ココロノキンセンアワー演劇部「カレー屋の女」

◎新聞紙で作る竈に無言の想い
 西村博子

currywomen0a 公演後毎回催されたアフタートーク「3.11後の演劇を語る」で、公務の傍ら観劇歴30年という佐々木久善氏から仙台をはじめ東日本の様子を聞くことができた。
 それによると大震災を描いた作品は非常に多く、あまり多いので暫く自粛しようよと話し合った演劇コンクールさえあったほどという。佐々木氏は高校演劇の審査員もされているのだが、それでも、津波で亡くなった生徒をモチーフにした宮城県名取北高校の「好きにならずにはいられない」が東北地区の最優秀賞に選ばれ、昨年(2013年)10月に長崎で開かれた第59回全国高等学校演劇大会に出場し、優良賞に選ばれたと。

 話は、一見大震災に関係なさそうな作品でさえ、経験したものの感性から描かれていて、以前と演劇はすっかり変わった、と続いていった。こうした様子も、今回のココロノキンセンアワー演劇部「カレー屋の女」(佃典彦作/茅根利安演出)でなるほど。窺い知る好い機会であった。「東日本大震災・心の復興祈念ツアー」の一環として被災ちょうど3年、2014年3月11日を期してのAlice Festival 来演であった。

 よく知られているように、この「カレー屋の女」は佃典彦(名古屋・B級遊撃隊)の東日本大震災以前の作であり(1998)、のち、登場人物をカレー屋一家に絞って近所の島民は削除するなど多少の手は加えられたが、松島近辺の島のカレー屋の女たちが、訪れた公務員の男をカレーに煮込んで喰っちゃうという大筋に変わりはない自称ノンセンス(意味なし)のグロテスク・コメディであった。店の名が江戸時代にスペイン、ポルトガルを意味したという“南蛮” 屋だったことからも何となく感じられるように、どこか異国の野蛮な島の、架空の話という設定であった。が、それを、ひょっとしたらこれは地震、津波、原発に揺れた日本という島国のことでは? と、3.11後の感性で見直されたのが今回の舞台であった。

【写真は「カレー屋の女」公演から。撮影=原節子 禁無断転載】

 大筋も台詞もほとんど作のまま、カットほとんどなしのこの「カレー屋の女」。しかし舞台を一見、真っ先に感心したのは、カレーを煮込む大鍋の竈(かまど)もテーブルも戸棚も一面の床も、いわゆる舞台装置のすべてがくしゃくしゃ、大量の新聞紙からなっていたことだった。被災地の津波押し寄せた砂浜と見るか、汚染された瓦礫と見るか、はたまたマスコミ報道の山と見るか、それは見る人次第という抜群のアイデアであった。アフタートークになぜ新聞紙を?と質問してみたら、演出は「自宅から塩竈に何日か通った時に海岸近くがあんな感じでした」、新聞は全部「河北新報」ですと答えてくれた。

 “塩竈”とは、被災後すぐの5月から毎月のように、自分たちの日々の不便や困難も顧みず塩竈市へ被災者慰問に駆けつけた人たちが音楽、ダンス、演劇その他ジャンルを問わず催してきたココロノキンセンアワーというイベントのこと。その参加者のうち演劇関係の、志ある人たちが茅根利安さんを中心に結成したのがこのココロノキンセンアワー演劇部というわけだった。

 無言の想いの籠もったこの装置、被災後の感性で見直されたこの舞台、3.11に関心鈍(にぶ)い東京住人のひとりである私に何が言えるだろうというのが正直な気持ちである。

 けれども、この新聞紙の見る人次第、どのように見ても構わないよの大胆な差し出し方に勇気づけられて敢(あえ)て言うとすると、私はこの山々のような新聞紙の連なり、床一面の散乱を、従来の大企業を優遇しこれから原発、武器輸出産業を発展させようとしているアベノミクス、それを支えるマスコミの山と感じたのだった。女は男の喰い物、でも将来の少子化、人口減少によるグローバル経済の失速だけは避けたい日本列島を見ようとした、見たいと思ったのだった。除染や整地は遅れても“公共”事業や国会議員の給料は増やし、消費税は上げても大企業の税金は安くという今の社会を、である。舞台はただ男と女をひっくり返しただけ。架空の爆笑劇ですよと差し出されながら、いや、そう差し出されたからこそ、であった。

