ロロ「ミーツ」

◎未完の成熟
 水牛健太郎

 ロロの作品を決して多く見てきたわけではないが、今回の作品「ミーツ」は画期になったのではないかと感じた。その大きな理由の一つは、この作品の中に「成長」のテーマが繰り返し現れてくるからだろう。これまでのロロの作品はむしろ少年期の感性のみずみずしさを強調するものだったため、大きな変化と感じられるのだと思う。

 主人公は少年で、新勝新太郎(以下、シンカツ)といい、母親アサコと二人暮らし。父親コーイチは、自分は敵と戦うと言って、シンカツを身ごもったアサコを逃がしたまま、どうなったか分からない。そんなシンカツは、友達のトマルと遊んでいて正体不明のケンシローと出会い、ケンシローを飼うことをアサコに許してもらおうと自宅へ向かう。
 
 だいたいこんな話なのだが、ここでシンカツが出会うケンシローは物語論や心理学の世界で「イマジナリー・フレンド(想像上の友達)」と言われる一つの類型に当てはまっている。自立を求められる子供は不安を解消するために、想像上の友達を持つ。これは実際によくあることのようだ。その子供にとっては確固たる存在なのだが、もちろん親など他人には見えない。想像上の友達が消えると、その子供は大人への階段を一つ上ったことになる。
 
 子供向けの物語に出てくるキャラクターの多くは、この想像上の友達をキャラクター化したものだ。いつでものび太を守ってくれるドラえもんのことを考えれば分かりやすい。のび太の成長を願うドラえもんは、自分がいてはのび太が大人になれないと、何度か未来世界に帰ろうとしたが、子供たち並びに市場からの絶大な要望により帰りきれず、今日に至るまで日本と世界の子供たちの想像上の友達であり続けているのである。
 
 そこでケンシローだが、緑色のもじゃもじゃしたもので全身覆われており、顔もない。動物なのか人間なのか、男(雄)なのか女(雌)なのかもわからない存在だ。自分からはしゃべらず、ケンシローがしゃべるのは、シンカツがケンシローとの会話を想像した場合に限られている。しゃべる時は女性の声でしゃべるが、これはシンカツの、芽生え始めた異性への興味を反映しているからのようだ。
 
 物語のはじめの方では、ケンシローという想像上の友達の存在以外にも、シンカツの少年性が強調されている。たとえば、シンカツの指がアサコの掃除機に吸い込まれて取れてしまうという想像をしたり、またシンカツの脇の下に生えるキノコを、シンカツに思いを寄せる少女ピーターパンナが食べてしまうという場面があるが、これは心理学で言う「去勢不安」を象徴的に表していると思われる。
 
 (ここで読者の懸念を先回りして言い訳をしておくと、私は心理学的な解釈がいつも有効だとは思っていない。特に私のような素人が心理学的な解釈を振り回すとけがをすることも多い。この作品を含め、すべての演劇作品は、心理学なんかと関係なくその価値が決まる。ただ、この作品は、心理学が最大のテーマとしている家族や成長の問題を正面から扱っており、私の乏しい知識からも、いくつかの図式がかなりうまく当てはまる(意識的に図式を応用してプロットを組み立てている可能性もある)と感じるので、何か面白い答えが出てくれば儲けもの、ぐらいの気持ちで素人分析を試みている。
 心理学は人間に共通する心の奥底のメカニズムについての分析だから、仮に作り手が意図的に心理学を応用して作品作りをしなかったとしても、作品の根底にあるものを心理学の図式がうまく説明できることはありうる。観客は作品の根底にあるものを自分たちの心を通じて感じ取っているから、こうした分析は観客の感じたものを説明することにもなる)
 
 「去勢不安」は男児が男性性を発揮することに対して感じる不安、ざっくり言えば成長することへの不安と言っていいだろう。シンカツは母子家庭に育っているので、「母を守りたい」という気持ちも強いはずだが、棚には父コーイチが遺していったアサヒ飲料のワンダ・モーニングショットの空き缶が鎮座していて、シンカツを脅かしている。コーイチのペニスがさく裂(パーティーのクラッカーのような仕組み)して、そこからはじけるテープ(おのずと精液を連想させる)が一度はアサコ、もう一回はシンカツに降りかかるような場面もあるので、コーイチの父性は明らかに今も、この家族を呪縛していることになる。
 
 こうして、作品のはじめの方では、シンカツの成長への不安が様々な形で強調される。ところが、これが作品の後半になると、目覚ましく変わっていく。父を象徴する空き缶の扱いはどんどんぞんざいになっていき、落とされたり潰されたりと権威を剥ぎ取られていく。それに並行して、行動からもシンカツの成長が感じられる。最初に登場した時、シンカツはトマルにいじめられているように見えていた。しかし実は友人のいないトマルの相手を引き受けていたのだと分かる。トマルこそが、その名の示す通り、大人になれない少年で、シンカツはトマルをある意味ですごいと思いながら、自分は成長への道を歩むことを選んでいる。

 また、シンカツはそれと知らずに父コーイチと出会い、怒って土下座させたりもする。オイディプスがライオスに出会い、父と知らずに殺してしまうのを連想させると言えば大げさだが、意味合いは似ている。要するに、人間の成長に必須とされる象徴的な「父親殺し」である。そしてラスト近く、ケンシローとの別れによって、シンカツの成長が確認される。

