◎物語的想像力の場としての中東
水牛健太郎
舞台はカナダのモントリオール。中東系移民の女性ナワル・マルワン(麻実れい)が死に、公証人エルミル・ルベル(中嶋しゅう)が子ども2人を呼んで、遺言を伝える。それは、彼らの父と兄を探し出して手紙を渡してほしいという内容。双子の娘ジャンヌ(栗田桃子)と息子シモン(小柳友)は、これまで母親に過去の話を聞かされておらず、戸惑う。しかし、エルミルの説得もあり、まずジャンヌが、次いでシモンが中東へと旅立つ。それは父や兄を探すと同時に、祖国の内戦に翻弄された母の過去を知る旅ともなっていく。
「炎 アンサンディ」はレバノン出身の劇作家ワジディ・ムワワドの作品だ。作品中に特定の国名は出てこないが、レバノン内戦を題材にしたものであることは、まず間違いない。作品には、内戦の様々なエピソードが出てくる。難民の乗ったバスへの銃撃、処刑される3人の子どものうち1人だけ助けると言われ、指名するよう迫られた母親の話、難民キャンプでの虐殺事件などだ。
そうしたことから、この作品を、中東出身の劇作家が現地の悲惨な状況をリアルに描き出したものとして理解するのが自然かもしれない。作者ムワワドはレバノン出身者として「向こう側」に属しており、その立場から先進国(「こちら側」)に住む私たちに「中東の現実」を教えてくれるのだと。
しかし、私はむしろ、逆なのかもしれないと感じた。つまり、作者ムワワドにとっても、リアルなのは中東ではなくて先進国での暮らしではないか。そして、中東は彼の物語的想像力が飛翔する、非日常の場なのではないか、ということだ。
ウィキペディアによればムワワドは8歳までレバノンにおり、その後家族とともにフランスに亡命、次いでカナダに移住した。レバノンについて書くとき、彼は確かに、自分や家族の体験を生かすことができただろう。周囲の親戚や知人に尋ねることもできるし、戯曲を書くにあたってはリサーチも行っただろう。多くのエピソードは、実際にあった話に基づいていると感じられ、その範囲においてリアルなものだとは言える。
だが、この作品の印象を決定づけるのは、そうした「リアルな」エピソードではなく、劇の最後に明かされる、ある出来事だ(それをここで明かすことはしない。公演は終わったし、再演の予定もないようだが、それでもなお、みだりに公にすべきでないと感じさせるものがあるからだ)。それは、取材によるものというよりは、おそらくはギリシャ神話の「オイディプス王」に基づいて着想されたものだ。もちろん、レバノン内戦においてそうした出来事が一切起きなかったとは言えない。何かが起きなかったことを証明することは難しいからだ。だが、作品の中のほかのエピソードに比べると、単に確率の問題としても、「なかなかありそうにない話」だとは言える。
「オイディプス王」はまさに神話的な物語だ。忌まわしい出来事だが、それだけに私たちの日常を超えた特別な意味を帯びている。ムワワドはそのような物語が起こりうる特別な場として、内戦下のレバノンを設定していることになる。要するに、そこはムワワドにとっても決してリアルな場ではないのだ。物語的想像力の飛翔する神話的空間なのである。
それは、主人公ナワルの子であるジャンヌとシモンを見ていても分かる。ジャンヌは数学を専攻する大学院生、シモンはアマチュアのボクサーだが、彼ら2人のモントリオールでの生活はどこか殺伐としている。潤いがなく、人生の意味を感じるような充実した状況ではないことは確かだ。おそらくはこの2人の姿にこそ、移民の子である作者ムワワドがカナダで成長する間に感じてきたリアルが投影されている。その2人が中東に出かけ、母親のルーツを探り、自分たちが何者であるかを知ることで、生き生きしてくる。非日常に触れ、ある種の再生を果たす。自らのルーツの地に神話性を加味することによって、その魅力は一層増してくるのだ。
