの新作、『はだしのこどもはにわとりだ』を観た。旗揚げは2008年。2010年に上演された『どどめジャム』では劇作家協会新人戯曲賞にノミネートされたと記憶しているが、今回はそれに続く第三回目の公演である。

 会場は東京目白にある、古民家を利用したギャラリーゆうど。ギャラリーというよりは、古民家そのものと言ってもよいだろう。夏草の繁る庭には井戸。入り口の三和土につながる飛び石を眺め、茹だる暑さに汗を拭いながら入場を済ませた。広い和室に通された観客は、縁側を向いて並んで座り、開演を待つ。畳に床の間、縁側。そのまま映画を撮れそうな、とでも言うべきロケーションである。

 開場中から縁側で横になっていた青年が起き上がり、ふっと芝居が始まった。
 主人公とおぼしき青年の名はナスオ。彼は二人の友人とバンドを組んでいて、毎日練習に励んでいる。そのバンドがロックフェスに招かれるところから物語が始まる。彼らは自分たちの活動を映画にしてもらおうと、知り合いのワビスケを巻き込んで撮影を始める。

「はだしのこどもはにわとりだ」公演から
【写真は「はだしのこどもはにわとりだ」公演から。撮影=チーム肉体/島村和秀、矢川健吾
提供=甘もの会 禁無断転載】

 ところで彼らのバンドは、新巻鮭、壊れかけのラジオ、うどん(※鍋に入っている)というスリーピース構成である。新巻鮭は暑さに弱いので、練習が終わったらすぐに冷凍庫に入れなければならないし、うどんは茹でるところから始めなくては演奏できない。ともかく本人たちにとっては本気の音楽活動である。そしてシーンは、彼らがフェスに向かう電車内での映画撮影を見ていたモモコが、その様子を友人にしゃべる様子へとゆるやかに遷移する。彼女のおしゃべりの相手は、同僚のカナエ。夏休みの計画を練るうちに、カナエは小さいときに自分の想像の中だけで遊んでいた友達の話を始める。夏休みに遊びに行ったおじいちゃんの家の情景の話をしているところに、庭の向こうからひょっこり現れるバンドのメンバーたち。こうして、まるで連想ゲームのようにシーンは切り替わり続ける。

 カナエの想像上の友達であるコトネは、どうやら魔女であったらしい。かと思えば、コトネはナスオたちが出演するフェスティバルのスタッフでもあるようだし、そこで出会ったワビスケと将来結婚するようなエピソードも挟まれる。複数の設定がシームレスに行き来し、それが息継ぎもないように自然である。

 改行をせずに場面転換をするのがうまい作家だと、かつて山田詠美はその著書で言っていた。本作は場面どころか、時の流れまでひょいと超えてしまう。
 ナスオがふと、自分は若かったころにバンドをやっていたとか、満州から引き揚げてきた話などをするのでここはおじいちゃんの家なのか、おじいちゃんはいったい誰なのか、そもそも今がいつなのかも揺らいでしまう。

 以上、あらすじを丁寧に追ってはみたが、中心に明確な軸があるわけではない。カナエとコトネ、どちらが空想上の少女だったのかは最後まで分からないし、誰の話が誰の夢なのかも、分からない。しかし脚本の基礎体力は確かで、冷静な台詞運びによって明らかにシーンを切り替えたということが、後くされなく分かる。ねじれる時間の中で、各々の“記憶“が一瞬重なりあう足場はしっかりと組まれており、観客が混乱に陥ることはない。そうして細い糸をよりあわせるように描き出された、スケールと繊細さのバランスは目をみはるべきものがあった。

 最後にナスオは再び満州の話を始め、眠ってしまったカナエとコトネを見ながら縁側に立ってガラス戸を開ける。ほんの少し風が吹き込み、その余韻のまま物語は静かに終演したらしかった。

 おじぎをする俳優たちに拍手をしようと顔を上げれば、緑照り映える庭、畳、縁側。はて、私は夢を見ていたのだろうかと、目を瞬いた。古びた日本家屋という天然の舞台美術の中で、自分が何を観ていたのかがよく分からなくなったのだ。

 もともと甘もの会は、サイトスペシフィックな劇作が持ち味である。前作『どどめジャム』も、コンクリート打ちっぱなしのギャラリーにて、自然採光のもと上演された。結婚を控えた男の回想で始まり、少年時代の思い出から未来の風景までをたぐり寄せ、とめどなく流れる時間の感覚がノスタルジックな情感を誘う作品であった。こうして見ると、放り出される時間軸というのは、甘もの会の作品の特徴と言える。過去に引き戻されたり、未来から引っ張られたりすることで人は現在を認識し、その足で立つ。しかし、肥田の脚本は、シーンの積み重ねによりそもそもの現在地に揺さぶりをかけるため、ラストで現在に帰ってきたかどうかが定かではない。その中で、劇空間としてのゆうどが果たした役割は大きい。

