さいたま芸術劇場「エレンディラ」

◎真夏の演劇異種格闘技戦から生まれた「異空間」物語
今井克佳(東洋学園大准教授)

「エレンディラ」公演チラシ広々と何もない舞台奥の暗闇から現れる行列。まるで地平線のかなたから歩み出たかのようだ。照明で作られた大きな円に沿って、輿に乗った怪物のような巨体の祖母(瑳川哲朗)に、極端に長い柄のこうもり傘をさしかけた貧弱な徒歩のエレンディラ(美波)、そして使用人たちが家財道具を運んでいく。作品の舞台となる南米コロンビアの広大な砂漠のイメージだろう。登場人物たちが現れ、消える地平線の遠さが実感できるスケールの大きさだ。舞台の両サイドには物語の語り手たちを配置させる。縦横に広がる舞台空間を堪能するには舞台正面、そしてむしろ後方の座席のほうがよい。

使用人同然に使われていた祖母の屋敷を、自らの過ちで全焼させた孫娘エレンディラは、非情の祖母にその償いとして娼婦にさせられ、客を求めて砂漠の旅を続ける。やがてエレンディラの評判はあがり、その行くところ、門前市をなすがごとくの賑わいを見せるようになる。原作はノーベル文学者、ガブリエル・ガルシア=マルケスの「無垢なエレンディラと無情な祖母の信じがたい悲惨の物語」(邦訳はちくま文庫「エレンディラ」所収)である。

焼失前の豪華な屋敷を闊歩する着ぐるみのダチョウ。エレンディラの恋人となるウリセスの実家のオレンジ農場。エレンディラが囚われる修道院。エレンディラのテントの周りに市をなす、芸人、見せ物師、自転車に乗った写真師、異形の見世物、兵士、そして密輸商人の実物大のトラック。舞台全面を覆う波立つ布の海。そして本水の雨。「見世物祝祭劇(スペクタクル・オペラ)」と冠されたこの舞台の、「見世物」あるいは「スペクタクル」の部分については、なるほどと思わされるスケール感と派手さ、奇抜な具象に満ちたいつもの蜷川演出の特徴がいかんなく発揮されている。一度は劇場に予定された廃校の体育館の規模では、この演出プランは不可能だったのだろう。

原作を脚本化したのは、「燐光群」の作・演出家である坂手洋二。坂手は単に原作のストーリーをなぞるのではなく、大胆なアレンジを加えている。原作の不条理ともいえる結末に対して、ガルシア=マルケスの別の短編「大きな翼のあるひどく年取った男」(上記「エレンディラ」所収)をヒントに、物語に新たな大枠を付け加える。また、原作でも作品のなかに一瞬顔を出した小説家自身を、三幕に引っ張り出し(國村隼)、自分の書いた物語のその後を検証させる。

やがて、原作の不可解な結末に対して、ある解釈が与えられ、年老いた恋人たちの死を前にしたつかの間の再会にたどり着く。(その他、別の作品の要素も部分的に取り入れられているとのこと。「悲劇喜劇」2007年9月号掲載の野谷文昭氏の戯曲評参照。)この三幕によって、乾いた、反近代的な怪異譚のような物語は、一転して愛の永遠性をかいまみせる抒情的な悲恋物語となる。蜷川得意の大上段に演出されたスペクタクルな結末は、いやがおうにも感興を喚び起こす。また、エレンディラの内面についても、運命に逆らおうとしても逆らえず、結局は虐待されながらも虐待する祖母を求めてしまう、といった現代心理学でいう「共依存」的な解釈を与えているところ、そして登場人物たちの背後に、呪術的な力を持つ原住民ワユ族の血を見ているところも、坂手作品らしく感じられた。

「燐光群」に書き下ろされる坂手の戯曲は、多くが、短いシーンをテンポよく積み重ねながら、やがて戯曲の全体像や社会派的視点が見えてくるといったもので、その演出も小劇場の狭い空間で、舞台装置をあまり置かず、俳優も役柄を次々と入れ替えるかたちで作られ、戯曲構造と小空間の演出とが密接に絡み合っているところが醍醐味である。坂手演劇の魅力は小空間でこそ発揮されてきたと思える。

今回も、坂手の脚本は、シーンの積み重ねと、物語構造が最後になって見えてくるという戯曲作家の手腕をうまく発揮し、原作の雰囲気を残しつつも、現代世界への批評的な視点を含めたうえで、新たな物語を構築している。そのうえに、坂手はト書きを多くして、すべてをそのまま見せるという蜷川演出への「敬意を込めた挑戦」(上演パンフレット)を行ったという。その意味で、この舞台は、坂手戯曲を蜷川演出がどう捌くか、という面白みが中心だったといえる。(蜷川自身は、自分の演出プランを次々と実現するさいたま芸術劇場のスタッフワークをやはりパンフレット掲載の言葉で讃えている。)

