◎未完成な幽霊、不完全な“GHOST”
辻佐保子
マンハッタン中心地での演劇フェスティバル「プレリュード」
マンハッタン島の中心にそびえるエンパイアステート・ビルディングのはす向かいに、ニューヨーク市立大学 (City University of New York) の大学院がある。そこには演劇研究と実践の架橋として機能することを目的としたマーティン・E・セーガル演劇センターがあり、年に一度「プレリュード」 (The Prelude) という小規模な演劇フェスティバルが催されている (註1)。11回目となる2014年は、10月8日から10日までの3日間にわたって開かれた。
「プレリュード」は、ニューヨークを拠点とする若いアーティストの支援を理念として掲げている。『浜辺のアインシュタイン』(Einstein on the Beach, 1978)などで知られる演出家ロバート・ウィルソンの下で長くアシスタントを務めたフランク・ヘンチュカーが製作総指揮に就き、4人のキュレーター(クロエ・バス、ジャッキー・シブリース・ドゥルリー、サラ・ローズ・レナード、そしてアリソン・ライマン)がプログラムを組むというシステムをとる。パフォーマンスやインスタレーションは主に2つの劇場(セーガル劇場とエレバス・リサイタル・ホール)とギャラリー、ミナ・リース図書館といった大学院内の施設で上演・展示された。本稿で取り上げるパフォーマンス『GH ( ) ST』(GH ( ) ST)も図書館を舞台にした出品作品の一つである。
『GH ( ) ST』
『GH ( ) ST』は、ブルックリンを基盤に活動するアーティストのエヴァ・フォン・シュワインツがテクストを執筆し、彼女自身が読み上げたオーディオ・データを用いたパフォーマンスである (註2)。フェスティバルのウェブサイトには、プログラムについて以下のような紹介が掲載されている。
パフォーマンスの参加者は、図書館外に設けられた受付でmp3プレイヤーとヘッドフォン、不規則な位置に空欄が8つ設けられた紙と鉛筆を受け取る。5分おきにひとりずつ、ヘッドフォンから流れる幽霊の声に導かれながら参加者は図書館の扉をくぐる。参加者のたどる道のりはどのようなものか。空欄を埋めるために投げかけられる8つの質問を中心に概要を記したい。
『GH ( ) ST』は、図書館の1階から始まって2階へと上がり、エレベーターで地下まで降りて1階へと戻るというルートをとる。パフォーマンスの冒頭、セキュリティ・ゲートを通って図書館内に入る前に、幽霊は入り口に飾られた二枚の絵を見るよう促す。ニューヨーク市立大学初代学長にして図書館の名前となっている数学者ミナ・リースの自画像である。早速彼女(幽霊は自身を女性として認識している)は尋ねる。
言葉を空欄1に記してようやく、参加者はセキュリティ・ゲートを通ることが許される。図書館の1階は、司書のデスクと利用者の作業スペース、過去の学位論文が収蔵された閲覧室からなっており、大きな窓ガラスが開放感を生んでいる。足を踏み入れてすぐに、幽霊は2つ目の空欄を埋めるよう指示を出す。
そして、幽霊は参加者を閲覧室へと誘導する。「閲覧室に来る度に本が書かれ読まれるために費やされてきた時間の蓄積を思い出す、まるで子どもの頃に欲しかったもののために1ペニーずつためていった時のようだ」と幽霊は語り聞かせる。しかし即座に、このような記憶は作り物であり、私には過去も記憶もないと幽霊は自身の発言を否定する。そして、参加者に過去を差し出してくれないかと乞い、以下のように問う。
閲覧室から出て2階に上がるよう幽霊は参加者に指示を出す。開架書架と作業スペース、パソコン機器が並ぶ2階の隅に、幽霊の作者の机が執筆を断念した時の状態で再現されており、参加者はそちらに向かう。メモ書きや写真、コーヒーにチョコレート、そしてアンリ・ルフェーブルのThe Missing Pieces(2011)やフィリップ・ロスの『ゴースト・ライター』(The Ghost Writer, 1979)といった書籍に囲まれた机に座り、参加者は幽霊の質問に耳を傾ける。
ここに来てようやく、幽霊は「自分の物語を完成させてくれる人を探している」と参加者に目的を告げ、普段は立ち入ることの出来ない書庫へと誘導する。書庫はミナ・リースにまつわる資料が収蔵されているが、幽霊はそれらの資料ではなく『オデッセイ ナショナル・ジオグラフィック傑作選』(Odyssey: the Art of Photography of National Geographic, 1988)を見るよう参加者に促し、尋ねる。
