◎フレームを揺らす
山崎健太
村川拓也が芥川龍之介の小説『羅生門』を上演するにあたって採用した方法はまさに「発明」であった。その発明はほとんどあらゆる文学作品や物語を「村川拓也の舞台作品」として上演することを可能にしてしまう。一方、あらゆる物語が上演可能であるということは同時に、あらゆる物語が上演不可能であるということをも含意する。どんな物語でも同じ方法論で上演できるということは、そこに差異を見出さないということだからだ。何を上演しても同じであるならばそれを上演することに価値を見出すことは困難となる。その意味で、村川の発明した方法論は「演出」の極北を指し示していると言ってよい。
村川版『羅生門』は「AAFリージョナル・シアター2013 -京都と愛知 vol.3- 愛知京都演劇プロジェクト Bungakuコンプレックス」という企画の1作品として上演された(もう1作品はニノキノコスター構成・演出『地獄変』)。村川はこれまでドキュメンタリー的手法を用いた演劇作品で高い評価を得てきた。『ツァイトゲーバー』では介護の現場を、『言葉』では被災地を取材し、それを作品へと昇華させてきたのである。そこでは一貫して「物語」は排除されていた。そんな村川が突如として芥川龍之介の小説の舞台化という「物語」のある作品を手掛けることになったのはこの企画の趣旨によるものであった。
上演の概要はこうだ。両側を客席に挟まれた形の舞台。舞台の中央には巨大な長方形のフレームが床と長辺とが平行になる向きで吊るされている。客席からはそのフレームを通して向かい側の客席が見える。フレームの片側の短辺の脇にはイスがあり、そこに外国人と思しき若い女(Anna Milena Quitz)が観客に横顔を見せて座っている。やがて男(大石英史)が登場すると女に向けて語りはじめる。どことなく観客を意識しているようにも見える。語られるのは小説『羅生門』そのままの言葉だ。常にジェスチャーを伴いつつ展開されるその語りは女に対して『羅生門』を説明しているようである。
男の語りがひと段落すると今度は女が外国語で語りはじめる。男のジェスチャーは続いている。女の語りに合わせて客席上部に字幕が映し出される。だがそれは『羅生門』ではない。「彼は貧富の問題について語っています」という言葉に続いて現代社会についてのさまざまな思索が展開される。女が語り終えると再び男が『羅生門』を語りはじめる。例外的に2人が同時に発話する場面もあるが、男女が交互に発話する形はラストまで継続される。『羅生門』のテキストについては基本的に語りの順序も内容も使われる語句も原作そのままであった(省略された箇所はあったかもしれない)。
今までの村川作品がそうであったように、今回の『羅生門』もまた非常にシンプルな構成を採っている。しかしそこには複数の企みが精緻に組み合わされており、その意味では、シンプルな見た目とは裏腹に極めてcomplexな作品であった。以下では、村川版『羅生門』をどのような作品として見ることができるのかをいくつかのレベルで検討していく。
村川版『羅生門』を見てまず感じられるのは、舞台上の男女の意志疎通がうまくいっていないという印象である。男が日本語で発する『羅生門』は女に理解されず、女は男の身振りから異なる物語を読み取る。言葉は互いに向けて発せられているように見えるがかみ合わない。
舞台上の男女と同じように、小説『羅生門』の下人と老婆のやりとりにおいてもミスコミュニケーションは発生している。骸から髪を抜き取る行為を正当化しようとする老婆の言葉は、下人から危害を加えられることを避けようとする彼女自身の意図とは裏腹に、老婆に対する下人の追い剥ぎ行為のきっかけとなってしまうのである。村川が小説『羅生門』を舞台化するにあたり、原作の「転」にあたる場面の要素、つまりはミスコミュニケーションを作品の中心に据えたと見ることはそれほど不自然なことではないだろう。
それでは、女の語りとして字幕に表示される言葉は男の語る『羅生門』とは何の関係もないのだろうか。実は字幕の言葉もまた、小説『羅生門』の対応物としてある。小説『羅生門』には「主人に暇を出された下人」「飢饉や疫病で荒廃した京都」「鬘を作るために若い女の骸から髪を抜き取る老婆」と「老婆を咎める下人」などのエピソードが登場する。字幕に現れる「労働」「貧富」「老い」「美醜」「正義」「利己的なふるまい」といったモチーフは小説『羅生門』の扱う事象を抽象的に、あるいは現代社会と接続する形で語り直したものとして見ることができるのである。
