2010年代演劇のイニシアチブ
-海外の会員制のことでいくつかお話をうかがったんですが、海外の場合は公的な費用が出て、劇場が劇団を抱えて、レパートリー制で公演を回して、地域の人たちが見に来る。やはり高齢者の人が多いけど、その中で実験的な作品も交えていくと聞いています。日本の場合には、専属の劇団を抱えている劇場は、静岡と尼崎(ピッコロシアター)ですよね。
平田 あとは、りゅーとぴあ(新潟市民芸術文化会館)のダンス、水戸はちょっと不活発になってしまいましたね。
-アゴラ劇場と青年団は稀有なケースだと思うんですが、首都圏で1000とも2000とも言われる大半の劇団は、ある意味で自由な活動をしている。演劇をやりたいと思ったとき、何人かが働いてお金貯めると公演ができてしまう。こういう公平性が日本では保証されているし、お客さんも来るし、自分たちでメディアに販売も可能です。テレビに抜けるコースもないわけではない。こういう現状、実はそんなに悪くないと言えませんか。淘汰はもちろんされる。それは誰かが勝手に決めるのではなく、暴力的な市場原理と、多少の運が入る。これはどこでも、あり得る話でしょう。もう少し、そういうある種の公平性を後押ししたりすくい上げるような仕掛けがあれば結構面白い活動になるのかなと思っているんですが。音楽もそうですね。
平田 その通りだと思います。ただし、三つぐらい問題があるんですね。
一つは地域間格差の問題ですね。いまおっしゃったような市場原理が働くのが東京だけになっている。大阪ですら無理。だから東京に出て行くしかない。誰でもやれる状況と言っても、ちょっと才能があれば、お客さんが1000人入るんであれば、小劇場はやれるんですよ。300万円集められるんですから。でも大阪はいま150人ぐらいしかお客さんが来ない劇団も多い。お笑い系以外は、これではやれない。そうすると、その間の1000人に至るまでの道のりを、どこかがサポートしてあげないといけないだろうと。これが一つ。
もう一つは少子化も含めて、そういう若者依存の無茶なやり方がいつまでも続くのかどうかという問題です。作家はハングリーじゃなきゃだめだというのは中進国までの幻想だって関川夏央が言っているんですけど、日本の小劇場はまだ中進国の体制です。日本はこれから、成熟と言えば聞こえはいいけど、衰退していくわけです。徐々に衰退していく社会の中で、今までのような青春物語が通用するのかどうか。そのことと、岡田君(岡田利規)や前田君(前田司郎)の登場はリンクしているところがある。でも、この間岩波の「図書」(注10)で高橋源一郎さんと対談をして、その時も言ったんですが、そこに演劇の矛盾があって、演劇は青春に頼らざるを得ないところがあるわけですよ。要するに、劇団はそれ単体では原理的に金にならないから、若い人たちをだまさない限り絶対に存続しない。いつもずーっと文化大革命しているようなもんだから。「毛沢東だ!」って言って若者をついてこさせないといけない。
少なくともぼくの活動の中に新しいところがあったとすれば、「だましているんだ」ということを、はっきり言ったことでしょう。それが革新的だったと思うんです。それまでは、だましてないことにしていたし、主宰者も騙していないと思い込んでいた。でも、劇団というのは、若者をだましてるんだと。だましていることを前提にして、お互いに納得ずくで契約を結ばせようというところまではきた。