書庫から出た後、幽霊は作業に勤しむ利用者を見るよう参加者に告げ、利用者たちの物語、重荷、闘いを自分のものとして引き受けたいから想像してほしいと問いかける。
幽霊は、参加者に瀟洒な木造のパネルで飾り付けられた古いエレベーターで地下へ向かうよう導く。そして道程も終りに近づいていると告げた上で、質問を投げかける。
ミナ・リース図書館の地下は、主にパソコン作業のために利用されている。だが、幽霊はエレベーターから降りて目の前に位置する部屋に入るよう参加者を誘導する。そこは、通常は立ち入り禁止となっている書斎である。ランプだけが灯る薄暗い部屋に参加者を招き入れ、「自分の最後の言葉として言うと約束するから、次の質問に答えてほしい」と幽霊は乞う。
そして、1階に戻るよう参加者を促し、「ありがとう」と呟いて幽霊は消失していく。
結論から言えば、意欲的であるのに物足りないという歯痒さの残るパフォーマンスだった。未完のフィクションの登場人物が幽霊となって語りかける、という『GH ( ) ST』のコンセプト自体は目新しいものではない。フィクションの登場人物であることに自意識的な点はルイジ・ピランデッロの『作者を探す六人の登場人物』(Sei Personaggi in Cerca d’Autore, 1921)を、幽霊と思しき登場人物の語りで構成されている点はサミュエル・ベケットの後期作品を思い起こさせる。だが、古典的とも言ってよいコンセプトを、パフォーマンスのために画定された空間内を観客が移動することで成立するサイトスペシフィック・パフォーマンスの形で取り上げたこと、また、参加者に“書く”という具体的な行為を要請したことが、先行作品と『GH ( ) ST』との大きな違いであり特色でもある。“書く”ことによってのみ得られる何かしらの体験を参加者にもたらすことが『GH ( ) ST』では試みられていたと考えられる。では、その体験とは一体どのようなものなのか。そして、『GH ( ) ST』の試みはどういった点で実を結び、どういった点で中途半端に終わってしまったのか。本稿ではまず『GH ( ) ST』の志の高さが現れていた部分として、パフォーマンスを通じて参加者が“書く”という行為に対して両義的な感情を覚えるよう促す仕掛けが構築されていたことを指摘したい(註5)。
“書く”ことは愛おしくも恥ずかしい営みである
執筆途中で放棄されたため登場人物としての自律性が不完全だという自らの状態を、幽霊はパフォーマンス中に以下のように表現する。
「私は埋められたまま生きている」
「それでも存在している。生と死の狭間に留め置かれて、パーソナリティ障害を抱えたまま」
このような生きながらにして死んでいる宙づりの状態から解き放たれるために、「私はあなたを作者に選んだ」と幽霊は参加者に告げる。だが、参加者に求められている役割は、幽霊を途中で打ち捨てた作者の代理となることではない。作者がどのような物語をどこまで書き上げていたか、参加者には知る手だてがないため、代理になりようがないためである。同時に、新たな登場人物として幽霊を再創造することも参加者には求められていない。
幽霊の目的は、参加者から言葉を引き出して空欄を埋めさせることで自らの抱える欠落を満たすことにある。そのために、幽霊は図書館内を案内して、絵画や書籍、写真集などに参加者を引き合わせ、何を思い、何を感じ、何を考えたか言語化して差し出すよう求める。幽霊の声に耳をそばだてて言葉を書き付ける参加者の姿は、異界からの声を聞き媒介する霊媒の姿を彷彿とさせる。けれども、参加者の書きつける言葉は幽霊から発せられたメッセージそれ自体ではない。パフォーマンス本編を通じて、幽霊はさまざまなことを参加者に語り聞かせる。なぜミナ・リースは力強い筆致で自己を捉えて具体化できているか不思議であること。写真集の中に自分の写真が納められていたらと夢見ていること。そして作者がなぜ途中で執筆を断念したか分からないこと。こういった幽霊の語りは、しかし、参加者の手を借りて言語化させるべきメッセージとして位置づけられていない。括弧の中に入れられるべきは、幽霊によって触発され言語化された参加者の直観や記憶、想像なのである。
6つ目の質問で、図書館利用者の中から一人を選んで「その人が生きるために何と闘っているか」を書くよう幽霊は参加者に問いかける。この時に幽霊が語る「この人についてのあなたの考えを、あなたは私に書き付けている」という言葉に、『GH ( ) ST』における幽霊と参加者の関係性が端的に現れている。すなわち、幽霊は語りを通じて参加者と図書館利用者を媒介し、参加者は想像を通じて図書館利用者と幽霊を媒介するという相互関係が生じているのである。
