◎油断を積みあげること、その開きかた
斉島明
スターフライヤーの飛行機は鯨を模してペイントされているのだと教えてくれたのは、のこされ劇場≡の女優である沖田みやこだった。スターフライヤー社は福岡空港・北九州空港を主な起点とする航空会社である。全体が黒く、腹のあたりだけが白く塗られた、まさにその飛行機で北九州空港に着いたのが、その日の朝9時頃だった。
『枝光本町商店街』は枝光本町商店街を舞台に上演された。商店街は福岡県北九州市の八幡東区にあり、遊園地「スペースワールド」の名物ジェットコースター「タイタンV」を西に望む。けれど「タイタンV」がそびえる西の空には、かつてはジェットコースターではなく煙突が立ち並んでいた。当時日本一の大企業であった八幡製鐵所のものだ。
この町は鉄都とも呼ばれ、企業城下町として栄えた。けれど工場は次第に縮小して遊休地になり、遊休地は遊園地になった。鉄都の台所であった商店街の機能は今、滅びつつある。
のこされ劇場≡から出演するのは沖田ただ一人である。彼女の導きに従って、私たち観客は商店街を歩き、枝光の住人たちと出会う。ところどころを訪ねて昔話を聞いて回る、地域振興のふるさとツアーのような所作が、けれど、作品が進行するにつれて少しずつかたちを変えていくことに気づくのに、さほど時間はかからなかった。
住人に出会うと、芝居と物語りが行われる。
最初に観客が訪れる和菓子屋では、店舗を訪ねてもすぐには女主人が出てこないで、奥でなにやら探しものをしている。見れば店内のあちこちの戸棚も開いたままになっている。ようやく出てきて「いやいや見つからない、困った困った」とこぼす女主人に沖田が「なに探しとんの」と聞くと、女主人は戸棚を閉めて回りながら「跡継ぎ」と答えるのだ。
この一言で観客は、女主人がすぐには出てこなかった一連のことが小芝居的な演技だったと気づくことになる。おや、と思いながら女主人、みずまさん、の話に耳を傾ける。跡継ぎ探しというのは明らかに仕組まれた小芝居的な演技だった。しかし跡継ぎは実際に求められてもいる。では時代らしいひょうたんの図案が描かれた古い広告記事はどうか。店が面する白川通りが花街だったというのはいかにも本当らしい。その横丁の込みいったところへ話が及び、けれど自分は当時、子供で女だったから細かいところはわからない、とはぐらかす。そうして不意に、観客のなかに跡継ぎに向く者があるか試したいなぞと言って、名物最中を作ってみるよう命ぜられる。
自分で餡をはさんだ最中の甘みが口から消えないうちに、はす向かいのアーケードのフルーツ店へ導かれ、それから県道沿いのそば屋へ、また戻って商店街の呉服店へ。バナナのたたき売りが披露され、八幡製鐵所やその本社社屋のこと、また花街の話、かつてあった劇場「ニコニコ座」の話。住人がちょっとボケたところへすかさず沖田がツッコむのも、お約束なのか小芝居なのか判然としない。
するうちに、なんだかメビウスの輪に乗せられたような気になってくる。自然に話しているように見える住人たちの、あるいは沖田の、平常の振舞いと小芝居的な演技との境目がどこにあるのか、次第にわからなくなるのだ。
重要なのは、これらの小芝居的な演技を見せられることそれ自体は、私たち観客が商店街を連れ回される主目的ではないということだ。むしろこれらの演技を媒介にして、観客は枝光の生活や歴史を題材にした演劇のなかへ少しずつ引き入れられていく、橋を渡される、そのような装置としてこれらの演技は機能する。
ここで連想されるのは『三宅島在住アトレウス家』(2012年、以下『アトレウス家』)である。東京都台東区の旧平櫛田中邸で《山手篇》が、三宅島で《三宅島篇》が上演された。アトレウス家というのは、ギリシア神話に登場するアトレウスとその子孫たちのことだ。
『枝光本町商店街』と共通するのは、観客と役者が上演時間をともに過ごす作品だということと、一人一役だが役者は常には演じていないということだ。役者は役者本人として観客と話し振舞うことも、役として台詞を発し演じることもある。その切り替えは不明瞭に行われる。先ほどまで観客と話していた役者が、ふと気がつくと演技をはじめている。そのようにして、『アトレウス家』ではギリシア神話の登場人物が、『枝光本町商店街』では街の住人であるその人本人がそれぞれ演じられる。