もう一つ、高橋さんと話したのは、例えばポツドールの三浦君(三浦大輔)は才能はあるでしょう。あれは要するに「全部セックスじゃんか」ってことですよね。それはいいんだけれども、ところがあのお芝居作るのは、ものすごく大変だから、2ヵ月くらい一生懸命稽古しないとできないですよね。その間には、「しょせんセックスじゃんか」では済まないもっといろいろなことが出てくるわけです。人間関係とか経済のことも含めて。そうするとぼくと高橋さんの間では、穂村弘さんの短歌の話がよく出るんだけれども、短歌はいちばん個人でできるから、穂村さんはずっとサラリーマンやりながら続けられたんだけれども、劇団はそうはいかない。どうしても生を肯定するとか、人生とか青春にポジティブにならざるを得ない。ニヒリズムじゃやっていけない部分がある。その矛盾を解決したやつが多分、2010年代の演劇のイニシアチブを取るとぼくは思っています。何らかの手段で解決する、どんな手段かは分からないですけど。前田君、岡田君はその予兆なんだと思う。でも結構彼ら、まだ現場では体育会系なんです。ぼくなんかより全然、精神論も多いし。それがどうなっていくのかなっていうのは関心がありますね。
もう一つは、例えば、ぼくは東南アジアの大学でも教えたことがあって、そこでよく話してきたのは、サッカーをよく例にするんですけど、アフリカのチームっていうのは、オリンピックとかU20では勝ったことがあるけど、ワールドカップではあまり勝てない。
-カメルーンが確かイタリア大会(1990年)でベスト8になったのが最高かな。
平田 何でかっていうとワールドカップはマーケットでもあるから、ヨーロッパのプレミアリーグとか、セリエAに自分を売り出す場になっちゃう。チームへの忠誠心よりも個人技を見せてしまう、無意識にですが。ぼくが関西で「月の岬」を作ったときも同じ話をしたんですね。関西はロングランがない。再演もほとんどない。一方で、東京よりもテレビに出やすいんですよ。関西ローカルの番組がたくさんあるから。そうするとどうしても、個人プレー、悪目立ちが出やすいんじゃないか。ぼくに忠誠心を持つ必要はないけれども、海外では「作品に対するロイヤリティー」という言葉をよく使うんですが、俳優が個人プレーに走らないで、作品のアンサンブルを重視するかということです。例えばぼくが海外でオーディションをして、向こうの芸術監督と話すときでも、「彼は作品に対するロイヤリティーが高いから外国の演出家ともうまくやれるよ」というボキャブラリーでよく使うんです。それが育たないと、全体として、いい作品は生まれてこない。それは経済と密接に結びついているんですね。瞬間的に面白い作品を作るのはいまの東京の小劇場シーンでもできると思うし、それはそれでいいことなんだけども、長く、そして国境を越えても上演されるような作品を作るためには経済基盤を整え、俳優たちの生活を保証しないといけない。
-その場合に公の生活保障は、どうしても作品の内容に影響してくるんじゃないですか、いまの日本では。公共のお金をもらっているということを逆手に取るようなたくましさがなければならないとは言えるけれども、どこかで影響を受けて演劇の質そのものが変わっていく危険はありませんか。
平田 それは表現の自由というような?
-そうです。
平田 それはもちろんあるでしょう。でも、いまじゃあ何がいちばん制約かと言えば、市場原理の方が強いんですよ。例えば、これ劇作家協会が出版している本(注11)ですけれども、向こうの、こういった劇作の教科書の一つに、「登場人物は4人以内にしなさい、そうでないと上演されないから」と書いてあります。こっちの方が思想統制じゃないですか。実際にいまロンドンでは、ロイヤル・シェークスピア劇団(RSC)以外はほとんど、シェークスピア作品を上演できないと聞きます。登場人物が多すぎるから。そうすると、民主主義国家においては、劇作家は最初から4人以内にしなさいという市場原理の圧力の方が、政府の干渉よりも、私たちの創作を抑圧している。そちらを整える方が急務なんです。映画なんかまさにそうでしょう。映画はスポンサーの意向じゃないと絶対に撮れないから。
(注10)高橋源一郎・平田オリザ「《対談》追い風ゼロのリアル」(「図書」2009年7月号、岩波書店)
(注11)デヴィッド・カーター著 松田弘子訳『はじめての劇作-戯曲の書き方レッスン』第3章「キャラクター」(日本劇作家協会、2003年。ブロンズ新社発売 )
真善美からの撤退-現代演劇の新しい芽