したがって、空欄を抱えた“GH ( ) ST” から自律した “GHOST” へ昇華させるための言葉にも、幽霊と参加者の間で取り結ばれる関係性が反映されることとなる。オーディオの最後で「あなたの物語、私の物語、私たちの物語」と幽霊が述べていることからも分かるように、パフォーマンス中に書き記される言葉は幽霊のものであると同時に参加者のものという位置づけが獲得される。ここから、『GH ( ) ST』において“書く”こととは、他者の代理となることや、異界からのメッセージを表出させることを意味しないことが分かる。参加者はパフォーマンスを通じて、“書く”ことは個別的な言葉を他者に差し出す営みであると体験するのである。
“書く”ことを個別的な言葉の他者への贈与として示すために、参加者一人ひとりがヘッドフォンをつけて幽霊の声に耳を傾け、他の参加者との交流もないまま図書館を歩き回るという形式は適切であったと思われる。けれども、幽霊の問いかけに答えて言葉を書き付けるだけで、“GH ( ) ST” の空欄が埋まって“GHOST” として自律性が獲得されるという筋はとても単純で、“書く”という行為をあまりにもロマンティックに捉えているのではないかという疑問が浮かびあがった。また、確固たるアイデンティティを持っていないと悩みを告げるにも関わらず、パフォーマンスの中で幽霊の嗜好や思考がきわめて明確に表明されるため、彼女のアイデンティティ・クライシスの描かれ方が中途半端である点は物足りなさを覚えた。このように、図書館の中を歩き回る時点からすでに、筆者は形式の特異さに対する筋の単純さに釈然としないで思いでいた。ところが、本編の筋が単純で安直であることに意義があったと納得できる出来事が、オーディオを聞き終わった後に起こり、そこに『GH ( ) ST』というパフォーマンスの試みのユニークさが現れていた。
幽霊の声が消失した後、参加者は1階で待ち受けているフォン・シュワインツから文章が印刷された紙を受け取る。8つの空欄が切り抜かれた紙を、言葉を書き付けてきた紙の上に重ねると小説が完成するという仕掛けになっている。ところが、2枚の紙を重ね合わせることによって出来上がる文章は必ずしも意味が通ったものとはならない。むしろ、空欄を埋める言葉とフォン・シュワインツから手渡された地の文とが乖離する可能性を多分に孕んでいる。
筆者の場合、地の文との乖離が最も激しかったのは、2階にしつらえられた幽霊の作者の作業机(の再現)に腰かけた時に投げかけられた4つ目の質問への回答である。幽霊は、なぜ作者は中途半端な状態で放置したのかと自問自答する時にアンリ・ルフェーブルのThe Missing Piecesを読むと心の慰めになると語る。The Missing Piecesは、ヴァージニア・ウルフやピカソなど名だたる芸術家たちが自作を途中で放棄し秘匿した記録が淡々と記されている。幽霊はその一部を読み上げ、参加者に自分はなぜ完成されることはなかったのかと問う。参加者は今しがた聞かされた引用や、目の前の机に置かれた物的証拠からさまざまな憶測を巡らせる(ちなみに筆者は“創造することへの不安”と書いた)。だが、パフォーマンス終了後に手渡された文章の該当箇所はこのようになっていた。
文脈から上の空欄に埋まる言葉は“金”であることが推測でき、少なくとも筆者の回答はまるでそぐわないちぐはぐなものであることが晒される。
上の質問で “金”と書いた参加者もいれば、他の質問で乖離が生じた参加者もいたことだろう。だが本稿が問題としているのは、個々の参加者の言葉がどれだけ文脈に当てはまっていたか否かではない。幽霊のために差し出された言葉がフォン・シュワインツのアクションによって全く異なる文脈へと置かれ、言葉と書き手の連関が引きはがされることである。そして、パフォーマンスの中で“GHOST” としてオーディオの語り手を自律させたはずが、実は “GHOST” の体裁をなしていなかったという落差を参加者は体験する。こうして、“書く”という行為に注がれてきたロマンティックでセンチメンタルなまなざしが、パフォーマンスの直後に一気に相対化される。「私の物語を完成させて」と切実に訴える幽霊の語りに同調して思い入れを込めて空欄を埋めるほど、文脈とのずれが発覚した時にもどかしさや気恥ずかしさを味わうという小気味よいシニカルさを『GH ( ) ST』から見いだすことができるのである。
より混沌を呼び込み、より支離滅裂な方向へ