もし坂手自身が演出するなら、「だるまさんがころんだ」が上演された下北沢スズナリ程度の空間で、収めることもできたのかもしれない。しかし、蜷川は、全てのシーンを大空間で具象化して見せ、丁寧に情感を加えて描ききる。そしてさらにマイケル・ナイマンの音楽に合わせた歌が何曲か歌われる。その結果、上演時間は二度の休憩を含めてだが、4時間に迫った。おしむらくは坂手特有のウィットや皮肉にあふれたセリフが大空間のために聞き取りにくく、十分には楽しめなかったことである。

映画「ピアノレッスン」のサントラなどで有名なマイケル・ナイマンの書き下ろした音楽は、確かに美しいが、日本語の歌詞を乗せて数曲歌われた歌曲は芸術性が高すぎて難解に感じられた。もう少しポピュラーな旋律で感傷的に盛り上げた方がよかったのかもしれない。ミュージカル俳優といえる中川晃教の歌声が堪能できるシーンが少なかったし、全体的に「オペラ」といえるほど音楽や歌が多く使われているわけでもなかった。これはいささか看板に偽りあり、と思えた。しかし、瑳川哲朗の祖母が眠りながら歌う思い出の歌には迫力があった。

俳優は、ほぼ出ずっぱりになる祖母役の瑳川とタイトルロールの美波が目をひいた。裸の巨体を作るための着ぐるみを着けながらのエネルギッシュな熱演を長時間続ける瑳川の迫力には脱帽する。美波は、声がよい。一見ぶっきらぼうな情感のない演技にも見えるが、終わりのない過酷な生活にとらわれた絶望感や、実は非情の祖母によく似た心性の持ち主であるとも思えるところなど、を表現した結果とも感じられた。肌を露出するシーンが多く、全裸に近い場面もあり、舞台経験の浅い若い女優としては痛々しくも思えたが、逆に中途半端なシーンの多い日本演劇を突き抜けた、一種のすがすがしさをもたらし、舞台の雰囲気を南米的世界に近づけることに成功していたとも感じた。

原作、脚本、演出、音楽、とビッグネームを並べた舞台。演劇の異種格闘技戦のような混成状態が現出された。さいたまの地では客引きに苦労したようだが、これこそが「見世物」であり「祝祭」だったのかもしれない。4時間たっぷり、かつて見たこともない異世界、異空間の物語を堪能することができた。(終)
(初出:週刊マガジン・ワンダーランド第58号、2007年9月5日発行。購読は登録ページから)

【筆者略歴】
今井克佳(いまい・かつよし)
1961年生まれ、埼玉県出身、東京都在住。東洋学園大学准教授。専攻は日本近代文学。演劇レビューブログ「Something So Right」主宰。
・wonderland 寄稿一覧 http://www.wonderlands.jp/archives/category/a/imai-katsuyoshi/

【上演記録】
見世物祝祭劇(スペクタクル・オペラ)「エレンディラ
彩の国さいたま芸術劇場(2007年8月9日-9月2日 )

原作: G・ガルシア=マルケス
(「無垢なエレンディラと無情な祖母の信じがたい悲惨の物語」 鼓直 訳 新潮社刊「ガルシア・マルケス全小説」より)
脚本:坂手 洋二
演出:蜷川 幸雄

出演:
ウリセス 中川 晃教(なかがわ あきのり)
エレンディラ 美波(みなみ)
老作家 國村 隼(くにむら じゅん)
祖母 瑳川 哲朗(さがわ てつろう)

品川 徹
石井 愃一
あがた 森魚
山本 道子
立石 涼子

藤井びん
新川將人
野辺富三
太田馨子
日野利彦
今村俊一
川誠司
今井あずさ
青山達三
福田 潔
石田佳央
さじえりな
戸井田稔
堀 文明
羽子田洋子
冨岡 弘
井面猛志
難波真奈美 他

原作: G・ガルシア=マルケス
(「無垢なエレンディラと無情な祖母の信じがたい悲惨の物語」 鼓 直 訳
新潮社刊「ガルシア・マルケス全小説」より)

脚本:坂手 洋二
演出:蜷川 幸雄
作曲:マイケル・ナイマン(Michael Nyman)

美術:中越 司
照明:原田 保
衣裳:前田 文子
音響:井上 正弘
ヘアメイク:佐藤 裕子
音楽助手:阿部 海太郎
振付:広崎うらん
演出助手:井上 尊晶 石丸 さち子
舞台監督:小林 清隆

S席 ¥12,000 / A席 ¥7,000 (全席指定・税込)

さいたまアーツ・シアターライヴ(「エレンディラ」開演の50分前より約20分間)
“チンチョルズ”
松延耕資(サックス、クラリネット)
大口俊輔(アコーディオン、ピアノ)
木村仁哉(テューバ)
舩坂綾乃(パーカッション)

制作:財団法人埼玉県芸術文化振興財団、ホリプロ

▽名古屋公演
愛知厚生年金会館(2007年9月7日-9日)
S席 ¥12,000 / A席 ¥7,000 (全席指定・税込)
▽大阪公演
イオン化粧品 シアターBRAVA!(2007年9月14日-17日)
¥12,600 (全席指定・税込)

【関連情報】
・エレンディラ公式ブログ(稽古風景など)

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