◎「ソシュール講義録注解」(フェルディナン・ド・ソシュール著 法政大学出版局)
矢野靖人
「一冊の本を選べ」と言われたとき、人はどのような本を選ぶのだろう。今までの人生に影響を与えた本、例えば自分の場合、演劇を、演出を始めるきっかけとなった本。あるいは演劇を作り続けて行く上で大きな励みを与えてくれた本。忘れられない一冊。大好きな本。作家。考え出すときりがなくて、例えば書評(ひいてはおおきく批評)という行為に目覚めた本として今も鮮烈な記憶が残っている一冊に、高橋源一郎氏の『文学がこんなにわかっていいかしら』(福武文庫) がある。元々自分が大学で学部を選ぶ際に文学部を選んだのも、カッコつけていえば人間という存在について探求を深めたい。という欲望があったからであって、しかしそれを求むるに適した学問が、果たして心理学なのか、哲学なのか、文学なのか。それとも他に、例えば僕の大学入学は1995年なのだけれども、そのとき流行っていた新しい学問・学部として、総合人間学部なんてものもあった。実に懐かしい。思い起こせば、あれから20年近くになる。ずいぶん遠くまで来たような気がする。一方で、今もまだ学生時代の気分のまま迷っていて、ときどき石ころに躓いては、まるで子供のようにオオゲサに泣き喚いていたりするだけのような気もする。
けっきょくのところ文学部を選んだのは先に述べたような心理学、哲学、文学などがすべて包括されているのが文学部で、何のことはない、優柔不断でどこかで決断することが出来ず流されるように入ったというのが、だいたいところだと思う。
しかし大学に入ったものの、授業は頗るツマラナカッタ。期待が大きすぎたというのもあるかもしれないが、しかしたいていの授業は、最初の1‐2時間を受講して、担当教官がどのような関心領域を持っていてどのような先達の研究を元に授業をしているかが分かったら、後はまったく授業に出なくなり、(何故なら、だったら教授のツマラナイお喋りを聞いているより、当該の書籍に直接あたったほうが早いと思ったからだ。)で、日がな一日古書店めぐりをしたり、(図書館には、何故だかあまり気が乗らなくてほとんど近づかなかった。考えればそれも浅はかだったな、などと今になってこそそう思い返したりするのだが、)とまれ、気に入った本をいつも数冊、カバンに偲ばせて、お気に入りの喫茶店に珈琲1杯で何時間も入り浸っていたりした。
だから大学ではまともに勉強しなかったし、今はそれをとても後悔しているけれども、なにしろ体系だった学問を学ぶ機会を失ったのだから、しかしともかくも自分の感性に触れて来るものを探し、目についた本を読み、その本から、特に最初に批評という表現行為に出会ったことが大きいのかもしれないが、
そう、忘れられないと言えばまず一人、作家・高橋源一郎を教えてくれた大学時代の友人Yには本当に感謝したい。高橋源一郎氏の書評から、どれだけ世界が広がったことか。今や、というかいまだにというか、僕は、(公言するのはなんとなく気恥ずかしい気もするけれど、)高橋源一郎氏の大ファンだ。氏の競馬関係の本以外は、小説・書評・対談集などほとんどすべて購読して読んでいる。入手できない、昔の雑誌に書かれた評論文が読みたくて、国会図書館にコピーを取りに行ったこともある。書評という書の特性上、そこで触れられている本を探し、そこからまたその前の本に手を伸ばし、といった具合で、雑食的にいろいろな本を読んだ。ちなみに他に新刊が出ると追い掛けて読む作家と言えば、保坂和志氏がいる。偶然だが、保坂和志氏も書評、というか小説論を、数々の小説を引きながら多く書いている。
けっきょくのところ、今になって考えてみると、大学時代を経て身に着けたのは唯一、彼らの、他の書評家とはいささか異なる彼ら独自の批評という行為に伴う姿勢、誤解を恐れずに言えば、すべては二次創作に過ぎない。内省的に、徹底的に思考し問いを立てるという行為が批評だ。批評はそれに先立つ様々な創作に対する応答だ。そしてその観点からすると全ての創作物は二次創作即ち先達の問いへの応答ということになる。批評をするためには対象に対する愛、あるいは徹底的な憎悪が必要だ。などという、ややもすれば危うい姿勢だけかもしれない。
