Baobab「家庭的 1.2.3」
She She Pop「シュプラーデン(引き出し)」
集団:歩行訓練「ゲームの終わり」

◎ごつごつした異文化の手触り―KYOTO EXPERIMENT 2013報告(第4回)
 水牛健太郎

 20日の京都は雨。朝から小雨が降りしきり、時に強くなったり、ふいに止んだり。京都らしい湿った情緒を感じさせる1日だった。自転車には乗れなかったが、この日の会場はすべて三条と五条の間。十分歩いて回ることができた。京都ならではのこんなコンパクトさは嬉しい。

◆「家庭的 1.2.3」

 Baobabは2010年以来、KYOTO EXPERIMENTのフリンジ企画に3年連続で参加し、今年公式プログラムに抜擢された。キレのいいダンスにセリフやストーリー性など演劇的な要素を入れ込んだ作品が特徴だ。

 会場の元・立誠小学校講堂は、高さと奥行きのあるステージがかつてのまま残され、手前の平場との対比が面白い。開演するとまずステージ上に2人の女性ダンサーが現れ、3拍子の懐かしい感じの曲に合わせてバレエ調のシンクロした動きを見せる。平場に2人、さらに2人と増えていく。そこへステージ上を上手から主宰の北尾亘が現れ、奥に向かって振り返るとスクリーンに「家庭的 1.2.3」とタイトルが映し出された。

【プログラム公式写真。photo: Yu Okamoto、提供=KYOTO EXPERIMENT 禁無断転載】
【プログラム公式写真。photo: Yu Okamoto、提供=KYOTO EXPERIMENT 禁無断転載】

 パフォーマンスは大きく3部に分かれていた。最初と最後の部分にはストーリー性があり、真ん中の部分は各個人、さらに群舞でダンスを見せる部分である。このダンスの部分が魅力的だった。ステップや回転など脚の動きが大きく、身体の軸が上下にも横にもリズミカルにどんどん動いていくため、ダイナミックで見応えのあるダンスだった。

 北尾はもともとミュージカル志望でジャズダンスに取り組み、その後ストリートダンス、クラシックバレエ、さらに桜美林大学でモダンダンスを学んだという。またカンパニーメンバーの目澤芙裕子、米田沙織も様々なダンスを経てきている。多様な要素を含みながらも雑多な感じではなく、スピード感のある、ニュートラルなイメージのダンスになっているのが面白いところだ。ブロードウェイのショーを見るような安定した楽しさがあるが、その反面驚きがないという印象を受ける観客もいるかもしれない。

 最初と最後の部分はタイトルである「家庭的」というコンセプトが反映しているが、やや素朴な内容になっていた。「お母さん」という呼びかけに応えて4人の女性ダンサーが踊り始めると、化粧をするような動きがあったり、また小指を立ててコーヒーを飲むような仕草があったりと、既成の女性のイメージに縛られた表現が多かった。また最後の部分では、「お母さん」役のダンサー(これは男性だった)が脚を広げて布切れの「赤ん坊」を出産し、それを抱えてみんなで喜びの群舞をする場面があったりする。家族というもの、とりわけ母性というものに疑いがないという印象を受けた。

 それは個人としては幸せなことであるかもしれない(ポストパフォーマンスでのトークにも、暖かい安定した家庭に育った人の気持ちの良さを感じた)。ただ、今後海外からも注目を浴びて活躍していくことを視野に入れるなら、アーティストとしてある程度現代的な家族観なり社会観を知っておく必要はあるだろう。確信犯でもなければ、それに逆行するような印象は与えない方がよい。つまらない処世術を勧めているようで気はひけるが、本質と異なることが引っ掛かりになって活躍できないなどということになったらこんな残念なことはないと思うので、よけいなことかもしれないが、書いておきたい。
(20日(日)午後1時30分の回)

◆「シュプラーデン(引き出し)」

 この作品の舞台であるベルリンにはこれまでに3回行ったことがある。興味を持って町の隅々を熱心に回った。日本でもベルリンへの興味は持続して、ナチス時代や東西ドイツの戦後史の本も何冊も読んでいる。だから日本人としてはこの作品の背景にはかなり詳しい方だと思うが、予想に反してかなりずっしりくるショックを持ち帰ることになった。

 机が3つ、椅子が2脚ずつ合計6脚置かれている。その背後には大きなスクリーン。30代後半から50代はじめくらいまでの女性が1人ずつ、タイトルとなっている車輪付きの引き出しを紐で引っ張って登場し、舞台手前に引き出しを残して椅子に座る。パフォーマンスが始まる前には水を飲んだり、小声で話したり、観客のようすを眺めたりとかなりリラックスした感じだ。