 当然ながら、ゆうどという空間自身は観客が入ることなど想定していない。庭も柱も縁側のガラス戸も、演劇という枠の中で鑑賞されることは想定していない。揺らぐ時間軸の中で、舞台美術としての背景だけが本物。劇空間としてほとんど完璧な場所に、自分が観客として存在することを俯瞰してしまうと、自分たちがいかに違和感に溢れた存在かが浮かび上がってしまう。劇場において、観客がいる場所は慣例的に異空間として取り扱うことになっており、観客をどこに配置するかが演劇のひとつの出発点である。それを踏まえて、フィクションを担保する観客としての私たちが、完璧な劇空間の片隅に案内されたということがどういうことか。つまりこの場所は、単なる借景としての日本家屋ではなく、飛び越えるべき風景を提示する装置だった。観客と作品世界との距離を逆説的に自覚させ、観る者に鮮烈な印象を残すための。

 同時に、そうした劇空間の支えがあってこそ、一見突拍子もないような場面にも、安心して心を委ねることができたと言える。エアギターのごとく新巻鮭をかき鳴らす。壊れかけのラジオを鳴らす。うどんを啜る。バンド演奏をする三人の姿は滑稽だった。滑稽であることが内包する物悲しささえ、感じた。映画みたいな空間の中、どうしたってその演奏には没入できない私たち。だって、鮭とラジオとうどんなんですもの。でも、本物の畳とちゃぶ台と庭をバックに、ソウルフルに演奏されると、どういうわけか不思議な説得力を持ってしまう。ありえない設定から跳躍するドラマティックな瞬間は、確固たる背景を据えてこそ生まれたものであったと言えるだろう。そんなカタルシスを、よもや新巻鮭に与えられるとは、思っていなかったのだけど。

 同様に場所そのものが成功であった事例としては、同時期に東京都美術館で上演されていた青年団の『東京ノート』がある。美術館のロビーを舞台に家族や恋人同士、旧い知り合いとの再会などが同時多発的に繰り広げられる、言わずと知れた青年団の代表作である。今回の再演は、これを本物の美術館で上演してしまうという企画だった。戯曲中にフェルメールの作品が出てくるのだが、同美術館で開催されているマウリッツハイス美術館展とのコラボレーションが見事に成立していて、背景の合致だけでいえば今後これを超える上演は考えられないほど完璧である。

 だが、これも状況そのものに意義があるというわけではない。演技のために完璧な空間を用意したいのであれば映画を撮ればいいのであり、演劇にとっての背景具象化の効果は、戯曲の真のリアリティの所在がそれによって際立つということなのだ。『東京ノート』終演後にも、閉館した美術館で前述のような観客としての違和感に襲われた。観客は劇場(劇空間)にとって何者であるか、という問いが降り掛かってきたわけである。それはまさに演劇と出会い直すような感覚であり、甘もの会を観て感じたものと同じものであった。

 ここで甘もの会に話を戻し、シームレスかつナチュラル、かつ大胆な作風を支えた俳優陣に言及しよう。ナスオの姉役だった五反田団の宮部純子は、出てくるだけで舞台上をそこはかとなく支配する濃厚な存在感に満ちている。コトネを演じた、サンプルの野津あおいもすばらしかった。視線、息づかいに呼吸のリズムに至るまでまったくそよ風のようで、計算されたような繊細さが美しく表出していた。彼女は甘もの会への出演常連であるので、今後の出演も楽しみなところである。
 ナスオを演じた成瀬正太郎は、飄々とした立ち居振る舞いに魅力があり、若いバンドマンからふっと老人のようなつぶやきに至る、その落差にはっとさせられた。

 ところで、カナエ役の鈴木明日香と聞いて、思い出す人はいるだろうか。かつて福島県立いわき総合高等学校6期生として、五反田団の前田司郎作・演出の『3000年前のかっこいいダンゴムシ』に出演した、あの少女である。彼女が今も演劇を続けているということの嬉しさは、特別な感慨を持って私の胸に迫る。かつての同級生や恩師、高校時代の観客という過去と、これから広がる未来の両方から支えられた、彼女の今を感じることができたからである。

「はだしのこどもはにわとりだ」公演から
【写真は「はだしのこどもはにわとりだ」公演から。撮影=チーム肉体/島村和秀、矢川健吾
提供=甘もの会 禁無断転載】

 バンドマンたちが一夏の旅をする。言ってみれば、それに尽きる物語の中で、ドラマは重層的に立ち上がる。時間をずらし、記憶を重ね、その重ねた絵の具が混ざって違う色になるように。物語の軸ということで言えば、肥田の描くドラマの中心は、あらかじめ失われているのかもしれない。中心を失っても時間は流れるし、語るべき対象は無くなったりしないことをきっと彼は知っており、その手法と静かなる意欲に私は期待する。そして、この寡作の劇作家に与えられた切なさが、次の甘もの会公演まで私の中に残ってほしいと強く思う。本当にあったことかどうか、自分では忘れてしまうようなことも記憶の奥深くに残って未来の自分の糧になる。それが、彼の考えるドラマのもっとも重要な効能であると思うからだ。

【筆者略歴】
落雅季子(おち・まきこ)
 1983年福島生まれ東京育ち。システムエンジニアとして働くかたわら、演劇・ダンス評を書く。2010年の土佐有明ライティングワークショップ受講により本格的に劇評を始める。ワークショップメンバーとの共著に、レビュー誌『SHINPEN vol.1』がある。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/a/ochi-makiko/

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