 しかし、この物語は完結していない。物語を完結させるならば、父コーイチ(彼自身、大人になりきれない未成熟な人間である)が幻想の冒険旅行を終えて母アサコのもとに戻り、シンカツと親子の名乗りを上げ、そしてシンカツはピーターパンナと結ばれることになるだろう(たとえばこれがハリウッド映画だったら、間違いなくそれがラストシーンのはずである)。しかしそうはならない。コーイチとアサコは一度顔を合わせながら、お互いを認識できずにすれ違う。

 そしてシンカツとピーターパンナは、ラストシーンでタンスへの隠れっこをする。シンカツがピーターパンナを呼ぶ。するとピーターパンナが出てくる。次にピーターパンナがシンカツを呼ぶが、シンカツは出てこないまま暗転し、劇は終わる。このシーンは日本神話の天岩戸伝説とイザナギ・イザナミの国造り伝説をミックスした話になっている。呼ばれたシンカツが出てくれば二人は結ばれるわけだが、出てこないから未完なのである。
 
 どうして物語は完結せず、シンカツの(そしてコーイチの)成熟は完遂されないのか。ここから先はあまり自信がないが、そこには日本の中のアメリカという要素が深く関わっているように感じている。
 
 主人公・新勝新太郎はしばしば、他の登場人物によってニュー勝新太郎と呼ばれる。非常に唐突なので何か意味があると感じさせるが、これは、この作品にところどころに顔を出す「アメリカ」の刻印のようなものだと思う。
 
 たとえば父コーイチの「冒険」である。自分たちを追ってくる巨大な敵に一人立ち向かうと言ってアサコを逃がすのだが、無意味とも言える妄想力の大きさは、「製作費○億ドル、全米初登場第一位、空前のスケールで送る」アメリカの大作映画を思わせないだろうか。
 
 コーイチが「冒険」中に出会う女性フランスパンナは、リカちゃんハウスのようなものを持ち歩いているが、その中に収納されているキャラクターの中にボニーとクライドがいる。ボニーとクライドは、アメリカ映画『俺たちに明日はない』などで知られる実在の犯罪者カップルである。強盗と殺人を繰り返しながら逃走を続け、最後は警察に射殺された。
 
 自分たちを追ってくる巨大な敵、といったコーイチの妄想は、警察から逃げ続けたボニーとクライドの物語に重なる。しかしそうしたアメリカ的な想像力は、明らかに日本の現実とは違う。フランスパンナの操るボニーとクライドは、どちらかと言えばホームドラマの登場人物のようで、こちらの方がまだしも日本の現実に近いだろう。コーイチを追ってくる敵などどこにもいないのだが、コーイチはそれを認めず、ケンシローをその敵と見なしていじめたりする。

 そう、実はケンシローこそ、アメリカ的な想像力と日本の現実との狭間に落っこちている何かなのだ。シンカツと別れる時、ケンシローは(シンカツの世界には)「ファンタスティックさも、センス・オブ・ワンダーも、ユーモアもない」と言い放つ。三つともカタカナ英語で、ハリウッド映画などを評する時によく使われる言葉であることに注目してほしい。こうした言葉が別れの場面で使われることは、シンカツの「想像上の友達」ケンシローが、ハリウッド映画などが形作るファンタジーの世界と密接に関係していることを示している。

 つまり、こうしたファンタジーの世界と別れることが、シンカツにとっても、またコーイチにとっても成長への一条件になるということだ。その条件は満たされた。しかしこの作品では、シンカツとコーイチの二人の真の成熟は果たされなかったし、今後も果たされないかもしれない。それはどうしてなのか。私なりに考えはあるが、作品論から離れた「妄想」の域に入るので、ここでは書かないことにする。

 最後に一言。この作品を見た人にはわかることだが、この作品の感動の中心は、これまで論じたこととは全く関係のないところにある。そしてそれは私にとって、とても嬉しいことだ。素人心理学なんかで感動が分析できてたまるもんか。

【筆者略歴】
水牛健太郎(みずうし・けんたろう)
 ワンダーランド編集長。1967年12月静岡県清水市(現静岡市)生まれ。高校卒業まで福井県で育つ。東京大学法学部卒業後、新聞社勤務、米国留学(経済学修士号取得)を経て、2005 年、村上春樹論が第48回群像新人文学賞評論部門優秀作となり、文芸評論家としてデビュー。演劇評論は2007年から。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ma/mizuushi-kentaro/

【上演記録】
ロロvol.9「ミーツ」
東京公演:こまばアゴラ劇場(2013年5月23日-6月2日)
京都公演:京都芸術センター(2013年6月14日-16日)

脚本・演出:三浦直之
出演:板橋駿谷、亀島一徳、望月綾乃、伊東沙保、工藤洋崇、小橋れな、水越朋
スタッフ:
美術/松本謙一郎
照明/工藤雅弘(Fantasista?ish.)
音響/池田野歩
衣裳/藤谷香子(FAI FAI)
舞台監督/鳥養友美
演出助手/中村未希
宣伝美術/玉利樹貴
京都公演制作協力/鳥井由美子(子供鉅人)
制作/横井貴子、坂本もも
記録撮影/natsuco.m
協力/JUNGLE INC. ギフト 富む平原 Fantasista?ish.  FAIFAI 子供鉅人 範宙遊泳 CoRich舞台芸術! スタジオ空洞
提携/(有)アゴラ企画・こまばアゴラ劇場
共催/京都芸術センター
主催・企画製作/ロロ

料金:
一般=予約:2,800円 当日:3,000円
学生(要・学生証提示)=予約:2,500円 当日:2,700円
高校生以下(要・学生証提示)=1,000円


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