役者が常には演じないことについて考えたい。たとえば『アトレウス家』においては、観客と役者の間に、また役とその役が物語る場所=三宅島の間に、それぞれ橋が渡されている。観客と役者は同時代に生きているという点で接続されている。役と役が物語る場所は、登場人物の全員または一部がその場所にいる、いた、ことになっているという点で接続されている。けれど役者本人と役との間には、橋はあらかじめ渡されていない。その関係の成立を認めて橋を渡すのは観客の役目だ。
役者が役者本人なのか役なのかわからなくなる、重なって見える、ことによって、観客は両者の間に橋を渡してしまう。そのように接続されて、観客は三宅島にまで思いを馳せてしまったりする。
次に、場所が果たす役割について考えたい。台東区で上演された『アトレウス家』《山手篇》において、橋を渡されて至る先は三宅島そのものであった。対して、三宅島で上演された《三宅島篇》で至る先は三宅島そのものではなく、二十年毎に噴火がおこる三宅島で営まれてきた生活、時間であったように思う。台東区からは点、他人事、にしか見えなかったものごとが、三宅島その場所を訪れることで等身大に拡大される。場所それ自体が、今現在のその場所と、そこで続いてきた時間とを媒介する。またその場所で生活してきた人々も、その場所で時間を重ねてきて、いま観客の目の前にいる、という意味で、同じように今現在と、そこで続いてきた時間とを媒介するだろう。
『枝光本町商店街』では商店街がその役割をして、今現在の枝光と、そこで営まれてきた生活とを媒介する。また役者たちは枝光で生活してきた主に中高年の人々だから、役者自身も同様の役割をする。さらに役者が演技の状態と演技でない状態を連続的=シームレスに行き来して、観客と役、役が物語る場所=枝光本町商店街を媒介する。二重三重に橋が渡される。
『枝光本町商店街』が『アトレウス家』と異なるのは、ここへさらに、観客の油断を誘う装置が加えられることだ。
【写真はいずれも「枝光本町商店街」から。提供=のこされ劇場≡ 禁無断転載】
観客はたいがい観劇に真面目で、演劇的なものをみつけると演劇として見ようとしてしまうし、演劇だとして提示されたらそこへ演劇を見いだそうとしてしまう。けれど枝光の人々は観客をそうさせない。彼らは演劇というにはあまりに自然に、喜々として町の話、またのこされ劇場≡との関わりの話(劇団はレジデント・カンパニーとして四年間活動してきた)を観客に聞かせる。また目で見て耳で聞く以外の刺激を受ける機会、たとえば歩いて移動する、食べものを口にする、ような機会をたびたび観客に与える。いわゆる劇場での観劇中にはほとんどあり得ない隙のつくられかただ。
演劇の名のもとに話を聞きにいくのは、PortB『完全避難マニュアル 東京版』(2010年、以下『避難』)にも似ている。震災前の秋ごろ、山手線各駅周辺を舞台に上演された。各駅のそばに一個所ずつ設定された「避難所」を観客が訪れて、たどり着いた場所から東京を眺めたり、そこにいる人と話をしたりする。
『枝光本町商店街』が『避難』と異なるのはまさに、油断という点である。『避難』は明確に演劇としてアナウンスされる。観客は演劇的なものが提示されることを想定して「避難所」へ赴き、帰ってくる。その誘導は地図によってのみなされ、訪問の身振りのどこからどこまでが演劇的なのか明示されない。そのため『避難』において観客は、観客的な緊張、観劇の準備を暗につねに要求される(そのような緊張感が作品の重要な要素でもある)。
『枝光本町商店街』も、もちろん演劇としてアナウンスされている。しかしいざ始まると先導してくれる女優沖田がいる。観客は彼女によって歩かされ、飲み食いさせられ、住人たちと出会う。話も沖田が盛りあげるし、小芝居的な演技にも必ず沖田が加わる。沖田は率先して観客を油断させようとする。どこまでが演劇だかわからないが楽しい。いつのまにか、沖田と枝光の人々=役者たちによって提示されている物語が、あたかも自分と関係する歴史であるかのように引き入れられる、振りまわされる。
しかしこのように観客を油断させるのは、並大抵のことではないはずだ。なぜならこの油断は、観客に対して劇団ではなく町の住人達から許された油断であり、それは町の住人達と劇団との間にある油断を前提としてはじめて観客にとって可能になるからだ。私たち観客に対して『枝光本町商店街』を介して開かれていたのは、住人たち(と、劇団)によってこの場所に構築されてきた油断そのものだ。
