忘れられない一冊、伝えたい一冊 第18回

◎「公害原論」(宇井純、亜紀書房)
 詩森ろば

「公害原論」合本新装版の表紙
新装版 合本「公害原論」の表紙

 子供のころから趣味といえば読書くらいで、小説も戯曲もずいぶん読んでいるはずなのだが、「忘れられない一冊」と言われると劇作をする中で資料として読んだ本ばかりが思い浮かぶ。歴史に題材を求めたり社会的事象について取材したりすることが多いので、どうしても膨大な資料を読む必要が出てしまうのであるが、読んでいるあいだは、戯曲など早く書き上げて好きなものを読みたいと思っているのになぜなのだろうか。

 おそらくは、自分という人間の範囲を超える読書であるからなのではないかと思う。そもそも歴史が好きだから歴史を書くのではなく、現代が抱えている問題を掘り下げようと思ったときに過去に題材を取ることとなり、そうなるといつもならむしろ避けるかもしれない本を読む必要もでてくる。しかし、そうやって自分の範囲を越える読書はとうぜんだが、自分の知らない世界への扉であるとも言える。劇作をしなかったならわたしのような怠惰な人間は知りようもなかった世界や考え方を教えてくれる。忘れ難くなるのは、必然と言えるのかもしれない。

 そうやって数え切れないほどの書物を大人となってからの自分の教師と頼んできたが、そのなかで、宇井純さんの「公害原論」をここではあげたい。いかめしいタイトルではあるが、東京大学での学生や一般市民に対しての自主講義を取りまとめたものであるので、平易で読みやすい。水俣の地で深くフィールドワークをされた宇井さんが、そこを原点として、「公害」という視座から社会構造や現代を分析し、解き明かしていく。まさにいま読むべき一冊となっている。800ページを超える長大なものだが、一気に読み終えた記憶がある。深い思考と体験が結びついたその言葉は強く、厳しく、けれど暖かくわたしたちに語りかけてくる。水俣病を扱った拙作「Hg」の資料として出会い、その後、何度となく読み返してきた。

 この本の導入部分はたいへん印象深い。「日本は公害が起こりづらい国である。」と始まるのだ。その根拠は、1. 周りを海に囲まれている(廃棄物は海に流してしまえばよい。海のない国では廃棄物の保存場所に非常に苦慮している)。2. 潮の満ち引きがある(世界には海と言っても干満のない海があり、そこでは有害なものがあっても流れていかない)3. 降雨量が多い。4. 風が吹く。そして、5. 国境がない(国境を越えて流れる河川があると、上流から自国の責任ではない有害物質が濃縮されて流れてくる)。

 しかし、そのような諸条件にも関わらず、日本はむしろ世界でも有数の公害被害がある国である、とこの本では続けられている。「公害先進国」と言ってよい、と。

 確かにわたしが育ってきた昭和という時代は、公害とそれによる健康被害が「悪」という認識さえなく存在していた。四大公害病、光化学スモッグ。わたしが育ったのは盛岡という美しい街であるが、いまはその美しさの象徴ともなっている北上川は、わたしが子供のころは上流の松尾鉱山からの硫黄がそのまま流される黄土色の川であった。

 ここからの「高度経済成長」と「公害」の関係性は今こそ読むべき部分である。宇井さんは、「公害」を「高度成長の歪み」と言うのは、公害を出す側の論理ではないか、と断じている。公害被害に遭う市民の立場から言うのなら、「公害」を礎として「経済の高度成長」はなされたのだと。つまりはこういうことだ。「公害」は「高度成長」の歪み、と言えば、どこかに「公害」のない理想的な「高度成長」を成しうるという印象を与える。しかしほんとうにそうだろうか。「公害」を度外視したことによって「低コスト」が実現し、結果として経済は成長した。つまり「公害」のない「高度成長」など有り得ないということなのではないかと。これは経済成長を一義に置いた社会構造への警鐘である。健康被害はわたしたちの社会の歪みではなく必然である。それは、2012年の今、むしろ一層実感として迫るものなのではないか。

 余談ではあるが、この書物を取りまとめた印刷屋さんこそ、水俣でお世話になった胎児性水俣病の方たちの施設を運営している加藤たけ子さんのお連れ合いの方である。そういう意味でもわたしにとっては特別な一冊だ。公害になどまったく興味のなかった印刷屋さんがこの書物に関わることで水俣へと身を投じていくのだが、自主講座の熱気や困難さも含めて、いつか演劇にしたいと目論んでいる。

【筆者略歴】
詩森ろば(しもり・ろば)
詩森ろばさん 宮城県仙台市生まれ。1993年、劇団風琴工房旗揚げ。以後すべての脚本と演出を担当。時に詩のようなと評されるうつくしい言葉の扱いに定評があったが、近年では対話を中心としたリアルな作風にシフトチェンジ。幻想的な独特の雰囲気のなかにもより現実とリンクした作品を作り始めている。2003年『紅き深爪』で劇作家協会新人戯曲賞優秀賞受賞。2004年から演劇の地域交流のあたらしい可能性を視野においた京都でのフェスティバルTOKYOSCAPEを立ち上げ、フェスティバルディレクターを務める。2011年「葬送の教室」にて鶴屋南北戯曲賞最終候補。

「忘れられない一冊、伝えたい一冊 第18回」への3件のフィードバック

  1. ピンバック: 薙野信喜
  2. ピンバック: 亜紀書房
  3. ピンバック: NINA

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA


このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください