◎濃密で軽やかな会話劇
片山幹生
大阪を中心に活躍する劇作家、横山拓也の作品を見るのはこれが三本目だ。「エダニク」、「目頭を押さえた」、そして今回の「流れんな」。いずれもシンプルで短いタイトルではあるが、「いったいどんな作品なのだろう?」とこちらの意識に妙なひっかかりを残す。どこか演劇作品のタイトルらしく感じられない。「エダニク」、「目頭を押さえた」のタイトルは、実際に舞台を見ると腑に落ちた。「なるほど」と思わずうなる仕掛けがタイトルにも施されている。
「流れんな」というタイトルを目にしたとき、いくつかの疑問が思い浮かんだ。この言葉はいったいどのようなイントネーションで発音されるのだろうか? 命令調の強い調子で「流れんな!」だろうか? あるいは命令ではあるけれども、「流れて欲しくない」という悲鳴だろうか? あきらめあるいは苛立ちのこもった「流れんなぁ」だろうか? またこの「流れんな」の主語はいったい何なのだろうか?
終幕時に「流れんな」というタイトルは、私が思い浮かべていたあらゆるイントネーションで発話されうることがわかった。そしてこの動詞にかかる主語はひとつではない。「流れんな」に重なる複数のイメージがもたらす豊かな余韻が、じわじわと私の心に広がっていった。
海辺の田舎町の食堂、四十路独身女性
開場となり客席に入る。舞台上には、暗い煤けた灰色の古ぼけた小屋の室内を再現した美術が、客席に対して斜めに設置されている。いやそれは小屋ではなかった。暗い照明のなか、目を凝らしてよく見るとそれは海辺の食堂内部であることがわかる。波の音とピアノ音楽のBGMが流れている。開演時間が近づくにつれ、徐々にゆっくりと舞台が明るくなっていく。
開演直前に一度暗転する。暗闇のなかにぼんやりと情景が浮かび上がる。中学生の女の子が下手側から入ってくる。学校から帰ってきたようだ。舞台中央奥にある扉を開けるとそこはトイレで、彼女の母親が便座に座ったまま、いびきをかいて眠っていた。女の子は母親に声をかけるが目を覚まさない。女の子は毛布を母親に掛けて退場する。波の音がまた大きくなり、舞台が再び暗転したあと、明るくなる。場所は同じだが中学生だった睦美は39歳になっている。26年の時間が過ぎていた。
食堂では中年男二人が話していた。舞台は平貝(たいらぎ)という貝の漁で栄えた小さな港町、久寿尾(くずお)にあるさびれた食堂である。
最初のうちは「タイラギ」、「クズオ」が一体何なのかわからず、二人の男が話している内容がよくわからなかった。聞きなれない言葉で当惑させられることで、舞台内部の世界へと引き込まれてしまう。この古びた食堂の看板娘、睦美をめぐる状況が二人の会話を通じて徐々に明らかにされる。こうした物語についての背景の説明は、情報のノイズと欠落を適度に含んだ関西弁の現代口語会話のようなやり方で、巧妙にそして自然に行われる。
睦美は39歳で独身である。彼女の父親は肝硬変のため入院中で食堂にはいない。その容態は思わしくないようだ。26年前、脳梗塞で他界した母親の死に睦美は責任を感じている。26年前、学校からの帰宅時、母親が座っていた店のトイレに、罪の意識のため、入ることができなくなった。しかしそのトイレは店の中央にずっと設置されたままで、そのどっしりとした存在は彼女を苦しめ続けている。店にいた男の一人、司は睦美の長馴染みの貝漁師で、彼も独身。睦美に恋心を抱いている。もうひとりの男、駒田はこの漁師町にある食品加工会社の社員で、この町の名産の貝、タイラギを使った町おこしプロジェクトを企画している。彼は既婚だが、睦美と不倫関係にある。
この三角関係に睦美の妹、サツキ、その夫の翔(かける)の夫婦が絡み、物語が錯綜する。サツキは睦美より10歳以上若い、年の離れた妹だ。母親の死後、睦美が母親代わりで面倒を見てきた。
詰め込みすぎだが、後味は軽い
睦美という存在に40歳目前の独身女性が抱える寄る辺なさ、閉塞感が集約されている。母親が他界したあと、父親とふたりで彼女は日々けなげに、母親代わりを引き受け、家族の面倒を見てきたに違いない。澱んだ田舎町で将来の希望を見いだせずに年齢を重ねてきたが、睦美はこのような状況でも崩れることなく、自分を律し、よい姉の役割を演じてきた。しかし彼女には、年月を重ねるなか、すっきりと流されないまま、積もりたまるさまざまな心の澱がある。睦美、司、駒田、サツキ、翔の五人の会話のなかで、睦美が抱えていた鬱屈が次々と明らかになる。