 二人の女店員(尾川正也、早坂泰亮)が大雨の中で死体を埋める穴をせっせと掘っている。そのプロローグとエピローグの間に、女たちがみんな子種を欲しがっているカレー屋の店で、その女店主(及川裕紀)が若い男(佐藤広也)を手に入れるまでが描かれた奇想天外な作品。この笑いの上にさらに演出が元の台本、ト書きにはない様々な工夫をいっぱい施した舞台であった。

 例えば幕開きすぐの、いかにも勤勉な日本人らしい女店員たちの音楽に合わせた愉快な働きっぷり。例えば男がちゃんとカレーを食べるかどうか女たちが一斉に男の口元を注視したり、大股開いた長女(平林里美)がみんなの差し出す洗濯挟みやフォークやトイレのスッポンなどで長老(茅根利安)の妊娠検査を受けたり、女店主が男に、喰っちゃった夫の血のついたままの寝巻と着替えさせようとすると娘たちも家督争いしていた女店主の姉もみんなあっという間に着ていたものをいつでもOKとばかり脱ぎ捨てていたり、ついに男ゲット!のシーンでは女たちがAKB風に可愛く喜びを歌いながら踊ったり、殺鼠液を飲んだ男の体を弾んだリズムに合わせて切り刻んだり大鍋で煮込んだり……である。只野展也作曲と聞いたテーマミュージックも愉快なうちに憂いあってとても良かった。

 とここまで書いてしかし、このカレー屋を南蛮屋ならぬジャバン屋と思いたい私には正直、少々残念なことがあったと言わなければならない。何が残念だったか。それは客席の笑いが思った以上に少なかったことだった。一例を挙げるとエピローグの最初の出、恐らく放射能を含んでいるに違いない黒い雨の中を黒い傘差して出てきた喪服の女たちが全員妊娠中、大きなお腹を突き出していた瞬間である。それらのお腹を見ただけで男の、カレーにされる前にせっせとヤッタニチガイナイコトが想像されて思わずどっと笑いがくる——はずだったのが、しーんとしていて残念だった。

【写真は「カレー屋の女」公演から。撮影=原節子 禁無断転載】

 もちろんこれはすぐ、喪服の女たちすべてが次々に何かの花を、最後に女店主が桜の花を、男の死体に捧げるシーンへと変わり、それまでの笑いとは全く別に18,500人余にのぼるという3.11の死者、行方不明の人々へこの劇を贈るココロノキンセンアワー演劇部の無言の、厚い追悼の念が伝わってくる素晴らしいラストに変わるのだけれども、だからこそ余計、その前までは笑いいっぱいで欲しかったと思った。この「カレー屋の女」はソウルの大学路演劇祭(D’Festa)を皮切りに仙台、東京公演を経て寒河江、石巻へと巡演していったのだが、そのソウルでは客席大爆笑だったと聞いていただけに一層であった。

 もちろん東京よりも3.11を知らないであろうソウルの観客と東京のそれとを単純に比較することはできないし、どう受け取ってもいい新聞紙の山だったのだからどう受け取ろうとそれぞれの勝手に違いない。が、それにしても今回の「カレー屋の女」に、丁寧なプロット紹介に続けて、「ひとりの男の〈死〉を通して新しい〈命〉が生まれるという劇的構造に私は、この劇が東日本大震災で死んだ人々の〈魂の再生〉の物語として演出されていると強く感じた」(平 辰彦、Alice’s Reviewから)とあったのに接すると、それが真摯な評であるだけに一層、そう受け取っても仕方ない要素が確かにこの舞台にはあったと認めないわけにはいかない。この舞台をどう受け取っていいか判らないと迷った人の言葉もいくつか聞いた。

 なぜ人食い劇と命の再生劇と、真反対と言ってもいい受け取り方が同じ舞台から生まれたか、その理由は及川裕紀の女店主が若く、綺麗すぎた等いろいろ挙げられようが、その一番の理由は、女店主の吃りという設定にあったと思う。吃りは既に原作にある設定であり、演出はそれをただそのまま採用しただけと言えば言えるが、これがエピローグ直前のラストシーンに、

