COLLOL「消費と暴力、そのあと」

◎主題と手法の凛々しく心地よい融合
 萬野展

COLLOL公演チラシ
COLLOL公演チラシ

COLLOL『消費と暴力、そのあと』。早稲田LIFT。初見である。
ドアを押して一歩入るとそこはすでに演技エリアのようで、役者らしき人々が、役者らしきオーラを出している。
入った瞬間に全貌が見渡せる小振りなスペース。足元には吹き抜けというよりは奈落のような大きな穴。そこから地階が覗け、そこにもオーラの人たちが垣間見える。一階と地階の二重舞台。そして両方を同時に見ることは不可能な作りのようだ。

受付の人にお金を払い(受付の人は受付の人で受付のオーラを出しているのが不思議だ)、穴を迂回してねじれた階段を降り、地階の奥の客席におさまった。色の抜けた木製テイストの、オモチャのような家具に囲まれて、鮮やかな色の服を着た女性たちがすでに虚実皮膜の向こう側で揺らめいている。

ドアから席につくまでの経路はすべて演技エリアで、役者とすれ違う。客入れの段階から役者が芝居に入っている構成はよくあるが、袖すり合うほど距離が近い(舞台を歩かされているわけなので)のは少ない。すれ違い、目が合う。あからさまな「いらっしゃいませ」目線でもない、かといって無視でもない、曖昧な空気感。たとえて言えば、客がそばを通ることによって生じる空気の流れに感応しているような微妙な雰囲気の統一に、ちょっと感心する。こういう芸当は小手先ではできない。やりたいことを役者が真芯で理解している証拠のように思えて、少し期待値が上がった。なにせ完全に初見なので、期待の針は上にも下にも振れていない。

「消費と暴力、そのあと」公演から
【写真は「消費と暴力、そのあと」公演から。提供=COLLOL 禁無断転載】

センスのいい客入れの音楽のあと、寄せては返すことばのさざ波に見舞われる。女性たちが口々に、発し、繰り返し、囁き、部屋中に言の葉を降りしきらせていく。会話となることは少なく、ひとりごとのような、こだまのような、思い出のような、内面的なリフレイン。ことばは平易で、身体も過剰にならず、ゆっくりと、何かを確かめていく。それはひとりの女の、恋の終わり、希望の喪失、執着と痛惜の物語であるようだ。最初から最後まで、この芝居はそこに表現の焦点を据えて脇目を振らない。
たとえばこんなふうに。

 わたしは、生活をする
 わたしは、いつもにこにこしている
 わたしは、あなたをだいじにしている
 わたしは、あなたを助けている

 わたしは、すべてのひとを、
 助けられるわけじゃないことをわかっている

 わたしは、じぶんのできることと、
 できないことを、はっきりさせている

 わたしは、
 世の中の不正をただす力を持っている

 わたしは、家族を持っている
 わたしは、子孫をこれから持つ

 わたしは、あなたと上手にさよならする

 わたしは、あなたに、
 そこからはじめない?と聞いている

「物語」という言葉を使った。しかしこれは本当は何の物語だろうか。これらのことばはなにを物語っているのか。ひとりの女の声。果てしなく続く自分との会話。反芻。ときおり噴き上がる叫び。そしてまた反復。進展も、突破も、かといって停滞すらもなく。
幸福や愛情という物語から弾きだされて、そのこと自体を、その地点からどう「物語」として語れるか。
おそらく作者はそこにまっすぐに向かっている。
このことばたちは、物語を補完しないし、説明しない。「物語」を語ることばではなく、物語を探すことば。物語をかたる言葉ではなく、ことばが語る物語。
解きほぐさず、分析せず、構成しない、ただ耳を傾けるためのことば。地階から一階の、あるいはその逆の、見えない話者のことばに静かに耳を傾ける、傾けざるを得ない舞台構成は、それを端的に実現している。