-先ほど話に出た岡田さん、前田さんや三浦さんに、現代演劇の新しい芽と可能性があるというのはどういう意味でしょう。もう少し展開してもらえますか。
平田 90年代に太田省吾さんとよく話をして、真善美といずれの価値観からも距離を置く、作品自体が価値判断を下さずに、価値判断は観客にゆだねるというところまでは合意するんです。真と善は比較的簡単ですね。これが真理だと言わない、道徳を押し付けないということはできる。では演劇作品が美からも撤退できるのかというのをいつも議論していました。美から撤退する勇気はとても大変なことです。客観的に見て、80~90年代の作品に比べ、岡田君や前田君、特に前田君の作品は美から相当撤退していると思う。そうなんだけれども、先ほども言ったように、あの作品を作るためにはどうしても皆が集まって、がんばって作らなきゃいけない。そのがんばる原動力をどこに置くのか。そこがすごく難しい。作品自体は非常に低温というかエネルギーの低いものかもしれないけれど、それを作るためにはどうしてもエネルギッシュにならざるを得ない。そこのところをどうやってすり抜けていくのかに、ぼく個人は、いま、いちばん関心がある。彼らがどうするのかな、というところですね。
-それが先ほどおっしゃった矛盾ですよね。
平田 そうです。
-そう考えると、演劇がいまを表現したり何かを伝えたりするツールとするならば、平田さんの考える演劇ですら、いまを表現するツールとしては別に演劇でなくてもいい、演劇に限らないのではないかと考えてしまうんですが。
平田 何を演劇と考えるかでしょうね。例えば先日、佐藤信さんが座・高円寺の開館記念で演劇をやらずに絵本展を開きました。子どもたちが1000冊の絵本を、床に座り込んで読んでいる。佐藤さんは「これがぼくの考える演劇だ」というふうに言う。それは一つの見識だとぼくは思います。演出家ってのは非常に特殊な存在なんです。なぜ演出家が芸術監督になり、さらには文化政策まで口を出さねばいけないかというと、演出家は製作者と一緒に劇場を選ぶ、そしてどんな観客に見せるか考えて作品を作るわけです。すると意識は当然に外側、外側へと向く。お客さんは劇場に来るまでにどういう道のりで来るのかとか、帰りはどういう飲み屋さんに入るのかとか、演出家は本能的に、そういうことも演出したくなるんです。演出欲っていうのがあって、世界の風景を支配したい。突き詰めると、そこまで行く。そうすると当然、どんな社会で私たちは演劇をしたいのかということを考えざるを得ないんです、演出家である以上は。だから、そういう政治的な感覚は常にあると思う。どこまでが演劇なのか。私にとっての演劇ってどこまでが演劇なのかってのも常にある。
一方で、そこが人間の矛盾を抱えている部分で、ぼくは特に劇作家でもあるので、劇作家としての私は本当に部屋にこもって本を読み、原稿をこつこつ書くことが喜びなんですね。そういう側面もある。それで個人としてバランスを保っているといえば保っているし、矛盾しているといえば矛盾している。
-真善美からの撤退ということで、美からも撤退してしまった場合に、社会の側として、そうしたものにお金を出さなければならないのかという疑問も当然生じてくると思うんですね。それでもなお演劇に価値があるという場合に、その価値とはどういうものなのかということが問われてくると思いますし。太田さんとの議論では、平田さんはどちらだったんですか。
平田 ぼくはとんがってたから、美からも撤退すると言って太田さんを困らせた。
-平田さんの作品で、美から撤退した作品はないのではないですか。
平田 だから無理なんです(笑)現実にはね。口で言うのは簡単ですが、でも無理なんです。ただ、80年代から比べたら相当撤退した。
-最近の平田さんの作品は…。
平田 いろいろな作品を書きますからね。その中で、どういう撤退の仕方があるかを考える。後退戦というのは難しいんです。
それから、さっきも言ったように、理屈では絶対的なことが言えるけれども、演劇というのは、あくまで現実的、相対的なものですから。10年もしたら、岡田君の作品も、前田君の作品も、同じことが言われるでしょう。前田君の作品なんか美しいシーンがたくさんある。でもそれは、過去に比べると物凄くだらしなくも見えるわけじゃないですか。あんなだらしない作品は80年代にはなかったでしょう。ああいうだらしなさを描くっていうのはなかった。
-それは美からの撤退ではなくて、新しい美なんじゃないですか。
平田 そうかもしれない。それを美と呼ぶなら。それも、分からないですね。ただ、これが美だと押し付けるような美を描くことは止めようというのは、私以降の作家には共通してあると思っています。
-現代美術や現代音楽で古くから議論されたどってきたことを、平田さんが提起しなおしているのではないですか。
平田 その議論の仕方が演劇はいつもちょっとぬるいんでしょうね。やっぱり美術や音楽の方が議論が先鋭的になりますよね。ただ、しょうがないんですよ。いろんな人間が集まってやるんで。緩くなっちゃうんです。その緩さのいいところもあるんで、あまりそこは突き詰めないで(笑)。
-美術や音楽は、ダンスもそうですけど、本当にコンセプトで突き抜けるってことが実現できちゃうんですよ。
平田 そう、音楽や美術は突き抜けてやって、その面白さがあるんだけど、演劇は突き抜けてやったやつの作品はたいてい詰まんない(笑)。できないんだから、一人では。そいつがいくら頭の中で思っていても、そんなことできないんですもん。それをどうやって伝えるとかいう、その時点でちょっとずつ緩くなっちゃうし、ちょっとずつ功利的になっていくし、ちょっとずつ建設的にもなっていく。そこをどうするかってことですよね。実現できなかったら何にもならない世界だから、舞台の世界は。
現代口語演劇の行方
-継承の詳しい点はまだうかがえる段階じゃないと思うんですが、以前劇団の意義ということで、「新しい様式を生み出してそれを次世代に継承可能なまでに発展させる」という目的意識が劇団の前提であると書いています。まだまだあと何年も活動されると思いますが、やがて承継ということを考えるときに、この俗にいう「静かな演劇」というものを様式としてさらに次世代に継承していくということが問題意識にあるんでしょうか。
平田 そのことは、そう書いてはいますが、そんなに強くは望んでないですね。勝手に、なるようになっていけばいいと思っている。ただもちろん、前田君、三浦君、岡田君とか松井や多田たちが出てきてくれたことは、掛け値なしにありがたい。「うれしい」という意味での「ありがたい」ですね。彼らの登場で、私の仕事が相対化されたことは間違いない。で、もう、あとは勝手にどんどん、好きなようになっていくでしょうから、それは構わない。ある意味では、「継承可能なまでに発展」したと思っています。
現代口語演劇はまだ、一般には、そんなに定着していないと思っていますが、一つの大きな功績は教育面にあると思います。これが出てきたことによって、演劇を国語教育に取り入れやすくなったことは間違いないんです。子どもにとってしゃべりやすいんですよ、現代口語演劇の方が。それから例えば障害を持った方はしゃべりやすい。
さらにいちばんはっきりしているのは日本語教育です。いま日本語教育でも毎年のように外国から学会の基調講演に呼ばれたり、ワークショップを開いています。ぼくの作品が日本語教育の教材に使われてもいる。今までの演劇の教材だと使えないんですね。口語体の教材として、今までの演劇の台本よりは優れているということだと思います。そういった波及効果はこれからもあるでしょう。