私はどうして、こんな嫌がらせみたいなことを書いているのか。作者ムワワドのこうした想像力の働き方に、気になるものがあるからだ。退屈で何も起こらない先進国の日常に、第三世界の現実を対比する。そこには悲惨なことがあふれているが、その代償として、日常を超えた意味が感じられる。こうした感じ方は、人をどこに連れて行くことになるのか。生きる意味を探すために、第三世界へと赴く人を生み出すことになるだろう。
先ごろ、北海道大学の学生がイスラム国に加わろうとして逮捕された。多くの人は、「軽い気持ち」で戦闘が行われている地域に赴こうとした学生の浅はかさを非難した。私はこの学生を非難できない。彼が本当に何を考えていたかは分からないのだが、日常に埋もれていく自分をなんとかしたい気持ちなら、私にもあるからだ。それを「軽い気持ち」だとは私は思わない。
彼は、第三世界の戦火の中でなら、自分の生きる意味(あるいは、同じことだが、死ぬ意味)を見つけられると思ったのではないか。私は同じようには考えないが、それは私が疑り深い人間だからで、うっかりとでもそう思ってしまう気持ちは、分からないでもないのだ。
もちろん、日本だけの問題ではない。自国で生きる意味を見いだせない人は、どの先進国にもいる。カナダを含む欧米各国からは数百人単位の若者がイスラム国に参加しているという。中東系移民の子弟が多いからなのだが、おそらくは、彼らが先進国での暮らしに意味を見つけられないでいるからだ。
人は物語を求める。非日常を求める。平和な日常の中に意味を見いだせなければ、それを抜け出してでも、あるいは破壊してでも、生きる意味を求める。ワジディ・ムワワドもそんな1人ではないか。そうだとすれば、「炎 アンサンディ」を見て中東の現状の一端を知ったと思うのは、決定的に間違っている。私たちが見せられたのはムワワドが設定した神話的空間としての中東だからだ。「日常からの逃走」のために、おあつらえ向きにしつらえられた、実際にはどこにもない世界なのだ。
ムワワドはもちろん、レバノン系移民の自分がこの物語を提出すれば、それが「リアルな物語」として受け取られることを知っていて、その立場を戦略的に利用している。しかし、少なくとも私は、それに乗る気はない。
実際にレバノンで生きる人たちがこの作品を見たら、どう思うのだろうか。これが自分たちの物語だとは思わないのではないか? 私にはそれが、いちばん気になる。
【筆者略歴】
水牛健太郎(みずうし・けんたろう)
ワンダーランドスタッフ。1967年12月静岡県清水市(現静岡市)生まれ。高校卒業まで福井県で育つ。東京大学法学部卒業後、新聞社勤務、米国留学(経済学修士号取得)を経て、2005 年、村上春樹論が第48回群像新人文学賞評論部門優秀作となり、文芸評論家としてデビュー。演劇評論は2007年から。2014年9月より、慶應義塾大学文学部で非常勤講師。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ma/mizuushi-kentaro
【上演記録】
世田谷パブリックシアター「炎―アンサンディ」
シアタートラム(2014年9月28日‐10月15日)
作/ワジディ・ムワワド
翻訳/藤井慎太郎
演出/上村聡史
出演/麻実れい/栗田桃子/小柳友/中村彰男/那須佐代子/中嶋しゅう/岡本健一
主催/公益財団法人せたがや文化財団
企画・制作/世田谷パブリックシアター
後援/在日フランス大使館/アンスティチュ・フランセ日本/ケベック州政府在日事務所/世田谷区
協賛/トヨタ自動車株式会社/東邦ホールディングス株式会社/Bloomberg
協力/東京急行電鉄
チケット料金
一般 6,500円
高校生以下 3,250円(世田谷パブリックシアターチケットセンター店頭&電話予約のみ取扱い、年齢確認できるものを要提示)
U24 3,250円(世田谷パブリックシアターチケットセンターにて要事前登録、登録時年齢確認できるもの要提示、前売り・オンラインのみ取扱い、枚数限定)
当日立見は5,500円
友の会会員割引 6,000円
せたがやアーツカード会員割引 6,300円