◎「市民演劇」のさらに先へ
小川志津子
島根県雲南市で今回3回めとなる「雲南市演劇によるまちづくりプロジェクト」が、回を重ねるごとに注目度を増している。雲南市在住の県立高校教師で演劇部顧問、亀尾佳宏の作・演出で、今年は『水底平家』が上演された。もとは演劇部員向けに書かれた60分の物語に、大幅なリライトとアレンジを加えて2時間の作品へとブラッシュアップ。出演者とスタッフは公募により集められ、総勢60名の大所帯となった。昼間は会社や学校に通う、演劇初心者から現役演劇人までが顔を揃える。普段はコンサートや映画上映に使われる公共ホールの1階席が、計3ステージとも、ほぼ埋まった。
物語は、とある海辺から始まる。主人公の少年・ミカオ(安井雄太)がリコーダーで『浜辺の歌』を吹いており、婆ちゃん(林一博)がそれをたしなめる。海で、笛を吹いてはいけない。この海で滅んだ平家の亡霊に、水の底へ連れて行かれてしまうからと。
ミカオを演じる安井は小学4年生。演劇のエの字も知らなかった、何とも素朴な少年である。彼の天真爛漫な演技が、まずは物語を展開させる。婆ちゃんが語り聞かせてくれる平家の栄枯盛衰にふれて、ミカオはつい、また笛を吹いてしまうのだ。自分と同じ年ごろで戦に巻き込まれた、安徳天皇を思って。するとたちまちミカオの足は動かなくなり、亡霊たちに導かれて海の底へ。気がつくとそこは平家の世であり、身なりも髪型もすっかり変わって、自分は安徳天皇(中林真希)になっている。
大人たちは、自分を「ミカド」と呼ぶ。そして彼を取り巻く平家の公達どもは、どこか憎めないおじさんばかりだ。女官一の美人・小宰相(高橋七子)に一目惚れしてしまった通盛(西藤将人)。そんな兄のダメっぷりにあれこれ翻弄される教経(井上元晴)。痛快馬鹿キャラのようでいて、締めるところはきっちり締めるリーダー格の知盛(亀尾佳宏)。そして、持っていたリコーダーを通してミカオと心を通わせる、音曲好きの敦盛(水口絵梨香)。
ミカオのタイムスリップをはじめ、登場人物たちが時空を行き交う演出が映える。紅白の長旗が、ある時は波となり、ある時は風となり、ある時は船となって、場面転換をスピーディーにしている。群衆役を演じる一般市民もかなりの集中力。雅やかな着物で舞い踊った直後、甲冑姿で戦乱シーンを演じる女性キャストも多数。舞台裏ではそれこそ戦場のように、早替えの嵐が吹き荒れているはずである。たまに「ごん」と何らかの衝突音が舞台袖から聞こえたような気がしなくもないけれど、それすら奮闘の証しのようで、う~んナマってこれよね、とか思ってしまう。
そう、演劇の楽しさとは、例えば誰それの作品で、誰それが出ていて、なんて、有名人たちを観に行くことばかりではない。また、まだ知られていない若手注目株をいかに早く見出すか、でもない。自分たちで作る。自分たちで発信する。ジャンルや境遇を問わず、その喜びに思い切って身を投じた人たちの、地方演劇にしか出せないパワーが、ここにはある。
さて、キーパーソンが、もうひとり。ミカオが飲まれた海へとっさに飛び込んだ、婆ちゃんも一緒にこの世界へ来てしまっているのだ。彼女はここを「大河ドラマの撮影現場」だと信じて疑わない。安徳天皇の祖母・二位の尼“の役の人”として、そのへんを大いに行脚する。「武士の役をやってみたい」と大太刀を振り回し、「馬の役もやってみたい」と被り物姿で敵陣を打ち砕く。婆ちゃんはそうやって、奇跡的な勘違いを繰り返しながら、いつだってミカオのそばにいる。
やがて、戦の色合いは強まってくる。源義経(松﨑義邦)が熊谷直実(藤原寛貴)を伴って、陣地へと攻めこんでくるのだ。勝負の行方を知っているミカオは、必死で戦をやめさせようとする。すると、知盛が彼に、こう問う。
「死ぬことがわかっておりますれば、人は生きることをやめるのでしょうか」
人の死生観を描いた作品が、亀尾には多いと聞く。「人は皆、やがて死ぬのだ」という現実から、彼は決して目を背けない。本作のタイトルにもある通り、「皆、そこへ行く」のだ。生の喜びを高らかに歌い上げる(ようなイメージを抱かれがちな)高校演劇界にあって、ひょっとしたら彼は少し異端なのかもしれない。けれどこれまで受け持った高校演劇部を、全国大会に7度も導いたその理由は、死を見つめることで生を考え抜く、その真摯な姿勢にあるのだろう。
