◎悲しみに溺れる、という救い
小川志津子
カムカムミニキーナが、何かを脱ぎ去った。防ぎようもなく押し寄せる哀しみの大波を、忘却でも逃避でもなく受け止めることが果たしてできるか。生き残った者はいかに生き、去る者は何を遺すか。昨年の『かざかみパンチ』にはその渾身の問いがチラシやメインビジュアルにあふれていたし(万物を引っつかんだ拳が地面から突き上げられている)、今年4月、ウエストエンドスタジオで上演された『えびすしげなり』も、他者からもたらされるものにただ乗っかって進むことの危うさを描いた。
そして、『ひーるべる』。古事記の逸話が随所に織り込まれた、人類の根源を問う物語だ。しかし出典とか時代考証とかそういったことは振り捨てるような激流がそこにあった。織り込まれる物語は挿話ではなく、『ひーるべる』という大河の支流として、河口へと結集していく。時空だって超える、生死だって超える。超えるというか、巻き添えにしてうねり、流れていく。観客がすべてを咀嚼し終えるまで待ったりはしない。これは、轟音を立てて、流れ去る物語なのだ。轟音は轟音のままに、観客はその身を浸し、委ねる。そこからが、この物語を堪能することの始まりと言えよう。
冒頭。モノローグを語り始めるベル(広澤草)が暮らすのは浜辺の集落だ。その兄・黒土(くろんど・八嶋智人)は彼女にぞっこんで、いかに妹と夫婦になるかで頭がいっぱい。ある日「えびす」(佐藤恭子)なる正体不明の男がふわふわと浜に流れ着き、彼の予言通り、浜に大きな鯨が打ち上がり、しかしその「えびす」はかつてこの海に流された命の復讐の姿であると、海魔女のアガサ(田端玲実)は御託宣を下す。数多(あまた)の登場人物を無理矢理仕分けるなら、ここは「浜辺パート」。
そして舞台はその国の王宮へ。かつて生まれたばかりの我が子を海へ流した王・蔵王(松村武)。夫以外の男との隠し子を持つ王妃・浪座(藤田記子)とその隠し子・鳴雉(なきめ・若松力)。太陽のもとできらきらと暮らす、長女マアテル(米田弥央)。物陰で本ばかり読んでいる次女ツクミ(長谷部洋子)。そして勢いだけは誰にも負けない末っ子長男のスオウ(金児憲史)。それぞれに屈折を抱え、それぞれの「しきたり」の下で生きている。折々に古事記の物語が挟まれる「神話パート」である。
そして唐突に“異物”が彼らのもとに押し寄せる。前述のアガサと、二度にわたってこの浜に流れ着いた「えびす」。そして泳げないくせになぜか海に飛び込んで、なぜか彼を助けてしまって、自分でもびっくりしているヒルという名の青年(中島栄治郎)と、いつも不安げな恋人カネミ(田原靖子)の「訪問者パート」。以上三色が、この物語の大渦をなす。
【写真は、「ひーるべる」公演から。撮影=宮木和佳子 提供=カムカムミニキーナ 禁無断提供】
ここで特筆したいのは、劇団員たちの個性…というか、匂いである。数年前まではそれぞれの持ち味がてんでばらばらで、今回のような一大叙事詩を展開するのは難しかったろう。けれどこのところ、作家の変化に伴って、彼らも何らかのアンテナを得たようだ。周波数を共にしながら、てんでばらばらな匂いを放つ。そのことが、一大叙事詩をより豊かにしている。もちろん、客演陣もしかりである。『焼肉ドラゴン』に出演して観客の涙を絞りとった若松力は、祝福されずに生を受けた者の深い絶望を身に湛えていたし、石原プロからやってきた「二枚目の国の人」金児憲史はいつだって威勢よくエネルギー満点。広澤草は、どこにもかたよらない真ん中のトーンで、まぶしい浜辺から闇覆う黄泉の国までを涼やかに行き交う。
物語は彼らによって、無軌道に膨張を重ねる。「えびす」は気安い和ませキャラで人々の中に入り込み、金をもたらし、黒土だけにその真意を明かす。自分は蔵王に流された赤子の「ヒルコ」であり、その復讐にやってきたのだと。一方、王宮では、姿を隠している父・蔵王の不在に、スオウが苛立ちをつのらせて無理矢理即位。国は大いに混乱を迎える。
…ここからだ。ここからが『ひーるべる』の、そして2012年11月現在の松村武の真骨頂。