何れにしても学生時代には決して多読な方ではないがいろいろと読んだ。今も記憶に残っている本は、例えば先述の高橋源一郎を初め、現象学者の竹田青嗣著『初めての現象学』(海鳥社)、エルンスト・マッハ著『認識の分析』(りぶらりあ選書/法政大学出版局)、ネルソン・グッドマン著『世界制作の方法』(みすず書房)、中村雄二郎著『共通感覚論』(岩波現代選書)、テリー・イーグルトン著『文学とは何か』(岩波書店)、鷲田清一氏の著作については、『モードの迷宮』(中央公論社)、『ファッションという装置』(河合文化教育研究所)、『ちぐはぐな身体 ―ファッションって何?』(ちくま文庫)などの書籍には一時期かなり嵌って読んだ記憶がある。もちろん、ここには敢えて挙げなかったが演劇関係の本も、学生時代は大学4年のころから本格的に演劇活動を始めたのだが、その頃にはたくさん読んだ。演劇関係の本と言えば、大学を出て東京に来てからは、平田オリザ氏、鈴木忠志氏の著書などはほぼ全部読んでいる。
「一冊の本を選べ」
この命題に応えようとしたとき、しかし僕は取り敢えず、上記で述べてきたような自分が好きな、共感できる本は避けてみようと思った。そして出てきたのがこの一冊、フェルディナン・ド・ソシュール著 前田英樹訳・注『ソシュール講義録注解』だ。
何故か。それは自分が狂おしい程にこの本の一行一行を真に理解することを欲しながらも、おそらくは、決して、一生、理解できない事柄がここに書いてあるだろうからだ。例えば無人島に一冊だけ、と言われたならば、僕はこの本を選ぶだろう。何故なら何度読み返しても新たな発見があり、しかし、何度読み返してもその全貌を把握することが出来ないからだ。
だから、「ソシュール講義録注解」について内容を詳しく紹介する、というのはちょっと難しい。何度読んでも、「分った!」という気分になることは出来ず、1ページ読んでは空想に耽ったり、あらぬことを考えたりしてしまう。そのこと自体が非常にスリリングなことなのであって、内容そのものはなかなか記憶出来ないというか、やや言い訳じみた言い方になるが、そもそもそういう中身を覚えられるような類いの本ではなくて、つまり世の中にはこの本のように理解するために読むのではなく、読むという行為の過程において、自分自身の思考と感覚を刺激するためにこそ読まれるべき本というのがあるのだ。
僕がソシュールと最初に邂逅したのは、丸山圭三郎著『ソシュールの思想』(岩波書店)だったかと思う。いや、その前に何某かの安直な哲学・言語学入門本で、その思想に触れてたちまち魅了されたのが先だったかもしれない。しかし、ソシュールには本当に没頭した。簡単に説明すると、ソシュールは記号論を基礎付け、後の構造主義思想に影響を与えたと言われている言語学者だ。「近代言語学の父」といわれ、言語学者のルイス・イェルムスレウ、ロマーン・ヤーコブソンのほか、クロード・レヴィ=ストロース、モーリス・メルロー=ポンティ、ロラン・バルト、ジャック・ラカン、ジャン・ボードリヤール、ジュリア・クリステヴァ、ノーム・チョムスキー等、その思想に影響を受けている思想家は数知れない。1857年にジュネーヴに生まれ、1875年からジュネーヴ大学で一年間学んだのちライプチヒ大学に留学。1875年『印欧諸語の母音の原初体系に関する覚書』を刊行し、80年、学位論文『サンスクリット語の絶対属格の用法について』を提出。その後、パリで高等研究院講師、パリ言語学会副幹事を務めたのち、91年からジュネーヴ大学でサンスクリット語、印欧諸語の比較文法、言語地理などを教えた。それまでの比較文法中心の言語学の領域を抜け出して、「言語哲学」者として、後の構造主義の先駆けと言われながら、しかしこここそがいちばん僕にとって興味深いのだが、それを内側から食い破るような思考を続け、93年からは謎めいた不可解な沈黙を守り、そして最大の謎である晩年のアナグラム研究に至る。
ソシュールのアナグラム研究については、1920年ジュネーヴ生まれのスイスの文芸理論家、ジャン・スタロバンスキ-が詳細な検証を行っているが、曰く、