劇団に関してはぼくは10年以上前から、劇団代表っていうのが全部の仕事の中でいちばん疲れるので、これは55歳前後で辞めさせてもらうって言っています。もうあと10年弱しかないので、今年度の新人募集が最後か、あと1回ぐらいになると思います。それ以上責任持てないので。ただ、若い俳優は、レパートリーを維持するためにどうしても必要なので、何か別の方法で、作品ごとにオーディションとかはするかもしれませんけど。で、ぼくが55歳になる前後で青年団は多分発展的に解消して、まったくゼロにするんではなくて、小さくして、アゴラを中心として、青年団も一つのリンクになる。いまいる俳優たちもそれぞれの、デスロックとかサンプルとかの劇団に所属するけど、俳優相互でアゴラを中心にして、自由にやりとりをする。
要するに青年団のいいところは、ある程度母数が大きいので、再演とかが俳優の負荷をあまりかけずにできる。再演しようとすると、拘束が厳しくなるんですね。ところが、いま言ったようにすればちょっとずつ入れ替えることができる。最近流行っている福岡伸一さんでしたっけ、あの人が書いているいくつかのこと、例えば生命体は細胞が入れ替わりながら維持されるんだという。それから、ある程度規模が大きくなければならないということも書いていて、ある細胞があって、それが異常な行動を起こすのが、平方根で決まるらしいんですね。10細胞があると、√10だから、3~4の細胞が変な動きをするとする。3割から4割です。ところが100細胞があると、√100だから、10ぐらいしか変な動きをしないから、リスクが1割に減る。いま青年団とアゴラ劇場を合わせると、スタッフも入れて100人ぐらいの集団なんですが、これぐらいいると、1人が(文化庁の芸術家在外研修制度によって)在外研修に行こうとすれば簡単に行ける。個人のイレギュラーな行動が起こっても、全体に支障を来さないわけです。小劇場の劇団がかわいそうなのは、制作者が一人在研に行っちゃうとそれで劇団活動がストップしちゃうんですね。
それから、人数が多いと、キャスティングなども入れ替わりが可能です。ある程度出入り可能な集合体を今までも作ってきたので、これをもうちょっと緩い形でソフトランディングさせることがこの10年の、ぼくの大きな仕事ですね。
演出家は皆さん70代までやってますから、演出家個人としての仕事はもうちょっと長くできると思います。多分劇作家は最後まで、死ぬまで仕事はできると思う。でも劇作家は新しい作品を作ることはできるけど、60歳を過ぎて新しい様式を作るってことはあり得ないでしょうから、劇団の必要はそんなにはないんじゃないかな、ということですね。
-様式は特定の後継者でなくて、ある程度集団的というか、いろいろな若い人にいろいろな形で受け継がれているんだっていうことですか。
平田 伝統芸能じゃないし、現代口語演劇というものが社会に必要がなくなれば廃れるんでしょうから、それを守ろうっていう気持ちはないですね。現代口語演劇というのは、方法というより、思考の態度です。だから、それをそのまま続けてくれという気持ちはまったくない。岡田さんなんかは、すでに、その態度を、もっとも正統的に受け継いでくれていると思っています。
ただ、劇作家の野望は少し複雑で、100年後にもどこかの国で上演されるのが劇作家の喜びなんです。演出家は非常に即物的で、いまどれだけ広がっていくかというのに対しての欲望ですが、劇作家の欲望は時空を超えているところがある。全然違う方向なんですね。
子どもがいても活動可能な劇団へ-セクハラに厳しい基準も
-あとは一つ。途中で飛ばしてしまったのですが、劇団の中で人間関係が厄介であることはご存知の通りですよね。桜美林で学生の相談を受ける以上に、劇団の人間関係をどうするか、劇団員同士、劇団員と主宰の関係。役を巡る問題もあるだろうし、異性関係もいろいろ厄介。そういうのはどういう基準で扱ってきたんですか。