まず動くのはツクミである。何かと物陰で本を読んでいた、彼女である。彼女は父を探す旅の行く手で殺戮を目にする。転がっているのはスオウの首だ。そしてスオウに扮した隠し子の鳴雉が屹立し、マアテルからも、魂を奪う。一方、カネミとヒルと「松井さん」(元尾裕介)なる謎の新キャラによって、新たな事実が明かされる。虚構の劇世界で大熱演の一同の中、彼だけはなぜか「松井さん」としてふんにゃりと君臨。ゆるい。とてもゆるい。なのにそこには誰も触れない。混乱のうちに蔵王が現れ、鳴雉に捕らえられ、それまで込めてきた恨みを鳴雉が晴らそうとするその瞬間、海に浮かんだ「えびす」の衣がうねうねと広がり、大波となって人々を飲み込む。-ここまでが第一幕だ。
明るくなる客席、休憩時間だ。筆者のすぐ前の席には、二人組の観客。すぐには言葉が出てこないようだ。彼ら彼女らの心中はどんなだろう。咀嚼する間もなく次々と押し寄せる、「演劇力」の洪水を前にして。
第二幕。海の底。先の大波に飲まれて命を落とした者たちを、慰め、成仏させるための「ひーるの国」と呼ばれる場所で、ベルは海魔女アガサに導かれ、鳴雉の魂に寄り添う役目を得る。その場所に、なぜかヒルもいる。そしてその「なぜか」を読み解くのは、遥か遠く3500年後を生きるカネミである。国の混乱と大波の様子をすべて見ていたツクミが、その顛末を我が身に刻み込み、木像となったそれを拾い上げるのが、彼女なのである。「あのカネミとこのカネミは別人なのか生まれ変わりなのか」的な解釈や解説の類をすっ飛ばして物語は進む。
【写真は、「ひーるべる」公演から。撮影=宮木和佳子 提供=カムカムミニキーナ 禁無断提供】
ベルは「ダンプ」(佐藤恭子・二役)なる子供に出会う。ダンプはベルを「母さん」と呼ぶ。生まれること叶わず流された子の象徴として、ダンプは彼女の深い記憶をひっかく。かつて黒土との間にもうけた子を、流してしまった罪と償い。その慟哭が果たしてどこへ着地するのか、観客は固唾を飲んで見守る。
慟哭、である。慟哭は、慟哭へと着地する。生きることを許されなかった者たちのために、海魔女たちが大いに涙し、声を上げる。ベルもそれに加わり、鳴り響く鐘の音のもと、幕が下りる。
底知れぬ悲しみと絶望を前に、私たちにできるのはまず、ちゃんと泣くこと、悲しむこと。筆者にはそこに、一筋の救いを見たのだ。「過去は忘れて未来へ向かおう」「だって明日があるじゃないか」などといった励ましの顔をした暴力が、この世界には何の悪意もなくあふれているから。悲しいのなら、泣けばいいのだ。いくらでも。そんな素直で澄みきった着地点に、松村武の肝っ玉を思う。前作がこうだったから次はこれで度肝を抜こうとか、この役者をこう使えば観客はのけぞるに違いないとか、これまで彼が張り巡らしてきたあらゆる作戦や戦略をかなぐり捨てて、作品世界に丸腰で飛び込んだ作り手の矜持。彼の歴史は、おそらくここから始まる。
【筆者略歴】
小川志津子(おがわ・しづこ)
1973年神奈川県出身。インタビューおよび「あいにいく」ライター。
【上演記録】
カムカムミニキーナ『ひーるべる』
作・演出 松村武
東京公演 座・高円寺1(2012年11月1日-11日)
大阪公演 ABCホール(2012年11月17日-18日)
名古屋公演 テレピアホール(2012年11月23日)
奈良公演 やまと郡山城ホール 大ホール(2012年12月1日)
CAST:
八嶋智人/松村武/藤田記子/田端玲実/中島栄治郎/佐藤恭子/長谷部洋子/米田弥央/亀岡孝洋/元尾裕介/篠崎祐樹/田原靖子/藍山彩/中野大地/正木航平
[ゲスト] 若松力(ジェイ.クリップ)/金児憲史(石原プロ)/広澤草
STAFF:
■作・演出 松村武
■舞台監督:原田譲二
■美術:中根聡子
■照明:林之弘(六工房)
■音楽:土屋玲子
■音響:山下菜美子(mintAvenue inc.)
■衣裳:木村猛志(衣匠也)
■衣裳進行:和泉みか
■演出助手:高嶋伶奈
■演出補:藤條学
■宣伝・舞台写真:宮木和佳子
■宣伝美術:増井史織
■Web製作:長谷川達之(サージネット)
■協力:
シス・カンパニー
尾木プロTHE NEXT
オフィスPSC
ジェイ.クリップ
エムズエンタープライズ
ロットスタッフ
ボーン・トゥ・ラン
エクスィードアルファ
トルチュ
■制作協力:サンライズプロモーション東京
■制作:横井絹江
■企画・製作:カムカムミニキーナ
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