だが果たして、作品に対するこのような理解は正しいのだろうか。もちろん、ここまで展開してきた解釈は作品内容に基づいたものであり、村川版『羅生門』をそのようなものとして見ることにそれなりの妥当性はあるだろう。しかしここで、まさにその村川版『羅生門』が「ミスコミュニケーション」をモチーフの1つとしていたことを考えるとき、この作品には複数のレベルでのミスコミュニケーションの可能性が孕まれていたことに気づかされることになる。
ここで字幕についてもう一度考えてみよう。ここまで、字幕として表示されるテキストが女の発話する外国語に対応しているものとして話を進めてきたが、実は字幕の内容=女の発話内容として見ることには何の根拠もない。女が口にする言葉は英語ですらなく、観客のほとんどは彼女の発する言葉を理解することができないのである。だからこそ日本語の字幕が用意されているわけだが、その字幕と女の語る言葉の内容とが一致している保証はない。男と女の間で生じているように見えたミスコミュニケーションは、実際のところ、女と字幕の間で生じていたのかもしれない。女は『羅生門』を外国語で語っていたにも関わらず、字幕がそれとは異なる言葉を示していた可能性は否定できないのである。(※1)
重要なことは、女の発話と字幕の言葉が実際に一致していたかどうかではなく、大半の観客に対し、一致していなかった可能性が開かれている点にある。観客がそこで起きていることを正確に理解していない可能性、つまりは観客と作品との間のミスコミュニケーションの可能性がそこにはある。いやむしろミスコミュニケーションこそが村川作品の要であるのだとさえ言うことができるだろう。
たとえば、村川版『羅生門』の男女は下人と老婆を演じているわけではない。しかし小説『羅生門』の登場人物もまた下人と老婆という2人の男女だけであり、作品を見ている観客はいつしか、舞台上の男女を物語中の男女と重ねて見るようになっていく。男の語りに身ぶりが伴っていることも大きいだろう。実際、下人が老婆の着物を剥ぐ場面では、男は女の間近に立ち、ほとんど女に覆いかぶさるようにして着物を剥ぐ仕草をしてみせる。この場面において、舞台上にいる男女と物語の中の男女とは、あるいは語る行為と演じる行為とは限りなく接近しているように見える。この「実際にそこで起きていることを別のものとして見る」(たとえば役者をその役の人物そのものとして見る)という認識の仕方こそが演劇の原理的な仕組みであり、これまでの村川作品でも作品の中心に据えられてきた隠れた主題である。
村川作品にはいつも観客の「認識の枠組み」を揺らす瞬間が用意されている。前述の下人が老婆の着物を剥ぐ場面では、追い剥ぎの場面であるはずなのに舞台上で愛の営みが行なわれているかのような違和感があった。着物を剥ぐ男のいやに丁寧な仕草と字幕に表示される愛や世界の素晴らしさについての言葉、そして舞台上にいるのが若い男女であることが観客の認識の枠組みを揺らし、そこで行なわれているのが追い剥ぎ行為であると同時に愛の営みであるかのような錯覚を生じさせるのである(※2)。
思えば認識の枠組みへの注意は作品の冒頭から喚起されていた。舞台上に吊るされたフレームは自分の視点が何らかの枠組みに基づくものであることを意識させ、フレーム越しに見える向こう側の観客は自らのものとは異なる視点の存在を意識させる。作品中、1度だけ男が舞台上のフレームに触れる場面があった。男に触れられたフレームはそれからかなり長い間、ゆらゆらと左右に揺れていた。物語上は必然性の認められないこの行為はまさに、認識の枠組みを揺らすという村川の作品そのものへの自己言及ではなかったか。
『ツァイトゲーバー』や『言葉』では、「介護」や「震災」といった題材の裏に「演劇の原理」というもう1つの主題が隠されていた(※3)。今回の村川版『羅生門』はどうだろうか。男と女、上演される舞台と観客との間に孕まれるミスコミュニケーションとはつまり『羅生門』の誤読の可能性である。男が語る『羅生門』は女に誤読され、上演される『羅生門』は観客に誤読される。『羅生門』は誤読されるのである。このことはまた、村川版『羅生門』の上演それ自体、可能な読みの一つでしかないということをも示すことになるだろう。
村川は小説『羅生門』とそれに対する解釈を、男による発話と字幕として示される言葉という形で別々に提示し、さらには両者の間にジェスチャーと外国語という媒介を挿入することで、小説『羅生門』とその読み(=解釈、上演)との結びつきが恣意的なもの、交換可能なものであることを暴いてみせたのである。