治るぞ、それ。
ど、どうやって。
朝、歌ってたろ……歌ってる時は吃らないんだ。
え、そそそうなんです?
そうだよ……知って歌ってたんじゃないのか。
ぜ、全然。
吃音症ってのはそうやって治すんだ。
ど、どうしてそんなことし、知ってるんです。
俺の子供も吃りでね。
……。
小学校3年生…… 一人息子だよ。
お、男の子ですか。
吃りってのは精神的な痛手から起こったりするんだよな。
せ、精神的ない、痛手……。
俺のせいなんだ……家庭内離婚ってヤツなのかな……

とあるとおり、喰う者と喰われる者が互いのコンプレックスを知り、理解し合ってしまったからであろう。女店主と男の熱い抱擁は、観客に、喰う者への笑いも喰われる者への笑いも、すべてを忘れさせてしまうほど強かったからに違いない。グロテスク・コメディがここで愛を謳うシリアス・ドラマに変貌してしまったと言わなければならない。

 もちろんこれらの台詞は、両手を後ろ手に縛られた男と、自分の娘たちも姪も差しおいて若い男を獲得しようとする年長の女店主との、食べちゃう直前の会話だから、字面とは全く裏腹の喰う者と喰われる者、支配する者とされる者との関係を表しながらの演技もここで想定できないわけではない。けれども今回の舞台ではこの台詞どおりのシリアスな演技だった。茅根演出の「カレー屋の女」でサア大笑いしようと待ち構えていた私にとっては残念なラストシーンだった。言葉のニュアンスなんてほとんど伝わらない、どうしたって俳優の方を見ることになる海外公演ではこれでも問題ないだろうが、それとは違う国内公演では、もし勝手なことを言わせてもらえばであるが、最後の追悼の場直前まで思い切って現代のグロテスク・コメディに仕上げて欲しかったというのが本音である。

 戯曲を立体化してただ忠実に観客に紹介しようというのでなく、3.11後の自分の新しい感性で戯曲を見つめ直そうとした茅根演出は素敵だ。今後の劇都仙台はさらに豊かになるに違いない。(2014.3.11)

【筆者略歴】
西村博子(にしむら・ひろこ)
 NPO ARC(同時代演劇の研究と創造を結ぶアクティビティ)理事長。小劇場タイニイアリス代表取締役兼アリスフェスティバル・プロデューサー。日本近代演劇史研究会(日本演劇学会分科)代表。早稲田大学文学博士。著書は『実存への旅立ち−三好十郎のドラマトゥルギー』、『蚕娘の繊絲−日本近代劇のドラマトゥルギー』I, II 。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/na/nishimura-hiroko/

【上演記録】
ココロノキンセンアワー演劇部 「カレー屋の女」(アリスフェスティバル2013参加作品)
タイニイアリス(2014年3月10日-11日)
作:佃典彦
演出:茅根利安
出演:及川裕紀 遊木理央、平林里美、渡辺千穂、田中沙季、佐藤広也、早坂泰亮、尾川正也、茅根利安
演出補佐:遊木理央
アドバイザー:佐々木久善
音楽:只野展也 吉田正広
☆料金 前売り・当日共に:2,000円
各回アフタートーク「3.11後の演劇を語る」ゲスト:佐々木久善

東日本大震災・心の復興祈念ツアー2013→2014(ソウル→仙台→東京→寒河江→石巻)
ソウル公演 2013年10月8日-9日(小劇場シオル)
仙台公演 2014年3月4日(エル・パーク仙台 スタジオホール)
東京公演 2014年3月10日-11日(タイニイアリス)
寒河江公演 2014年3月15日(中央公民館ホール)
石巻公演 2014年3月22日(N’s-SQUARE)

助成:(公財)仙台市市民文化事業団 (公財)宮城県文化振興財団
共催:新宿Tiny Alice(東京) D.Festa(ソウル) 寒河江市中央公民館(寒河江)
協力:鈴木敏幸/国井聡子(寒河江) いしのまき市民劇団夢まき座(石巻) 丸茂電気

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