◎彼はたったひとりで選択を山積みする
ハセガワアユム
作家が物語を紡ぐ際、自分の人生をどれくらい切り売りするのか。物語を書き発表し続けていると、人生のどの断面が面白くなるのか、どの部分をどれほど混ぜればちょうどいい濃度になるのかコントロールするようになる。でないと人生に対して創作が追いつかなくなってしまうからだ。小西耕一は作家ではなく俳優である。それ故にか、本作は尋常じゃない人生の濃度が満ちていた。当日パンフレットの文章に記載されていたのは、「何故自分がこんなにも女性に対して傷つける言葉を吐いてしまうのか」という探求。また幼少期における両親の離婚、別れた父親への小さな言及、去ってしまった人間関係は取り戻せないこと、などが並ぶ。これはこれから始まる芝居の答えになってしまう可能性があると、僕はそっと閉じた。危ない危ない。たいてい普通のパンフレットは作家の超どうでもいい挨拶が多いのだけれど、いくら作家じゃないからって、もうなんなんだよ、いきなりこの濃さは、と苦笑していると幕が開いた。
小西耕一のキャリアは脱サラ後に演劇学校に通うという遅いスタートだったが、エレファントムーン、ミナモザ、国分寺大人俱楽部、MCR、鵺的、そして僕が主宰し脚本・演出を務めるMUなど、数々の劇団に出演して認知度をじわじわと高めている。人気俳優の小池徹平にやや陰影を交え屈折させたようなルックスは充分に端正であるが、本作の主人公・小西タケシとして、顔の左目付近に痣を携えて登場する。誰もが持つコンプレックスの象徴のようにマーキングをされた彼が「もともと嫉妬深い人間だった」と喋り出す。
小さなギャラリーのようなフリースペースに、ベッドを模した平台が一枚。それとZIMAの瓶に生けられていた花が一輪、といったシンプルなセットのなかで、モノローグも挟まれるが基本的に(自分以外の架空の人物と)会話を堂々と行ない続ける。ひとり芝居によくある、話し相手にわざと「余白」を持たせるゆっくりとしたリズムではない。架空の相手に対して遠慮のない速度で台詞が循環してゆく。それは観客に登場人物たちを想像させる速度として正解だった。とてもじゃないが、身近な誰かの顔をたぐり寄せないと、その会話の速度には追いつけない。タケシが愛する、性に奔放で小説家を目指す「みよちゃん」に僕は大昔好きだった女の子の顔をハメ込む。仕事が出来て頼りになり姉のような上司の「先輩」に友人でもある舞台女優にメガネを勝手にかけさせてハメ込む。みよちゃんの浮気相手でバーを経営しエグザイルみたいな色黒の「クラモトユウスケ」には、朧げなエグザイルのひとりと知り合いのクラバーの顔を足してハメ込む。姿は見えないけれど、彼らの体温が次々と劇場を埋めて行った。
物語は、30歳を目前に控えたサラリーマンであるタケシが、実家の母親(離婚後・再婚。これもパンフレットに記載された事実と同様だ)からの電話に減給を愚痴っていると、恋人のみよちゃんが訪れるところから始まる。みよちゃんはガールズバーで働きつつ自分の男性遍歴を小説に書いて賞に投稿している。まあ、ある種の自己顕示欲とある程度のルックスを兼ね備えた痛い女だ。その痛いみよちゃんには浮気症というあまりにもあまりな欠陥があった。2年間で13回も浮気を繰り返し、クラブのDJ、ダンサー、舞台俳優、舞台監督、バンドマンのギター、そのバンドのベース、そのバンドがライブしているライブハウスのオーナー、とまるで語呂遊びの冗談のような、ひどい履歴だ。昼間まっとうに働いているタケシに言わせれば浮気相手全員が「陰で蠢いてる」半端者に見えるのだろう。その屈辱感や嫉妬をタケシはぐっと耐え、ノートを取り出す。それはいままでの浮気を全て記録した<調書>であり、浮気で行なわれた性行動を尋問しては書き連ね、<消毒>と称し全く同じ性行為をみよちゃんと実行することで「既成事実を上書きしている」と観客に宣言する。自分では想像も経験もなかった調書の性行為たちを卑下し、復讐するかのように、ことの最中にみよちゃんの首を絞めるタケシだが「全然気持ち良くねえ」と虚しさが溢れてしまう。それでも彼はみよちゃんを愛し続けるのだ。なんて不毛で報われない冒頭なんだろう。
【写真は「既成事実」公演から。提供=筆者 禁無断転載】
みよちゃんの存在はデフォルメを極めた造形だが、精神的にこういう痛い女は存在する。だが、タケシが調書や消毒で上書きをする行為も充分に「痛い」。痛さに対して痛さで対抗する負の連鎖だ。じゃあここで、どうすればいいんだろう、とふと考える。僕としては、相手のことを愛してるからこそ正直に怒りをぶつければと思う。しかし劇中でタケシはそういう手段はとらない、と言い放つ。パンフレットには、言葉を重ねれば暴言を吐いてしまい、その結果相手が「離れて行くだけ」だと自覚的で、また「自己愛が強い」から許せず、そんな「俺、自分のことわかってます」な客観性を持ってることすら嫌になる、とも記載がある。客観性がありつつも同じことを繰り返してしまう彼は、結局その決着を舞台に持込んだ気がするし、その自己言及は生々しく観客まで伝染する。では他の選択を考えた場合、こうとも僕は考える。浮気させてしまう自分の何がいけなかったのか、と。しかしタケシは、自身を否定するようなことは言及しない。彼は耐えることで、ただ許そうとする。このカップルの印象的な一節がある。みよちゃんに「なんか面白い話しして」と話題を振られても、タケシは「漠然としてるけどすごいハードルの高い要求だよ? 毎日家と会社を往復するだけのサラリーマンに早々面白い話しはないよ?」と答える。そこでタケシは「もー好き。ん? そういう無茶振りしてくるところも好き。」と微笑んでリカバリーするが、自身の退屈さや面白みに欠けている側面は、みよちゃんと観客には隠せていない。ふたりで観ようと『海猿』のDVDを全シリーズ借りて来るような男なのだ。憎めないほど凡庸で、そして何も悪くない。ただ、お互いに求めてるものが圧倒的に違うのだ。
