忘れられない一冊、伝えたい一冊 第24回

◎「日日雑記」(武田百合子著 中公文庫)
 小野寺修二

 映像の現場へ行ったことは数える程だが、先程撮ったものの確認を大の大人が画面の前にひしめき合い、ぎゅうぎゅう集まってじっと見ている。いろんな立場の人が各々、それぞれ高くなって低くなって見ている。見終わって、ああだこうだ言うでなくまた散って、じっとり形になる。見るって、こういうことだと納得する。

 ある時。道を歩いていたら園児がツーと出てきておもむろに、道に埋まった銀のポールをぐいと持ち上げた(駐車場の前にある、鎖で繋がっているやつ)。その脈絡のない唐突さ。子どもに限らず躊躇なく、意味のないことをしてしまうが、持ち上げるってこういうことだ。持ち上げたいから持ち上げる。母親に「何してるの」と驚かれ、子ども自身驚きの様子。

 何をやってるのか、何故やってるのか、何をやりたいのか、何を言いたいのか、たまにそんなことを聞かれたりするが、問いの答えはない。ないと言いたい。日によって真逆のことを真剣に、とうとうと話したりする。話しているうちに興奮して、錯覚したまま言い切って帰路につく。ぐちゃぐちゃな言葉にまみれ眠りにつく。頭の中は雑然と、その場その場でたくさん。思い違いが混じったままたくさん。自分を信用してはいけない。

 何か「1」を形作ろうとする時、さあ作ろうが先に立ち「1」っぽいものが出来たけど全然事実そうじゃない(張りぼて)ことがあって、そもそも「1」って何なんだ、だいたいにおいて先ず上手いこと言え過ぎ(ええ格好しいと呼んでよい何らか)は疑った方が早い。多分そっちじゃなくて、だって1だし。だからといって言わなきゃいけない局面もそこそこ多く、断言するのは余程後ろに気を付けたく。ただただ目を見開け自分。

 武田百合子さんの『日日雑記』。ある時本屋で偶然手に取り、止められず、重心をあっちへこっちへ読み切って、そして買って帰った本である。見る、ということの全て。

 僕はマイム出身で、八百屋と魚屋の違いが伝えられない「不自由」にいて、ある種の欠落というか諦めがある。だって八百屋と魚屋全然違う。でもそこを手放しているから掘れる所もあって、近くの見過ごしている何か。見る、真ん丸く二つで見るしかなく、最近そこに改めて気付いている次第。見る、で発見ある。存外見ているようで見ていない。漠然とガラス玉に映している。

 張りぼて作成は、最中には気付かず夢中になったりして、そこが恐ろしさの所以だが、そういう自分の視野狭窄は責めないとして、気をつけたいのは目、開いてますかー?というところ。何時いかなる時、張りぼてを無我夢中に作成してしまうか分からない危険と隣り合わせの中、とにもかくにも目を開く。ふと、自分の足元が崩れ始めている予兆がしたら、『日日雑記』を開く。そこで、そうだと思い出す。目の前のことをじっと見る。

 僕の近況に関係なく、何時だって何時開いたって、じっと見ている武田百合子さん。格好良過ぎる。

【撮影=石川純 禁無断転載】
【撮影=石川純 禁無断転載】

【筆者略歴】
小野寺修二(おのでら・しゅうじ)
 カンパニーデラシネラ主宰。1966年生まれ。演出家。1995年-2006年「水と油」にて活動。作品はマイムの動きをベースに台詞を取り入れた独自の演出で、世代を超えた観客層の注目を集めている。また、ダンストリエンナーレトーキョー2012にて『ロミオとジュリエット』、瀬戸内国際芸術祭2013で屋外劇『人魚姫』上演など、劇場内にとどまらないパフォーマンスにも積極的に取組んでいる。第18回読売演劇大賞最優秀スタッフ賞受賞。

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