サツキと翔が登場して以降の五人の人間の会話のやりとりは、密度が高く、スリリングな面白さに満ちている。一つの言葉がきっかけで話題が転換し、その話題によって五人の関係性が次々と変化していく。恋愛、不倫、結婚、親子、姉妹、子供、母親、妊娠、出生前診断、病気、生体肝移植、公害、経済、補償金、生活不安、神経科学、記憶など、この五人の会話の中では、人が日常のなかで抱えうる様々な問題、悩みが話題になる。これはいくらなんでも一本の戯曲にいろいろなテーマを詰め込み過ぎている。作者の作為が見えすぎていて、リアリティからは遠ざかっている。しかし話題がテンポ良く次々と連鎖していくジェットコースターのような展開は圧巻だ。この「やりすぎ」はおそらく作者が意図的に導入したものだろう。ディアローグのアクロバットは、観客だけでなく、作者、演出家、俳優たちも楽しんでいたはずだ。
クールで乾いた演出が脚本の欠陥を補っており、過剰な情報が詰め込まれている濃厚な会話劇にも関わらず、作品の印象は軽妙ですっきりとしていて、重苦しさとは無縁だ。多様な話題はそれぞれが伏線となり、劇構造のなかで論理的につながっていく。緊迫したやりとりのなかで関西弁のボケと突っ込みを絶妙のタイミングで入れることで、心地よく、軽やかなリズムを作り出している。深刻な話題で沈みこむ寸前で、すっと浮上する。言葉ひとつで形勢が逆転する心理バトルの精妙さがこの作品の大きな魅力となっている。
睦美に集約された地方都市に住む四十路独身女性の閉塞的で明るい展望のない状況を、トイレという尾籠で品のないアイテムを使って象徴するという逆説は、関西の大衆的な笑いを想起させる。
この大胆な対比によって、救いのない状況を泣き笑いしながら引き受け、それでも生きていく市井の人間の諦念と逞しさが浮かび上がった。最後の場面、睦美に空虚なきれいごとの別れのことばを述べる不倫相手の駒田に、睦美がテーブルの上の割り箸の束をつかんで思い切り投げつける場面はとりわけ印象的だった。
この後、睦美はおそらく数十年ぶりに店のトイレに入り、そのなかでむせび泣く。トイレの水を流す音がするが、睦美の悲しみと絶望は流れ去ってはくれない。睦美は悲しみと絶望を引きずりつつ、明日からまた彼女の日常を生き続けるだろう。
軽やかで密度の高いせりふのやりとりのドライブ感、関西弁のひょうひょうとした響きとリズムがもたらすユーモア、変化に富んだスリリングな展開。多彩で鮮やかな劇作上の仕掛けが印象的な横山拓也の作品では、優れたウェルメイド・プレイの醍醐味を楽しむことができる。その作品は演劇初心者からマニアックな小劇場ファンまで幅広い層に受け入れられる間口の広さがある。
しかし演劇的誇張を廃した関西弁版での現代口語演劇的なリアリズムの選択と作品設定の目の付け所のユニークさは、いわゆる「ウェルメイド・プレイ」とは異なるちょっとシニカルで屈折した味わいを、iakuの作品にもたらしている。横山が扱うのは庶民的で日常的な世界だ。しかしそこは、大都市住民にとっては盲点となる非常に地味で意外性のある〈日常のなかの辺境〉のような場所である。丁寧な取材に基づき構築された横山作品の世界には、ドラマの発生に必要な状況がしっかりと書き込まれている。ケレンじみた仕掛とは無縁なオーソドックスな台詞劇なのだが、そこで展開する人間関係の提示のしかたはスマートで古くささを感じない。
【著者略歴】
片山幹生(かたやま・みきお)
1967年生まれ。兵庫県出身。早稲田大学ほかで非常勤講師。専門はフランス文学で、研究分野は中世フランスの演劇および叙情詩。2012年より《ワンダーランド》スタッフ。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ka/katayama-mikio/
【上演記録】
iaku「流れんな」
会場:三鷹市芸術文化センター星のホール(2014年10月25日〜11月2日)
作:横山拓也
演出:上田一軒
出演:峯素子(遊気舎) 橋爪未萠里(劇団赤鬼) 緒方晋(The Stone Age) 酒井善史(ヨーロッパ企画) 北村守(スクエア)
舞台監督:武吉浩二(Quantum Leap*)
舞台美術:柴田隆弘
照明:岡田潤之
音響:三宅住絵(Quantum Leap*)
演出助手:北山佳吾(iaku)
宣伝美術・webデザイン:下元浩人(81 EIGTY ONE)
宣伝写真:堀川高志(kutowans studio)
制作:笠原希(iaku/ライトアイ)
企画・製作:iaku
助成:公益財団法人アサヒグループ芸術文化財団
東京公演主催:(公財)三鷹市芸術文化振興財団
MITAKA ”Next”Selection15th 参加作品
チケット料金(全席自由席・日時指定・整理番号付き)
前売:財団友の会会員2,200円 / 一般2,500円
当日:財団友の会会員2,500円 / 一般2,800円
学生:前売・当日とも1,500円(当日学生証拝見)
高校生以下:前売・当日とも1,000円(当日学生証拝見)