忘れられない一冊、伝えたい一冊 第13回

◎「日本凡人伝」(猪瀬直樹著、新潮文庫)
 中井美穂

「日本凡人伝」表紙
「日本凡人伝」表紙

 猪瀬直樹さんの『日本凡人伝』は雑誌『STUDIO VOICE』に連載されたもので、大学生だった80年代の後半、とても好きな読み物でした。後に単行本・文庫になりましたが、続編も出ています。猪瀬さんは、若い方たちには東京都副知事のイメージが強いかもしれませんが、当時はもっと尖がった社会派ジャーナリストの印象がありましたね。
 インタビューものなんですけど、相手は著名人ではなく一般の社会で働く人たち。今でこそ、そういう本もけっこう出ていますが、あの頃は、誰にも知られない普通の人に話を聞くというのが新鮮でした。

 たとえば都バスの車掌さんや消防庁の職員さん。さまざまなクレームを受けたり、書いてはいけない記事を掲載してしまって呼び出されたりする、大手出版社のトラブル処理担当者。
 「スジ屋」と呼ばれて鉄道のダイヤを作る人にも興味を惹かれました。普段、「ダイヤ改正」という言葉は聞いていても、ダイヤってそもそも何か? とか、どうやったらあれだけ走ってる電車たちを秒刻みでうまく動かすか? なんて考えたこともなかったんです。ここに出てくるこの人がそれを作ってるんだ! という驚き。

 当たり前のことですが、私たちの生活は、世間的に広く認知はされていない各種の仕事、それに携わってる人たちによって成り立っています。ある視点をもてば、そうしたことが面白く見えてくるのに気付かされた本です。ドキュメンタリーというほど固く重いものではなく、武勇伝偉人伝ではなくて凡人という目の付け所がいい。
 有名人のようにイメージを守る必要もないので、みんなけっこうストレートに語っている。インタビュー慣れしていなくて、なかなか打ち解けないんだけど、一旦打ち解けるとどっと話し出したり、あるいは最後の方にポツンといいことを言ったりして、その一言でフッと何かが浮かび上がってくるんです。
 猪瀬さんのインタビューのやり方も、最初から核心にズバッと切り込むというのではない。奥さんの名前は何ですか? とかご趣味は? とか、どうでもいいような一問一答を進めていくうちに、だんだん立体的に見えてくるものがある。人の懐に飛び込むルポルタージュ的な手法を感じます。

 学生だった私は、将来こんな仕事がしたいと考えるようになりました。TV局の入社試験の時にも、好きな本としてこれを挙げ、特別ではない人たちにスポットを当てて人生を聞いてみたいと言ったんです。この本のTV版を作りたいとも思いました。実際TV番組にもそういう流れはあって、NHKの「プロジェクトX」などもそのひとつではないでしょうか。

 今の小劇場の演劇も、登場人物は普通の人のことが多いですね。たとえば田村孝裕さんのONEOR8なども。ご自身の体験から台本を書いておられるハイバイの岩井秀人さんはもっと顕著ではないでしょうか。ああいうものを見ていると「日本凡人伝」に重なるなあと思うんです。架空ではあるけれども、家族がいて、その日常の出来事が発展していく。でもその中で、ひとつキラッと輝くとか、ズシンとくるようなセリフがあったりする。日常ではスッと流してしまうことが、芝居として切り取られていると浮き立ってくるんですね。

 本をもう一冊挙げてもいいとすれば井上ひさしさんの『ブンとフン』(新潮文庫)。井上さんの書きたかったのも、たとえば『しみじみ日本・乃木大将』では愛馬から見た乃木大将という独自の視点から描かれていますけど、結局は市井の人の話じゃないかと思うんです。
 『ブンとフン』を読んだのは、中学生か高校生の頃。井上さんのことも全然知らなかったのですが、タイトルからして「はぁ、何これ? バカにしてるの?」とどうしても気になりました。

 お話は滅茶苦茶だし突然歌が出てきたりするんですが、今考えるとあれは音楽劇ですね。舞台なら、角野卓造さんなんかが唐突に歌い出したりするような。あと、本の一部がのりしろになってて、親に読まれたくないところは貼って袋とじにしてくださいとか、そんな遊びも盛り込まれていました。
 主人公はフン先生と彼が生み出したキャラクターのブンなんですが、そのブンが泥棒をしにきたり、命を狙いにきたり、どんどん増えて、群集心理で大変なことを引き起こしたりと、メタフィクション的でもあります。仕掛けが全然ほかの小説と違う、どのカテゴリーにも当てはまらない世界観だなぁと驚きました。
 装丁も好きなんですよね。日本の本って、装丁にこだわってるでしょう。新潮社文庫は特にいいですよね。三島由紀夫や谷崎潤一郎のも色やデザインで覚えてる。変わってしまうと顔が違う気がして、両方あれば昔の装丁のものを買ってしまいます。

 演劇でいえば、パンフレットやチラシのデザインも気になりますね。たとえばマームとジプシーは、女優でもある青柳いずみさんたちが作られるというパンフがすごく凝っていますけど、そこからすべてがマームという感じでいいですね。ケラリーノ・サンドロヴィッチさんのナイロン100℃やいのうえひでのりさんの新感線も、劇団が大きくなっても、以前と変わらない“らしさ”がベースになっています。松井周さんのところのチラシも、「何この写真? どこ撮ってるの?」というのがいかにもサンプルっぽい。そういうこだわりが強い劇団が好きだし、見たいという気持ちになりますね。
 そういえば、チラシがこれだけ生き延びているのって、演劇の世界しかないんじゃないでしょうか。映画のチラシはあっても、映画館の座席にチラシの束が置いてあったりはしない。開演前か終演後に1枚1枚チラシに目を通す時間が大好きなんです。結局、ごく限定された時間内に自分の体を劇場に運んで、2時間くらい椅子に縛りつけられなければ出し物が見られないという、不自由でアナログな感じと通じるものがあるのでしょう。そういう面を含めて、演劇の、人が人を見に行くというところがたまらなく魅力的ですね。(談)

中井美穂さん
【写真は、中井美穂さん。撮影=ワンダーランド 禁無断転載】

 【略歴】 中井美穂(なかい・みほ)
 アナウンサー。ロサンジェルス生まれ。1987年~95年、フジテレビアナウンサーとして活躍。「プロ野球ニュース」「平成教育委員会」などの番組で人気を集める。現在、「鶴瓶のスジナシ」(CBC,TBS)、「タカラヅカ・カフェブレイク」(TOKYO MXテレビ)、「松任谷正隆のディア・パートナー」(FM東京)にレギュラー出演。97年から連続してメインキャスターを務めるTBS「世界陸上」をはじめスポーツ・情報・バラエティと幅広い分野のテレビ番組やCMに出演している。演劇コラムの執筆や、クラシックコンサートの司会や朗読などでも活躍中。


「忘れられない一冊、伝えたい一冊 第13回」への1件のフィードバック

  1. ピンバック: 薙野信喜

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