平田 まず、規約にもあります。個人のことに介入はしない。恋愛も構わない。ただ劇団の活動に支障をきたす場合にはぼくが判断する。もう、そういうことはしょっちゅうです。いま今多いのはセクハラ・パワハラ問題。年齢差も大きくなりましたんで、これは非常に厳しい規約を、多分、日本の劇団で唯一、もっとも厳しい規約を持っています。実際に処分もしています、何人か。かつての演劇界だったらばまったく問題なかったようなことでも、うちの場合はほぼ大学並みの基準で厳しく処罰しますし、そのことについてある程度被害者側から言いやすい環境も作りました。
こういった問題に関しては、私が直轄で処理します。そこから逃げない、面倒くさがらないということだけは、自分に言い聞かせています。
-かつて問題にならなかったというのは。
平田 だってセクハラなんか普通だったわけですから、演劇界では。
-よく恋愛ご法度と言っておきながら、主宰者自身がその規則を破って恥じないというケースも耳にしますね。
平田 そんなことは無理なんで、うちは劇団員同士の結婚もすごく多いですし。それから子どもも非常に多いですね、うちの劇団は。だから、まだまだ大変ですけど、小劇場で唯一、出産しても活動を続けられる劇団だと思っています。これは、意外と大事なことなんです。例えばね、出産しても続けられるとか、在外研修に行けるとか、そういうことはとても大事で、だからうちに人材が集まってくるんだと思っています。
こういうことを考える劇団も多分、初めてだった。一般企業ならリクルートってことを大事にして、総合的な戦略で企業イメージを確立するじゃないですか。だけど、日本の劇団は観客に向けてしかイメージ戦略をしない。本来は、組織である以上、有能な人材に集まってきてもらうにはどうしたらいいかってことを考えなきゃいけない。だから青年団では育児手当、育児休暇、子育てで子どもが中学生になるまでは一切の作業ノルマ免除とか、いろいろな規約があるわけです。
当初は劇団員から質問も出たんです、どうして子どもがいる人だけ優遇されるんですかと。そこには、いろいろな理由がある。一つは当然本人たちの保護ってことがあるし、社会的な責任がある。でもいちばん大きいのは実はリクルートなんだよと説明してきました。こういう環境を整えて、弱者にもいやすい場所を作ることが実は、いい人材が入ってくるんだってことを劇団員には説明してきた。
近代演劇の到達点とその先へ
-平田さんの著書を読むと、観客はだまされる対象と読める個所がいくつかある。それはそれでいいんですが、ピーター・ブルックじゃないですけど、見て、あるいは見られて初めて演劇という場ができるとすれば、見る側というか観客が演劇の大きい要素を担っているはずです。平田さんはどういう観客を想定し、また望んでいるんですか。
平田 劇団員と同じで、だまし-だまされる関係にある以上は、そのだます構造を知って見に来てもらいたい。それがフェアな関係だと思う。リテラシーという言葉も知らなかったころから、そのことははっきり言ってきた。演劇のリテラシーを身に着けてもらいたいし、身に着けるための仕事を自分はしてきたと思っているんです。『芸術立国論』の中でもいちばん言いたかったのはその点です。要するに、演劇の公共性に関していろんな説明をしています。芸術文化は大事だ、芸術文化行政やらなきゃいけない、これはぼくの仕事なんで、それはやりますと。だけど、その上で芸術の危険性があると思う。芸術文化がフランスみたいに本当に施策の中の大きな部分を占めるようになったときに、市民が芸術家に対して抗えなくなってしまうんじゃないか。要するに、市役所に大きなタペストリーを垂らしたときに、いい悪いを誰が判断するかということでもあるんです。その時に市民一人ひとりがそれはいいとか悪いとか、いまのレベルで、アニメの殿堂がいいとか悪いとか言っているレベルじゃなくて、一人ひとりが芸術について判断する力を、今後30年、50年かけて身に着けていかないと大変なことになりますよということを、いちばん言いたかったですね。そのことは、私のもう一つの仕事としてやっていきたいと思います。