「消費と暴力、そのあと」公演から
【写真は、「消費と暴力、そのあと」公演から。 提供=COLLOL 禁無断転載】

それはどんな物語だろうか。
一言で言えば「よくある女のグチャグチャ」である。
そう断じたからと言って誹謗には当たらないと私は思う。「よくある」というのは普遍ということだ。「女のグチャグチャ」は、それをついに理解できない男、あるいはそこに巻き取られることに恐怖する女が、それをどこか見えない背後に押しやっておくための用語でもある。
「よくある女のグチャグチャ」は、「全部入り」なのだ。喜怒哀楽と、それの補色である絶望執着苦痛寂寥。それらすべてが、止まった時間のなかで渦巻いているのが「よくある女のグチャグチャ」なのだ。
幸福の物語から弾きだされるということは、時間という流れから取り残されるということだ。止まった時間のなかに感情は蓄積し、それを前後や脈絡のなかで意味のある物語として構成できなくなるということだ。
入力が出力に繋がらなくなる。停滞し、渦巻いてしまったそれを、整理して大きな物語を再構成するのではなく、ひたすらに微分する。近寄って、凝視して、反芻して、わずかなゆらぎを探して、そこから新たな物語を、もしくは物語の終わりをもぎとってこようとする。
それは痛々しくもあり、常に見覚えがある光景だ。
その作業がそのまま、この物語であり、手法はそれをありのままに引き写している。たったひとことを真実にするために手に入れた手法を、大切に、注意深く、そして極限まで使い尽くそうとする。
美しいのはそこだ。
進展は、あるのだ。
突破はすでになされているのだ。

「消費と暴力、そのあと」公演から
【写真は「消費と暴力、そのあと」公演から。提供=COLLOL 禁無断転載】

過去、芝居は大きな物語を語ろうとした。個人を超えた宿命、情念、開放、自由。
そのために使われたことばは、強く、大きく、空虚だった。
現在、芝居のことばはなにを語っているのだろう。小さく囁く個人のことば。客席の頭上を飛び越えない、「わかることば」。
それもまた「空虚」なのかもしれない。おそらくはそうだろうと思う。

 わたしは、じぶんのできることと、
 できないことを、はっきりさせている

誰もが知っていること。海の青さや、山の高さや、空気の冷たさを、音にしてみること。
同じことを繰り返し、ことばにしてみること。
これに似たものが日本にはある。それは俳句や和歌であると思う。
形式のなかに「ひたぶるおもい」をおさめること。「思い」奇抜さではなく、誰もが知っている思いを表現する形を求め、それを探し当てる、それが鎮魂ということだ。
芝居は、大きな物語、情念、そういったある種の軛から逃れつつある、と近年私は感じてきた。
それはすでに仮想敵を必要としなくなった芝居が、新しい表現者を求めて移ろってゆくプロセスなのかもしれない。
それは「進歩」でも「発展」でもない、芝居のもうひとつの「そのあと」だろうと思う。

主宰で作・演出の田口嬢とは、20年ほど前に同じ劇団にいたことがある。
彼女が入った劇団の主宰が私だったのである。
私は当時、芝居をはじめて15年目にして、そうとうに危機的な状態だった。
結局私は彼女に一言のセリフも書くことはなかった。
以来、20年目にして今回はじめて彼女の芝居を見た。
だからと言って贔屓目に言うわけではないが、こんな魅力的な役者だった(あるいは、役者になった)とは想像していなかった。
舞台空間も、スタッフワークも、役者陣も総じて良かったが、そのなかでも役者としての「田口アヤコ」が非常に映えていたことを付け加えておきたい。
(2012年10月20日マチネ観劇)

【筆者略歴】
 萬野展(ばんの・ひろし)
 1962年2月東京都世田谷区生まれ。本名・押田鉄生。横浜国立大教育学部卒。1980年~1994年、劇団どどど企画主宰として、29本の芝居を作・演出する。1996年~現在に至るまで、俳優ワークショップStudioB、劇団ラフタフ、OfficeBANNO企画公演等、23本の作・演出を手がける。現在OfficeBANNO主宰。

【上演記録】
COLLOL「消費と暴力、そのあと
LIFT(東京都新宿区早稲田鶴巻町)(2012年10月17日-21日)
劇作・演出:田口アヤコ
上演時間約 65 分

出演者
菊地奈緒(elePHANTMoon)
宍戸香那恵
汐見鈴
杉亜由子
松本みゆき

東京ディスティニーランド

八ツ田裕美
田口アヤコ

スタッフ
劇作・演出:田口アヤコ
音響・演出:江村桂吾
研究・演出:角本敦

照明:関口裕二(balance,inc.DESIGN)
舞台監督:吉田慎一(Y’s factory)

制作:COLLOL
制作補:守山亜希(tea for two)

宣伝美術デザイン:鈴木順子
フライヤーディレクション:八ツ田裕美
フライヤー撮影:川崎由紀
撮影者:大木裕之

主催:COLLOL

チケット料金
 前売・当日とも3,000 円 学生割引2,000 円 カップルチケット(2 名様)5,000 円 リピーター割引1,000 円

「COLLOL「消費と暴力、そのあと」」への10件のフィードバック

  1. ピンバック: COLLOL
  2. ピンバック: 田口アヤコ
  3. ピンバック: 髭将軍
  4. ピンバック: Junko Suzuki
  5. ピンバック: やっぴーだ・ひー
  6. ピンバック: 吉田慎一
  7. ピンバック: ふくきち
  8. ピンバック: 水牛健太郎
  9. ピンバック: 薙野信喜

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