閑話休題、決戦前夜。敦盛はミカオにもらったリコーダーで『浜辺の歌』を吹き、通盛は小宰相のもとへ向かう。「不安なときこそ人は、愛しきもののそばにありたいもの」だと。この、通盛という男の造形もまた哀しい。戦いの場で、敗れながらもなお、幾度も逃げ延びてきた自分。小宰相の心を射止め、心の安住を得たはずなのに、なぜか重いままの気持ち。地元で劇団「ハタチ族」を率いる俳優・西藤将人は、そんな心の揺れを、大きな瞳と長い手足で大いに表現してみせる。
やがて戦が始まり、ミカオと仲良くなった者たちがひとり、またひとりと散っていく。通盛の死を知った小宰相は、次の世で添い遂げたいと自らの命を断つ。ミカオにはそれらが理解できない。「立派な最期ってなんだよ! 死んじゃったらみんな同じだろ! 死に方にいいも悪いもあるかよ!」。では平成の世では、戦は無くなっているのかと知盛が問う。「戦は…ある。いろんな国が、戦、続けてる」「面白いですな。滅びると皆が知っていながら戦い続ける世の中ですか。その国は、いったいどこへゆきつくのでしょうね」
自分の人生を、自分で選び取れること。あれ、違ったな、と思ったら、またいくらでも選び直せること。それこそが平和であり自由なのだと、筆者は考える。と同時に、それが許されなかった世を思う。そんな時代に生まれていたら、自分はどうしていただろう。どこにいて、誰を愛し、何を目指して生きていただろう。……わからない。見当もつかない。劇中の知盛たちが「平成の世」を思い描けないのと同じように。
人は、自分以外の人生をゆくことはできない。だから、この人生を生きるしかない。自分以外の者には味わえない、目の前にある人生を。
自分がゆくべき人生の最期は、平家の滅ぶ様を見届けて散ること。そう言い残すと、知盛は自らの首を掻き切る。その血で染まった真っ赤な海を漂って、ミカオは平成の世に戻る。気づけば、婆ちゃんの膝まくら。いつどこにいても変わらない、明るくて豪快な婆ちゃんの膝まくら。
そして、いよいよラストシーンだ。長い旅の果て、ミカオと婆ちゃんの背後に、大きな日の丸が掲げられる。―正直なところ、ぎょっとした。小学生からシニアまで、様々な境遇にある一般人による、市民演劇のラストシーンだ。何らかの抵抗や反対意見が、現場に無かったはずがない。胸に湧きあがる、もやもやとした何か。だがその一方で、芝居に打たれている自分も否めない。
話を、物語の序盤に戻そう。婆ちゃんは、友だちとのケンカに負けたミカオを励まそうと、日の丸を振って応援する。平家の世に飛んでしまったミカオは、ポケットに残っていたその布を「平家の旗」にしようと無邪気に提案する。兵士たちはそれを「平家の赤を中に据え、源氏の白を従える」と解釈して、ミカオを囲んでわっはっはーと盛り上がる。
この物語において日の丸は、それらの幸福な風景をつなぐ1枚の布きれだ。本番を控え、参加者全員に配られたという、7000字に及ぶ亀尾のメッセージにはこうある。
そして、観客に配られたパンフレットには、こうだ。
亀尾が志す「創作市民演劇」は、街づくりや市民友好の一歩先にある。作り手も演じ手も観客も、同じ何かを思考するということ。そうすることで生まれる大きなうねり全体を、彼は「創作市民演劇」と呼ぶのだ。かつて多くの小劇場演劇が、そうであったのと同じように。ラストシーン、日の丸をバックに婆ちゃんが語る一節を紹介して、この文章を締めたい。
日が昇る。浮かれ踊る人々。赤でもない白でもない桜が舞う。
舞台いっぱいに広がる戦乱の様。
―幕―
【筆者略歴】
小川志津子(おがわ・しづこ)
インタビューおよび現場居座り系フリーライター。演劇・映画誌などで記事やレポートを執筆。完全自腹型密着インタビューサイト 『あいにいく』を人知れず運営。日本全国、あたたかい人大募集。
【公演データ】
雲南市演劇によるまちづくりプロジェクト実行委員会「創作市民演劇 水底平家~みなそこへいけ~」
雲南市木次経済文化会館チェリヴァホール(島根県)(2013年3月16日-17日)
作・演出:亀尾佳宏
出演:安井雄太、中林真希、林一博、亀尾佳宏、西藤将人、井上元晴、高橋七子、水口絵梨香、松﨑義邦、藤原寛貴 他
舞台監督:松浦智有
音響:内田昭弘、小林さつき、岡田真那美
照明:田中大介
衣装:高尾枝理
照明技術・制作進行:大原志保子
制作:大坂亮、小林有希子、森脇純子、細田麻実
主催:雲南市演劇によるまちづくりプロジェクト実行委員会(委員長 吾郷康子)