開かれた油断に基づいて、私たち観客は親身に観劇に没頭する。花街・白川通りの栄華を、疑いなく覚えこまされていく。提示されるものはすべて伝聞で構成されたいわば輪郭にすぎず、そこにあったものごとについてはほとんど直接的に語られないにも関わらずだ。
油断しきって橋を渡った観客に白川通りの輪郭を覚えこませて、最後に沖田が導く先が料亭「光の家(みつのや)」跡地である。光の家は枝光で最高級の料亭として大いに栄え、今は空き家になっている。
この光の家の各部屋でどのように宴が行われたか偲んだあと、屋上で沖田による最後のパフォーマンスがある。この場所には、料亭の一人娘が晩年住んでいたという。街一番の料亭の箱入り娘は、料亭を閉めたあとも長くその建物に住み、けれどついに枝光を去っていった。その日に彼女と、彼女のそばにいた人たちのあいだで起きたことを沖田が再現する。この半日、先導することと油断させることに徹してきた沖田によって、はじめて明示的に演技がなされる。これまで執拗に輪郭だけを描いてきたところへ、満を持していちどきに赤を塗るように、花街の栄華と衰退が鮮やかに提示される。
輪郭として提示されてきたかつての白川通りの実在と、枝光を歩くことによってわかるその不在とは、けれど、ここまででは断絶していた。過去の栄華と現在の衰退とは個別に提示されてきた。しかしその間にあったはずのこと、実在したものが不在になるまでに起きなければならないことが、このパフォーマンスによって提示される。この光の家での別離の演技は、光の家で実際に起きた別離はもちろん、枝光で数えきれないほどあったのだろう別離を想像させる。
「さよなら、商店街。」と、当日パンフレットの冒頭に作・演出の市原幹也が書いている。
観客はこのパフォーマンスに接続されるために、半日かけて橋を渡らせられ、油断させられ続けてきた。沖田によって演じられるのは、もはや観客にとって他人事ではない、そこで油断できるほど観客が親しんだ町で起こった別離の話だ。
油断は本来閉じた構造のなかに生じるものである。枝光本町商店街のコミュニティに内在する油断は、外側へは開かれない豊かさ、閉じることによってしか生じない類の豊かさのはずだ。しかしのこされ劇場≡が町と油断を築いてきたこと、町の油断に連なろうとしてきたことによって、その油断に依った作品を作ること、外側の人間を招き入れる、豊かさを開く、ことが可能になったのではないか。
作品の中盤で、鯨肉を販売する店舗に出会ったことを覚えている。北九州市は鯨の町でもある。だからスターフライヤー社の飛行機は鯨の姿をしている、ということを女優の沖田が知っている。
たった半日歩いた程度で町に近づいた気になってしまう、というのは欺瞞にすぎないかもしれない。私は枝光のことを本当にはほとんど知らないと思う。けれど私があなたを知っていると感じることから、あるいは、あなたも私を知っていると私が信じてしまうようなことから、おそらく油断ははじまる。本来枝光のなかに閉じている油断が、すこしだけ私に開かれたと思う。私も次に枝光を訪れるときにはきっと、今回訪れた時より油断している。
【筆者略歴】
斉島明(さいとう・あきら)
1985年生まれ。東京都三多摩出身、東京都新宿区在住。出版社勤務。PortB『完全避難マニュアル 東京版』から演劇に興味を持ちはじめる。fuzzy dialogue 主宰。
【上演記録】
のこされ劇場≡「枝光本町商店街」
集合場所 枝光本町商店街アイアンシアター
出演 沖田みやこ(のこされ劇場≡)、水摩直美(みずま菓子舗)、田中幸治(ふ
るーつ&やさい・たなか)、三木進(三木呉服店)、井上敏信(生そば鶴亀)、他、
商店街の皆さん
脚本・演出 市原幹也
料金 一般:1800円/学生:1500円
2013年3月23日(土)13:40開場 14:00開演
3月30日(土)13:40開場 14:00開演(アフターイベントあり)
初演 2011年11月7日(月)‐26日(土)(えだみつ演劇フェスティバル2011参加作品)
再演 2012年3月10日(土)-31日(土)(北九州市産業経済局発行・ココっちゃ北九州掲載作品)
再再演 2012年11月13日(火)-20日(火)(北九州市産業経済局発行・ココっちゃ北九州掲載作品/NPO北九州タウンツーリズム発行・まち歩きのススメ掲載作品)