 机ごとに短い会話を積み重ねていくのだが、それを通じて1つの机に東ドイツ出身者と西ドイツ出身者が1人ずつ座って向かい合っていることが分かる(この2人の組み合わせは最後まで変わらない)。女性たちは自分の引き出しから持ってきた写真や古い手紙、本などを題材に、子供時代からこれまでの人生を相手に話していくのだが、環境の違いが大きくてお互いに戸惑う。相手の口からわからない言葉が飛び出すたびに「シュトップ」と言っては説明を求める。

【プログラム公式写真。photo: Benjamin Krieg、提供=KYOTO EXPERIMENT 禁無断転載】
【プログラム公式写真。photo: Benjamin Krieg、提供=KYOTO EXPERIMENT 禁無断転載】

 東の女性は社会主義教育で「明日のマイスター」の賞状をもらい、「西の平和主義者は平和の敵」と教えられた。警察国家だったので、目立たないように生きる術を身に付けた。一方、西の女性は権威を否定する対抗文化やフェミニズムの影響が強く、男性から自立して個性を強く打ち出すことを志向している。西の女性が(個性ある?)ヴァギナの写真を何枚も見せ、東の女性は「何でこんな写真を?」と戸惑う。そうかと思うと東の女性の1人が「初体験の相手は6歳上の兄」で「海岸で父や兄のペニスに黄色いペンキを塗った」などと性的にアナーキーな発言をして西の女性を驚かせる。

 話の途中で東の女性3人が集まり、東ドイツの「宗主国」だったロシアのウォッカの瓶を傾けながら西の女性を本音で批判する。これがおかしい。「甘やかされて育っているので未熟、人の意見を聞かない」「(スピリチュアルな発言をとらえて)宗教がかっている」「発泡ワインなんか飲んで。しかもノンアルコール」「おばあちゃんが東の親戚に小包を送っていたぐらいで『東の市民と連帯していた』とか恩に着せて」「いまだに私たちが英語が分からないと思っている」などと言いたい放題。

 しばらくすると今度は西の女性3人が集まって、発泡ワインを飲みながら東の女性を批判する。「いまだに『明日のマイスター』の賞状を欲しがって、もらえないものだからひがむ」「社会主義だから男も公私問わずで、だから家族と寝るんだ」「子どもの時大切にされていないから慎みがなくて誰とでもやる」「感謝の心を知らない」とやはり辛口。

 ともかく言葉が多い・言葉が強い作品だ。アクションもほとんどなく、椅子に座って話し続ける。間がないし、遠慮会釈もない。いま日本の演劇でここまで徹底して言葉だけが前面に出た作品はかなり珍しい。粘っこい知的体力とともに、はっきりと「異文化」を感じた。ドイツについて多少何かを知っているつもりでいたが、観光をしたり本を読んだりするのと、実際に目の前でこうして話し続ける人たちを見るのとでは全く異なる。

 そして、パフォーマンスが進行するとともに気づいたのは、この人たちはドイツ人の代表でもないし、ベルリンの女性の代表でもないということだ。舞台に置かれた机と椅子と引き出しから、オフィスの同僚どうしといった一般的な設定を描いていたのだが、そんな設定はなかった。

 途中で1人の女性がほかの5人に信条などを聞く場面があるが、全員が「左翼」で「リベラル」で「フェミニスト」であり、「高等教育を受けた」と自認していた。要するにこの人たちは作ったキャラクターを演じているわけではなく、本人を元に役を構成していた。彼女らはベルリンの演劇人たちであり、「左翼」「リベラル」「フェミニスト」「高等教育」というのはその世界におけるスタンダードなのだ。だから異文化というのは「ドイツ文化」というよりまずは「ベルリンの演劇文化」だが、その硬質で理の勝った感じ、ますます感性的で情緒的な方向に流れつつある日本とあまりに違う、ナタで叩き割るような力技に私はショックを受けたのだった。

 この人たちは出自は西の東のと言っても、今となってはベルリンの演劇人という同じ「文化」に属している人たちなので、お互いに共通点は多い。フェミニズムの話になると共感をするし、共通の思い出として、アメリカのポップソングを英語で合唱する(この英語優位に対するこだわりのなさは、よく分からなかった)。この人たちにとって本当の異文化はお互いよりもむしろ日本であり、そこにはそもそも、とことん言葉を尽くして話そうという、彼女らにとって当然の前提が存在しない。意見の違いを想定せず、沈黙の中で、あるいはちょっとした言葉づかいの端々で、相手の同意を織り込んで物事を進めていく文化。演劇人だろうとそれは同じことだ。