という、これを僕の言葉で簡単に説明し直すと、要するに、言語には本来それ自体を除いた他に根拠がない。(これがいわゆる「恣意的差異の体系」と呼ばれる所以である。)しかし、おそらくソシュールは、その差異の体系でしかなく記号でしかない言語を体系づけながら、しかもその「発生」の現場を捉えようとしたのだと思う。つまり言葉の生まれる瞬間に立ち会おうとしたのだ。そしてそれを不幸にもソシュールは発見(!)してしまった。ラテン詩の研究を中心に展開されたソシュールのアナグラム研究は、言葉(詩)の発生の起源、その無意識的な秘儀を「発見」する。そしてその発見について、当時ボローニャ大学の教授であり、ラテン語詩人だったパスコーリに二通の手紙を書いて、自らの確信を裏付けようと試みてまでいる。「あなたがた詩人は意識してそう書いているのでしょう?」だが、パスコーリは返事をしない。そうして、失意のうちにソシュールはアナグラム研究をやめてしまったというのが、一般的な説である。
斯様にしてそれは無残な結果に終わるのだが、スタロバンスキーは著書『ソシュールのアナグラム:語の下に潜む語』(水声社)のなかで、斯様に結論付けている。
蛇足になるかもしれないが、ソシュールといえば『一般言語学講義』が有名である。だがこれは、ソシュールの講義録をもとに弟子たちが解釈を加え、ソシュールの思想を歪めたものであるというのが今や定説となっている。なので、私はこちらの本、ソシュールの講義録を紐解いた本文よりも、前田英樹の注釈の方が長いようなこの、『ソシュール講義録注解』を選んだことを断わっておきたい。
話は大きく変わるが、演出家としての自分をつかまえて離さない強迫観念とも言える想念の一つに、これは幼少からの感覚で拭い去ることが出来ない感覚なのだが、一つ、「言葉は他者のものである。」という観念と、その結果として、「言葉は常に、過剰であるか、不足している。」という仮説とがある。
以下は11年前に雑誌「演劇人」13号に寄稿した文章の引用だが、自分はけっきょくのところ今も当時と変わらぬ想いを抱いていて、日々創作に励んでいる。なので、いささか唐突ではあるがこの引用を以て、本稿の結びとしたい。
ところで言葉の集積=テキストとして人間をとらえたとき、それがまた外部に描き出した言葉の集積としての戯曲=テキストはひとりの人間のアナロジーとなる。
演劇をひとつのプロセスとして考えれば、俳優は、テキストとしての人間でありながら、予め用意されたテキストに立ち向かう存在となる。俳優は、本来の発話=テキスト発生の現場から一歩、後退する。一歩後退することによって、他でもない発生の現場をトレースすることを俳優は可能とする。
私はこの現場を捉えたい。そして、この現場を捉えることが人間という「テキスト」を読み解くための、唯一のとっかかりになるのではないかと今、考えている。『私』という場所を突破し、もう一度主体を取り返すためには、もう一度『私』を引き受けなおすしかない。
世界と、そしてあなたとの関係を取り結ぶために。世界を覆い尽くしているこの既存の言葉を刷新するために、私は演劇を仮借する。
私にとって演劇とは、「人間」と「言葉」との関わり方の探求そのものなのである。
(雑誌「演劇人」13号(編集・発行= (財) 舞台芸術財団演劇人会議))
【筆者略歴】
矢野靖人(やの・やすひと)
演出家。演劇ワークショップファシリテータ。1975年名古屋市生まれ。Theatre Company shelf代表。代表作に『R.U.R. a second presentation』(作/カレル・チャペック)、『構成・イプセン ─ Composition / Ibsen』(作/ヘンリク・イプセン)、『悲劇、断章 ― Fragment / Greek Tragedy』(作/エウリピデス)、長久手文化の家×三重県文化会館合同プロデュース「三島ル。」(作/三島由紀夫 より「班女」「弱法師」)等。
日本演出者協会会員、(財)舞台芸術財団演劇人会議会員。第20回BeSeTo演劇祭実行委員。
次回作は、2013年10月15日(火)に代々木能舞台で上演される「鉄輪」二題。また10月25日(金)からアトリエ春風舎で上演される第20回BeSeTo演劇祭BeSeTo+参加作品「nora(s)」では、韓国から俳優を招聘して、国際共同制作を行う予定。