パラドックス定数「三億円事件」

◎背広を着て制度の中で戦う男たち 萌え、愛情、知性の対象
水牛健太郎(評論家)

「三億円事件」公演チラシ一九六八年十二月、東京都府中市で白バイ警官を装った男に約三億円を運んでいた現金輸送車が奪取された三億円事件。七年後の公訴時効を経て今に至るまで事件の真相は明らかになっておらず、現在の数十億円に相当する被害金額の大きさ、手口の鮮やかさもあって、多くの人の想像力を刺激してきた。

パラドックス定数の「三億円事件」はこの事件の時効直前の捜査本部を舞台に、八人の警察官の間で息詰まるドラマを展開する。八人の構成は所轄の府中署の刑事が四人、警視庁から派遣されてきた者が四人で、彼らの間には気質や思惑の違いがある。犯人の逮捕を目標に現場をはいずり回るたたき上げの所轄の刑事に対し、事件の背後にうごめく様々な勢力や自らの警察組織内の位置づけに目配りせざるを得ない本庁の警官たち。

所轄と本庁の違いだけでなく、個々人の立場の違いも大きい。所轄の四人は、鬼軍曹タイプのキャップ馬見塚の下に、新聞記者と気脈を通じていた先輩の拝島や被害を受けた銀行支店長一家との関係を抱え込む高瀬、身体も態度も大きいが密かに高瀬を心配する華山、本庁出身で今も野心を残す天本の三人。一方本庁から来た四人は、キャリアの荻荘の下に、機動隊出身で学生運動への嫌悪感を持つ古城と、公安部外事課から何らかの事情があって派遣されているらしい白砂と宮内の師弟がいる。警察組織内の立場や抱え込んだ事情の違いを反映し、三億円事件の持つ重みや意味、思惑は一人ひとり異なっている。

八人はそうした違いを隠さず激しくぶつかりあうが、時効が迫るなかで少しずつ違いを乗り越え、犯人逮捕に向け力を合わせる。そして真犯人の背中が見えたと思った瞬間、日本社会の闇に深く身を浸した白砂が姿を消すとともに、事件も薄明の中に消えていってしまう。

「三億円事件」公演から
【写真は「三億円事件」公演から。 撮影=渡辺竜太 提供=パラドックス定数】

三億円事件を題材にした劇と聞いたときに、私には一つの危惧があった。ある種の「真相」を世間に向けて訴える、そんな劇になってはしないかという。しかしそんな心配は全くの杞憂だった。

この事件を巡っては「真相」を解明したと称する本が多く書かれてきたが、決定的なものはない。三億円事件だけでなく、一九四九年に起きた下山事件などの国鉄三大事件、グリコ・森永事件、オウム真理教事件の「黒幕」を巡る様々な論考などは、全て似た経過をたどっている。時間が経てば経つほど記憶は混濁し、想像と現実の境は見失われ、物語的な想像力はもつれた因果の糸を勤勉にたどって、日本社会の共通の基層にたどり着いていく。その結果、どの「真相」も結局は、暴力団や政治的過激派、社会的差別、アメリカや旧ソ連、北朝鮮などの外国勢力などが織り成すお決まりの日本社会の「闇」が、幾重にも絡み合ったマンダラのようなものになっていく。そうなってしまえば、もはやどの「真相」が「アタリ」なのかは決してわからないし、よしんば仮にわかったところで、そこに本質的な意味はほとんどない。

そこに浮き彫りになっているのは、特定の事件をめぐる何かというよりも、日本という磁場のありようだからだ。怪事件の「真相」を巡る想像力が映し出しているのは私たち自身の恐怖や願望であり、「闇」と言われるものは、鏡に映った私たちの姿でしかないのである。

だが、それが私たち自身の姿であるだけに、こうした「真相」の持つ磁力は大きい。だから、未解決の怪事件を題材にした小説や演劇は、特定の「真相」に奉仕したり、「闇」を糾弾したりするだけの内容になってしまう可能性を常にはらんでいる。グリコ・森永事件をヒントにした高村薫の小説『レディ・ジョーカー』がそうで、日本社会の「闇」を総ざらえして糾弾しているが、小説としての自立性が社会性に侵食されたような印象を受ける。

しかし、パラドックス定数の「三億円事件」は、演劇として自立したものになっている。それが可能だったのは、事件の「真相」などよりもはるかに強く表現したい別の何かが作・演出の野木萌葱にあったからだ。その何かを表現するネタに三億円事件を使ったに過ぎないとさえ言える。

「三億円事件」もある一つの「真相」の構図にのっとってはいる。学生運動、暴力団、右翼などが複雑に絡んだ構図。おそらくは当日パンフに挙げられた参考文献の中に書かれていることなのだろう。