以上見てきたように、図書館の中を歩き回らせて文字を書かせるというパフォーマンスのスタイルは、“書く”ことに対する愛おしくも恥ずかしいという両義的な感覚を参加者に呼び起こすために効果的であったと思われる。惜しいのは、パフォーマンス本編とその後の間で生じる落差を示すだけに留まってしまったことである。参加者に落差を体験させた上で改めて、“書く”ことへのフォン・シュワインツ自身の見解が提示され、参加者に省察を促す域までは至っておらず、踏み込みが足りなかったことは残念である。
また、『GH ( ) ST』の試みが十分に実を結ばなかった要因として、パフォーマンスを成立させるあらゆる要素が決定されすぎていたことも考えられる。大幅な誤差なく参加者を誘導するためのタイミングを決定することが至難なことは、容易に想像することができる。その点で『GH ( ) ST』はテクストが緻密に構成されていて、指標となる言葉を注意深く拾い上げていけば無事にパフォーマンスを完遂できるようになっていた。しかし、どのような絵を見て、何の本の何ページを読むかという細部に至るまで決定されており、テクストが定めた枠組みの中から参加者が逸脱していくことは想定されていないことが窺われる。だが、要素を決定しすぎることは、パフォーマンス本編とその直後に参加者が体験するギャップを弱める方向に働きかねない。先述したウェブサイトの演目紹介文には「支離滅裂な想像力の営み」に参加者は乗り出していくと記されていたが、「支離滅裂」と打ち出すにはコントロールされていることが明示的であった。図書館の通常業務や利用者への干渉を防ぐために、幽霊の語りを綿密に組み立てて参加者の行動に制約を設けたのであろう。そのことを承知の上でなお、参加者の自由度をより高めて混沌を呼び込むことは、パフォーマンスにおいても吉と出たのではないかと思われてならない。たとえば、写真集の中から自分の姿を探してほしいと幽霊が尋ねる時、手に取る本や開かせるページを参加者の裁量に任せることで、5つ目の空欄に書き付けられる言葉はより個別性を帯びることとなる。そして、フォン・シュワインツから手渡される紙を重ねた時、より落差が生じる可能性が出てくるだろう。
とはいえ、オーディオを巧みに用いたサイトスペシフィック・パフォーマンスという形式を採用した鋭さや、パフォーマンス本編とその後のギャップの設け方、参加者にアクションを取らせるためのタイミングを周到に合わせたテクストなどエヴァ・フォン・シュワインツというアーティストの才気を感じられるパフォーマンスだったことは確かである。それゆえ、“惜しい”というもどかしい思いがパフォーマンス後に残ったのである。だが、それはフォン・シュワインツの伸びしろが示されたということも意味している。今後彼女がどのような作品を生み出すか、期待を込めて稿を締めたい。
(2014年10月8日、9日参加)
註1. マーティン・E・セーガル演劇センター:http://thesegalcenter.org/home/
2014年度「プレリュード」:http://preludenyc.org/about/
註2. エヴァ・フォン・シュワインツは、パフォーマンス以外にも映像作品やインスタレーションも製作している。http://www.brainhurricano.org/
註3. 「プレリュード」ウェブサイト内での『GH ( ) ST』のページ:http://preludenyc.org/event/eva-von-schweinitz/
註4. 以下、8つの質問を初め鍵括弧でくくられた言葉は、アーティストから送られた原稿を参照している。この場を借りて、フォン・シュワインツには深く感謝を申し上げたい。
註5. 筆者は全日程(10月8日と9日)で参加した。1回目は歩を早めすぎて図書館内で迷い、8つの空欄を全て埋めるまでに至らなかったが、2回目は最後まで至ることが出来た。このように本パフォーマンスは参加者が途中で離脱せざるをえない場合も多々あるが、本稿ではパフォーマンスを完遂した場合を想定している。
【筆者略歴】
辻佐保子(つじ・さほこ)
1987年生。日本学術振興会特別研究員。早稲田大学文学研究科博士後期課程在籍(表象・メディア論コース)。研究対象はアメリカン・ミュージカルとミュージカル映画。ニューヨーク市立大学マーティン・E・セーガル演劇センターにて客員研究員。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ta/tsuji-sahoko/
【上演記録】
GH( )ST
2014年10月8日-9日(ニューヨーク市立大学 ミナ・リース図書館)
ニューヨーク市立大学 第11回演劇フェスティバル プレリュード 参加作品
作・演出:エヴァ・フォン・シュワインツ
主催:ニューヨーク市立大学 マーティン・E・セーガル演劇センター
参加費:無料(事前登録)