 私は彼女らと自分たちの間に横たわる深淵の深さに恐ろしささえ感じて、見終わるとぐったりと疲れてしまった。文化の違いに恐れおののく。これまた海外の演劇を見る意義ではあろう。だが、この作品の作り手たちは、こうした受け止め方をされるとは想定していないはずだ。それがなおさら恐ろしかった。
(20日(日)午後4時の回)

◆「ゲームの終わり」

 昨年のF/T公募プログラムの参加で注目された山口を拠点とする集団:歩行訓練(その際の伊藤寧美さんの劇評)。今回は京都の劇団衛星のKYOTO EXPERIMENTフリンジ企画「オープンエントリー」参加作品「岩戸山のコックピット」内の1企画としてベケットの「ゲームの終わり」を上演した。

 劇団衛星の「岩戸山のコックピット」は、衛星が誇る舞台装置「コックピット」を3週間稼働させ、その間に同劇団の作品だけでなく、合計10もの外部企画に貸しだすというもの。コックピットは巨大ロボットの頭部の中という設定で、外のようすを映し出す(という設定の)大きなスクリーンのほか操縦席や計器、複雑な配管などが備え付けられている。面白いセットだが決して広い空間ではなく、幅3メートル、奥行き2メートルといったところか。

 今回の公演では真ん中の操縦席をハム(中村洋介)の席とし、左にやや押し込み気味にナッグ(岡崎)とネル(古賀菜々絵)の入っている青いドラム缶。右にもともとドアがあるので、クロブ(人見彰)はこれを出たり入ったりする。

 そして一番の特徴は、奥の大きなスクリーンと手前に新たに置かれた小さなスクリーンに、集団:歩行訓練代表で演出の谷竜一の故郷である福井県大飯郡高浜町で撮影した映像が映写されていることだ。高浜町は関西電力の高浜発電所(原発)の地元であり、隣接するおおい町にも原発があることで知られる。

 映し出される光景は美しい海、さびれた町、土の田舎道、畑などで、特に原発に焦点を絞ったものではない。だが、滅びの姿を描いた作品の性質と、福島の事故以来の原発への不安が相乗効果となり、本来ありふれた田舎の風景のはずが不吉な前兆に満ちたものとして映った。映像は劇の内容との同調も特に図っていないというが、劇で光が話題になっている時に道に光があふれたり、レンガの建物の話をしているときにブロックつくりの何かの施設が映し出されたりすることがあった。終盤、ハムが「これで終わりだ」と言うと映像が切れてスクリーンが黒くなった。当然演出だろうと思っていたら、終演後の谷の話ではこれも偶然だそうだ。もともと映像は予定上演時間(110分)分しか用意していなかったところ、上演が20分ほど延びたので途中で切れたのだという。

「ゲームの終わり」という作品はもともと欧州の階級社会の崩壊が背景にあるという印象を受けていた。自分では何もできないのにやたらと威張り散らすハムと、なぜかその言いつけに従うクロブの憎しみ合いながら離れがたい関係性や、ハムの父であるナッグとそのパートナー・ネルの幼児退行した姿などは、大戦後の中産階級の勃興を前に斜陽を迎えている特権階級の戯画として理解できることは確かだ。

 だが、今回の上演を見ていると、あらゆる「ゲーム」、つまりは必然性のない擬制の終焉を寓意したものとして見ることもできることに気づいた。とは言っても、「ゲームの終わり」が原発問題の寓話としてピッタリくるというのではない。むしろそこにはかなりの距離があり、演出によって補助線を引いてもよかったのではないかとも感じた。だが、レンズの焦点がぼやけている方が光点が大きくなるように、補助線を引かないことでかえって、ぼんやりとはしているが大きな照応関係を示すことができたのかもしれない。映像と上演との間に起きたシンクロは、その可能性を示すもののようにも思えるのだ。
(20日(日)午後7時の回)

【筆者略歴】
水牛健太郎(みずうし・けんたろう)
 ワンダーランドスタッフ。1967年12月静岡県清水市(現静岡市)生まれ。高校卒業まで福井県で育つ。東京大学法学部卒業後、新聞社勤務、米国留学(経済学修士号取得)を経て、2005 年、村上春樹論が第48回群像新人文学賞評論部門優秀作となり、文芸評論家としてデビュー。演劇評論は2007年から。
・ワンダーランド寄稿一覧:
http://www.wonderlands.jp/archives/category/ma/mizuushi-kentaro/