あとはちょっと視点を変えて言うと、現代口語演劇を始めた時に二つ考えたことがあって、一つはこれすごい大きな鉱脈を掘り当てたけど、世間に出るのに時間がかかるだろうな。10年かかる。それをどうにか知恵を使って5年にしよう。もう一つは、これは客は来ないだろう、どうやっても増えないだろうと思いました。そう思いましたが、でも増えないのはおれたちの責任かなとも思ったんです。これは社会の方が間違っているんじゃないだろうかと。だとしたら、先ほどの演出家の欲望の話と同じで、この芝居を見に来るような社会に作り変えようと思った。それは比較的早い段階で思った。もちろん、いまでも思っています。
-さっきの「真善美から離れる」ことも含めて、平田さんの現代口語演劇に対するある種の批判として、見る観客が近代的な個人として想定されているのではないかという指摘はしばしばなされてきました。近代演劇の完成形をむしろ平田さんは求めているのではないかと。
平田 そのことも公言してきていて、「おれが近代だ」って言っているのに、どうして、それをあらためて批判するのか分からない。自分でも言っているんだからいいじゃんって感じですね。「おれが近代演劇で、おれ以降が現代演劇だ」って。その通りになったじゃないですか。分かりやすくなったじゃないですか。岡田君や三浦君が出てきて、あれ明らかにコンテンポラリーでしょう、別のジャンルから見れば。今まであいまいにしてきて、みんな自分が現代演劇だって思っていただけで、どう見たってあれは、みんな近代演劇の何かの模索だったんだと思うんですよ。だからぼくは、現代演劇じゃなくて近代演劇ですよ、近代演劇が到達できるのはここまでですよ、ここから先、ぼくはちょっとだけ現代演劇の可能性を示すことはできるかもしれないけど、後は次の世代のやることですよ、とずっと言ってきたつもりなんですけどね。
-わかりました。ただいろんな席でしゃべった中身としては何度か聞きましたが、それをまとめてきっちり書いていないのではありませんか。
平田 そうですね、あまり書いてなかったかもしれない。
-トークでの話が多かったと思いますね。
平田 ぼくが、純粋な演劇論の刊行をさぼっているってこともあるんですけど、『都市に祝祭はいらない』という書物を出した後、晩聲社が実質つぶれちゃったこと、新しいジャンルでより多くの人に読んでもらうために新書という形式で出版したことも影響してますね。演劇は、そんなに急にお客さんが増えなくてもいいけど、本は出すなら、売れる物を書きたい。『演劇入門』は六万部売れてるんですね。ぼくの芝居には6万人は来ないけど。
新書は雑誌と同じで、編集者の意向が非常に強い。題名だってぼくが付けたわけじゃない。『芸術立国論』はもともと『日本に文化政策なし』っていうのが最初の題名でしたから。
-うーん。でもその原題では、出版社の企画会は通らないですね。
平田 それは、中江兆民の「日本に哲学なし」の引用なんですけど。『芸術立国論』は気に入っていなかったんだけど、どうしてもと言われた。『演劇入門』は、当初は『リアルのメカニズム』っていう題名で書いていたんですけどね。これも編集長直々に、『演劇入門』で行きたいと言われました。
-政権交代で声がかかったらどうしますか。
平田 酒の席では、そういう話はありますけど、入閣とか出馬とか文化庁長官とか、演劇が続けられない仕事はやりません。これまでも、政府の諮問委員はいろいろやってきましたから、お手伝いできることはすると思います。でも、それはどんな政権になったも同じですけど。
(2009年7月20日、こまばアゴラ劇場)
(初出:週刊マガジン・ワンダーランド 第156号-158号)
インタビューを終えて
【平田オリザ】
いまの時点でお話しできることは、すべて話せたと思っています。
インタビューの中でも話したように、けっこう、場当たり的に動いてきましたので、こうして質問をしていただくことで、自分のやって来たことが整理される側面が多々あります。
これからも、大きな理念はうちに秘めながら、来た球を撃つという態度で臨みたいと考えています。