村川の相対化への志向はさらに徹底している。この作品に関連したインタビューで村川は「なぜ芥川なのか?とか、なぜこの芥川小説でなければならないのか?という」「問題を解決、もしくは回避することが今後の作品づくりに大きく関わってくると思います」と述べているが(※4)、実際、『羅生門』という作品の選択は相対的なものでしかない。何らかの作品とそれに対する解釈を用意すれば、ほとんどどんな作品でも今回の村川版『羅生門』と同じ演出プランで舞台化することができてしまうのだ。
ここには「Bungakuコンプレックス」という企画自体への村川の批評的な視点を読み取ることができる。京都・愛知の若手演出家が芥川龍之介の小説を演出し舞台化するという企画で、自らの作品における『羅生門』をあくまで交換可能なものとして提示するということはつまり、『羅生門』あるいは芥川龍之介の小説に特権的な価値を付与することを拒否する身振りであるからだ。村川版『羅生門』で不動のものとしてそこにあるのは村川の演出プランのみである。
最後に、村川が『羅生門』という作品を選択したことの含意について述べておこう。当日パンフレットに寄せられた村川の言葉で周到にも触れられているように、黒澤明監督の映画『羅生門』は芥川の小説『羅生門』を映画化したものではなく、同じ芥川の『藪の中』を原作とした作品である。そしてその『藪の中』は、ある1つの事件をめぐって食い違う証言を扱った話であった。そこには1つの真相などというものはなく、複数の見え方だけがある。小説と映画とで全く異なる作品として現れる『羅生門』。相異なる複数の見え方を内包するものとしての『羅生門』。認識のフレームによって見え方が変わってしまうことを示してみせる村川作品のあり方は『羅生門』に実によく似ているではないか。
※1 実際にどうであったかと言えば、女の発話はドイツ語でなされており、筆者の乏しいドイツ語の知識の範囲で判断する限りでは、女の発話と字幕の言葉は対応関係にあった。
※2 あるいは、『ツァイトゲーバー』を観たことのある観客にはそれは介護行為のように見えたかもしれない。着物を剥ぐ男の仕草は『ツァイトゲーバー』での着替えの場面に酷似していたし、何より、女が座っているパイプ椅子を男が押して移動させるという行為はあからさまに『ツァイトゲーバー』を思い出させる。この場合、観客は三重の認識の枠組みの間で揺れることになる。
※3 『ツァイトゲーバー』『言葉』における演劇的原理については以下で詳しく述べている。»
※4 公益財団法人愛知県文化振興事業団発行aaf通信第37号(2013年5月号)
【筆者略歴】
山崎健太(やまざき・けんた)
1983年東京生まれ、早稲田大学文化構想学部表象・メディア論系幻影論ゼミ1期卒業生。現在、同大学院文学研究科表象・メディア論コース所属。演劇研究。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ya/yamazaki-kenta/
【上演記録】
「羅生門」(村川拓也構成・演出、AAFリージョナル・シアター2013-京都と愛知 vol.3-愛知京都演劇プロジェクト「Bungakuコンプレックス」)
愛知公演 愛知県芸術劇場小ホール(2013年6月13日-16日)
京都公演 京都芸術センター フリースペース (2013年6月21日-23日)
原作
芥川龍之介「羅生門」
構成・演出
村川拓也(演出家・映像作家)
キャスト.
大石英史、Anna Milena Quitz
スタッフ.
舞台美術(京都)/夏目雅也
照明(愛知)/花植厚美(flower-plant)
音響(愛知)/椎名KANS(ガレッジ)
舞台監督(愛知)/柴田頼克(かすがい創造庫/電光石火一発座)
宣伝美術(京都)/清水俊洋
制作(愛知)/加藤智宏(office Perky pat)
制作協力(愛知)/佐和ぐりこ(オレンヂスタ主宰)
愛知京都演劇プロジェクト/日本演出者協会東海ブロック(木村繁※/平塚直隆※)、NPO法人京都舞台芸術協会(柳沼昭徳※/高杉征司※/田辺剛)
※=企画委員
愛知公演
料金
前売一般 2,800円
当日 3,000円
前売学生 1,800円
当日学生 2,000円
※14日14:00公演のみ、前売一般2,600円(当日2,800円)。
学生は前売・当日ともに全公演同一料金。
企画・制作.
公益財団法人愛知県文化振興事業団、愛知京都演劇プロジェクト
主催
公益財団法人愛知県文化振興事業団、愛知芸術文化センター
京都公演
一般 2,500円
・ペアチケット 4,300円
・ユース(25歳以下/要証明) 1,800円
※前売、当日とも同料金です
※ペアチケットは、チケットを二枚一組で販売するものです
主催 愛知京都演劇プロジェクト
共催 京都芸術センター