共有される様々な出来事を、みよちゃんは「小説」にして、タケシは「調書」にしている時点で、「人を好きになること」の価値観の違いは一目瞭然ではある。みよちゃんが求めているのはファンタジーであり、タケシが求めているのは執拗なまでの無条件の安心だ。恋人とは、鏡である。この劇中に出てくるような、痛い人間と付き合って痛い目に遭っている人間を現実でも散見するが、まさしくそれは自分が痛い人間なのだということを自覚しなくてはいけない。タケシが幸せになる方法はひとつだけ。みよちゃんとは、あらかじめ恋に落ちるべきではなかったのだ。
しかしこのひとり芝居は、タケシの妄信的な恋愛をエネルギーに突き進み、数々の問題が生じては赤裸裸な選択を重ねて行くので、汗ばかり滲むことになる。会社の後輩を八つ当たりでイビるし、先輩にそそのかされて浮気相手がいるバーに向かってしまうし、火をつけるとか脅してしまうし、浮気に狂気的に噛み付くのは離婚した両親の影響だと告白して先輩の同情を買いつつも、後腐れない感じでホテルいきませんか? と土下座してしまう。重圧に負けヤケになり、みよちゃんにだけ行なっていればまだよかった「上書き」を、ついには他人にしてしまう。どれもが情けないが、言い訳がましく演じる小西耕一は実に愛くるしく見えて来る。誰にでもある非常に人間臭いミステイクばかりだ。観客はタケシの選択に逐一反応するだろう。恋愛観のみならずセクシュアリティの意識も絡むだろう。まるで自分がそこにいるかのように、いっそ運命の渦に身を任せ選択をすべて捨てたくなって来る。
本公演の素晴らしい点は、ひとり芝居というフォーマットと独自のリズムで、観客に舞台上の人間関係をよりリアルに想像させることで、常に主人公の「選択」を身近に共有させ、観客自身に考えさせてしまうことに尽きる。タケシは恐れなく戦えるときもあるし、すべてを忘れて逃避することもある。暴言を吐いたあとに情けなく取り消そうともする。その七転八倒から産まれる選択の数は、間違いなく本作に含まれる小西耕一の人生の濃度と比例する。パンフレットに書かれた小西耕一の現実が、すべて含まれているわけではない。もちろんフィクションとして創造されているのだが、パンフレットにある切実さとは、まぎれも無くイコールで繋がってる。
繰り返すが、彼は作家ではなく俳優として脚本を書いている。冷静に筆者が作家目線で言えば、劇中で起きる死体処理の件はリアリティにかなり問題があり、ここで(追いつけずに感情移入をストップして)醒めてしまう観客もいるだろうし、死体を放置したままでも終着への問題はないだろう、と苦言めいた提案もある。だがそんな脚本のミステイクをも、この作品の総熱量は凌駕しきっている。こんな濃度では産み出せる作品数は限られるから「俳優が書く戯曲」という珍味の扱いでも構わないので是非見逃さないで欲しい。また中途半端になっている作家もこれで襟を正せると言っても過言じゃない。嫉妬して欲しい。
最後にラストシーンの台詞を引用する。また本作がどこかで再演の機会があるかもしれないので、知りたくない方はここでもう読了されても構わないし、また、例え読んだとしても感動は変わらず届くはずだと思う。周りくどく、誠実で、真綿を締めるように、真っ暗な階段を手探りで降りるような、真実へ向かおうとする無茶なお願いの台詞だ。タケシは関係が希薄だった養父と電話口で話し、最大の選択を前に一縷の臨みを託す。
その言葉が響き、観客全員が養父と化した瞬間に物語は終わった。ひとりで90分間喋り続けた小西耕一に対して、今度はこちらが彼に言葉を探し始めるのだが、いまだ僕は探し続けている。陳腐な言葉しか出て来ないが、きっとそれはタケシを救えると思うんだけれど。登場人物としても、興行としても、彼はその場所から消えてしまってもういないけれど。一方向で提示されるパフォーマンスではなく、対話を産み出すひとり芝居になんて初めて出逢った。
【筆者略歴】
ハセガワアユム(はせがわ・あゆむ)
1978年東京生まれ。MU主宰/劇作・演出家/ナレーター。桐朋短大芸術学部演劇科卒。東京を中心に劇場からギャラリーまで幅広く、作風である「尖った会話劇」を上演。近年、映画監督としても沖縄国際映画祭参加作品でデビュー。今後は戯曲の電子書籍や舞台動画配信などにも意欲的に力を注ぐ。※HPにて一部配信中 »
【上演記録】
小西耕一ひとり芝居 第二回公演「既成事実」
中野坂上・RAFT (2013年5月15日-19日)
脚本・構成・出演 小西耕一
音響・照明 大谷倫之
映像記録 ハセガワアユム
協力 秋澤弥里 菊地未来