だが、この劇の重心はその構図を観客に向けて解き明かすことにはない。手に汗握るような濃密なやり取りを通じて浮かび上がってくるのは、制度に縛られ、その中で戦い続ける男たちの悲しさである。だがそれを、「警察残酷物語」といった哀れを誘うものでなく、明らかに「色気」として見ている演出家の視線を感じるところが、特異な点だ。

「三億円事件」公演から
【写真は「三億円事件」公演から。 撮影=渡辺竜太 提供=パラドックス定数】

この作品は、いわゆる演劇としてはかなり変わっている。女性は一人も登場せず、男性、それも背広を着た男しか出てこない。背広を着た男は舞台上、観客席を問わず、劇場では絶滅危惧種なのに、である。しかも背広を脱ぐシーンは全くなく、記憶が定かではないが、前ボタンもきちっとはめられていたように思う。シャツはみんな白無地で、ネクタイを緩めず首元まで締めている。しかも八人全員が眼鏡をかけている。俳優はふだん眼鏡をかけていても舞台では外す人も多いのに、である。

刑事の服装としては現在は背広が一般的だろうが、三十年以上も前ともなれば、外回りの捜査員の中には、革ジャンや、ネクタイなしにハンチング帽といったスタイルもあったのではないか。まして全員が眼鏡をかけているとなると、この舞台の俳優の衣装・スタイルが、リアリズムとは違う明確な演出家の意思によっていることがわかる。

俳優にそうした衣装・スタイルをさせる意思の根拠とは何だろう。一つには演出意図だろう。これらの衣装・スタイルは一種の「拘束着」なのではないか。彼らを常に縛っている制度の象徴である。舞台である殊更に狭い会議室、窮屈に並べられたパイプ椅子などもそうした印象を強める。

もう一つは、これは直感だが、「萌え」だと思う。「パラドックス定数」のウエブサイトを見る限りでは、「背広を着た眼鏡の登場人物」が多いのは、これまでの公演の多くに共通する特徴のようである。政治や社会事件を扱う作品が多いがゆえの結果に見えるが、あるいはこれは逆で、野木萌葱という人は、「背広を着た眼鏡の男」を舞台の上に見たい人なのではないか。背広を着た眼鏡の男たちが議論を交わす中にほとばしるものを見たくて、それを指針に劇世界を構築しているのではないか。

これは別におかしなことではない。男女を逆にして考えれば、男性の劇作家・演出家の多くは自らの好む女優に舞台上で何を言わせ、何をさせるかということを一つの軸として自らの作品世界を構築していることは明らかだ。劇団の主宰と主演女優がカップルである例が多いのも、誰でも知っている事実である。おそらくそこには演劇というジャンルの根幹に関わるものがある。

萌えの対象が「背広を着て制度の中で戦う男性」であった場合、劇の題材はどうしても社会的・政治的な傾向を持つことになる。萌えの結果としての社会・政治劇。だがそれは、過去の怪事件を巡るおびただしい「真相」に圧倒されない、揺るがない軸を劇の中にもたらす。野木は、組織を巡る葛藤や意地の張り合い、「闇」を前にした男たちの怯えや、やり取りを通じてふいに浮かび上がる友情、それら全てを、男という生き物のおかしさ、愛おしさとして見る普遍的な視点を失わない。戦後屈指の怪事件を扱ってなお、砂場で喧嘩している幼い兄弟を見守る母のような、愛情と澄んだ知性を感じさせるのである。
(初出:マガジン・ワンダーランド第108号、2008年10月8日発行。購読は登録ページから)

【筆者略歴】
水牛健太郎(みずうし・けんたろう)
1967年12月静岡県清水市(現静岡市)生まれ。高校卒業まで福井県で育つ。大学卒業後、新聞社勤務、米国留学(経済学修士号取得)を経て、2005年、村上春樹論が第48回群像新人文学賞評論部門優秀作となり、文芸評論家としてデビュー。演劇評論は2007年から。そのほか経済評論も手がけている。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ma/mizuushi-kentaro/

【上演記録】
パラドックス定数第16項「三億円事件」(再演)
下北沢OFFOFFシアター(9月30日-10月5日)
作・演出 野木萌葱

出演
府中署刑事課
馬見塚勲(警部)  諌山幸治
高瀬雅尋(巡査部長)今里真
華山克臣(巡査部長)加藤敦
天本征介(巡査部長)十枝大介

警視庁捜査一課
荻荘貴志(警視)  小野ゆたか
古城晴彦(巡査部長)植村宏司
白砂駿嗣(警部補) 西原誠吾
宮内晃平(巡査部長)井内勇希

スタッフ
照明 伊藤泰行
舞台監督 渡辺陽一
音響 古場田良子(オフィスFLIP-TOP)
宣伝美術 成川知也
写真 渡辺竜太
販促 副島千尋
制作統括 赤沼かがみ(G-up)
企画製作 パラドックス定数研究所

料金 (日時指定・全席自由)前売り2800円 当日3000円

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