【上演記録】
KYOTO EXPERIMENT 2013
KYOTO EXPERIMENT 2013 フリンジ「オープンエントリー作品」

Baobab「家庭的 1.2.3」
元・立誠小学校講堂(2013年10月19日‐20日)

振付・構成・演出:北尾亘
出演:水越朋、岡本優(TABATHA)、村田茜、内海正考、判治芳恵、鈴木綾香、大石憲(monophonic orchestra)、小山まさし、山下彩子、米田沙織、目澤芙裕子、北尾亘
映像ディレクション:みんなうそつき(西川達郎・乙女絵美)
衣装:石野良子
楽曲提供:岡田太郎(悪い芝居)
宣伝美術:岡本優(TABATHA)
制作:目澤芙裕子
音響:宮田充規
照明:川島玲子
舞台監督:石田昌也
製作:Baobab
共同製作:KYOTO EXPERIMENT
協賛:TOYOTA 創造空間プロジェクト
助成:公益財団法人アサヒグループ芸術文化財団
共催:立誠・文化のまち運営委員会
主催:KYOTO EXPERIMENT

チケット料金
一般:前売 ¥2,500/当日 ¥3,000-
ユース・学生:前売 ¥2,000/当日 ¥2,500
シニア:前売 ¥2,000/当日 ¥2,500-
高校生以下:前売 ¥1,000/当日 ¥1,000

She She Pop「シュプラーデン(引き出し)」
京都芸術センター講堂(2013年10月18日‐20日)

クリエーションメンバー:ゼバスティアン・バーク、ヨハンナ・フライブルク、バーバラ・グローナウ、アネット・グレシュナー、ファニ・ハルンブルガー、アレクサンドラ・ラハマン、カタリーナ・ローレンツ、リーザ・ルカセン、ミーケ・マツケ、ペギー・メトラー、イリア・パパテオドル、ヴェンケ・ゼーマン、ベーリット・シュトゥンプフ、ニーナ・テクレンブルク
出演:ヴェンケ・ゼーマン&ヨハンナ・フライブルク、アレクサンドラ・ラハマン&ベーリット・シュトゥンプフ、カタリーナ・ローレンツ&リーザ・ルカセン
ドラマトゥルク協力:カーヤ・ヤクシュタット
コーディネーター:ヴェロニカ・シュタイニンガー
舞台美術:ザンドラ・フォックス
衣装:レア・シュブシュ
照明:スヴェン・ニヒタライン
音響:フロリアン・フィッシャー
映像:ザンドラ・フォックス、ブランカ・パブロヴィッチ
アシスタント:アイリカ・ライボルト、アンヤ・プレダイク
字幕:KITA / David Maß、古後奈緒子
制作・広報:ehrliche arbeit
ツアーマネー:ジャークシェニア・ライデル
カンパニーマネージャー:エルケ・ヴェーバー
翻訳協力:北條瞳、設楽里菜、木村美和、東尾有貴子、北岡志織、吉田瑛子
製作:She She Pop
共同製作:HAU Hebbel am Ufer(ベルリン)、カンプナーゲル(ハンブルク)、FFT(Kデュッセルドルフ)、brut Wien
助成:ベルリン市、ハンブルク市、Rudolf Aug-stein財団、Darstellende Künste
特別協力:ドイツ文化センター
主催:KYOTO EXPERIMENT
チケット料金:
一般:前売 ¥3,500/当日 ¥4,000-
ユース・学生:前売 ¥3,000/当日 ¥3,500
シニア:前売 ¥3,000/当日 ¥3,500-
高校生以下:前売 ¥1,000/当日 ¥1,000

集団:歩行訓練のコックピット「ゲームの終わり」
KAIKA(2013年10月20日‐21日)
作:サミュエル・ベケット(安藤信也・高橋康也共訳「勝負の終わり」『ベケット戯曲全集2』白水社所収より)
演出:谷竜一
出演:人見彰、中村洋介、古賀菜々絵、岡崎健斗
演出助手:山口晋之介
制作:畑田珠希
著作権代理:フランス著作権事務所
協力:スタジオイマイチ
主催:劇団衛星 NPO法人フリンジシアタープロジェクト
※本上演はKYOTO EXPERIMENTフリンジ企画「オープンエントリー作品」『岩戸山のコックピット』内の上演となります。
チケット料金 2000円

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