イヨネスコ「瀕死の王」

◎揺さぶられた芝居観 公演の終わりは、混沌
浜崎未緒

「瀕死の王」公演チラシ劇場に行って、まず公演予定時間の掲示を探してしまう。ほとんど儀式のように近づいて、公演にかかる時間を確認する。2時間を超えているとがっかりだ。途中休憩があれば尚更。いつからか私の身体には、「休憩なしで2時間以内に終わる芝居はいい芝居(短編集やオムニバス公演を除く)」との持論が、染み付いている。2時間という時間の枠にギュウギュウに詰めこまれる方が、主題の際立つ「濃い」お芝居になる。そう、2時間以上かけて「薄い」お芝居をみることが、いちばん嫌いだ。なぜこんな苦痛を味わわなければいけないのか、と悔しい想いをしたことが何回もあった。『瀕死の王』は、休憩なしの2時間15分の予定だが…。

とここまで書いて、ああ私は観劇する時いつでも、それまでの演劇体験と同じような体験を予想し、期待していたのだなあと初めて意識した。そして今まではおおかたのお芝居が、(残念ながら)その予想と期待の範囲内に収まってしまっていたのだ、ということにも気づかされた。しかしそれを、ことごとく裏切ったのが『瀕死の王』だ。いつの間にかできあがっていた、お芝居への予想や期待、2時間という具体的な枠までいっぺんに吹っ飛ばされた清々しさ。それまでの演劇体験や価値観があっちへこっちへと揺さぶられる、目がまわるような2時間15分は「濃い」「薄い」で計る時間ではなかった。あえて言えば…、結構気持ちのいい時間であったのだ。

「あと1時間40分で、王様はお亡くなりになるのです、このお芝居の終わには」

第一王妃マルグリット(佐藤オリエ)の台詞であり、私のお気に入りだ。舞台上部には掛時計が掲げられ、劇の進行と共に針が動いている。私は、いや観客は皆、思わず時計に注目する。たしかに、開演から30分近く経ったことを、時計の針は示している。そしてお芝居の終わが、はっきりと宣言された。お芝居の終わを、実際の時間を示して、お芝居の登場人物が宣言したのだ。この宣言をもって、これは今までにみたお芝居と、まったく異なった「お芝居」であることを確信させられた。

装置にしても、舞台奥や横は劇場機構がむき出しで、出番までの待機用の椅子や、小道具が載ったテーブルが置かれており、どこまでがお芝居なのかがあいまいだ。演出の佐藤信は「八百長なしでやる」という方針を貫いたと話したが(注1)、では王様、ベランジェ一世(柄本明)や第二王妃マリー(高田聖子)が待機用の椅子に座っている時は、役から離れているというのか? それとも王様は王様として休んでおり、同じく休んでいる侍従にして看護師、ジュリエット(松元夢子)に話しかけたりしているのか? 本当に? お芝居を観に来て、お芝居をしているのかどうか、疑うことになるとは思わなかった。

じっさい、あと1時間40分でこのお芝居は終わるだろう。そして、王様はお亡くなりになるだろう。この世に生まれた以上、死は必ず訪れるのだから。このお芝居で、はっきりしているのはこれら2つの事柄だけだ。あとはすべてがあいまいになり、どこまでがお芝居なのか、何をもってお芝居というのかさえ、ぼんやりとしていく。王様が倒れたり起き上がったりのドタバタには、衛兵(谷川昭一郎)が「国王陛下、ばんざ~い」と「国王陛下、ご逝去!」と交互に宣言を繰り返して、あっちへこっちへと私を振り回す。意味が繋がりそうな一瞬を見つけても、すぐにかき乱されてしまう。「わからなくていい!」と突き放される感覚。それでも、何だか面白い。面白いと感じる感覚だけはわかる。そして浴びせかけられる長台詞の波、波、波。国土は荒廃し、臣下は離れ、でも王様は何もしなかった。いま焦っても意味がないと嘆く。でも本当に? 本当に国土は荒廃しているのか? そもそも本当に、彼は王国を治める王様だったのか? 言葉は重ねられるほどに、その意味があいまいになり、伝える力も薄まって、音だけが伸びていく。音声と化した台詞の波にのまれて、私はあらゆる予想も期待もできなくなっていく。

さらに際立つのは、伸び縮みする世界観だ。王様の死が近づくにつれ(もしくは、お芝居が終わに近づくにつれ)、王国の国土が小さくなり、荒廃も進んでいく様子が具体的に語られる。死にたくない、とドタバタ動いていた王様の動きが緩慢になり、再度台詞への集中度が増すので、王様の死と、国土荒廃のイメージ像が少しずつ結ばれていく。王様が死ぬと世界も終わってしまう? 本当に? しかし王様は、お芝居の終わには死ぬと聞いた。王様が死ねば、お芝居も終わる。ではお芝居が終われば、世界も終わってしまう? そういうことだったのか? 私は何を信じていいのか、どこからものをみているのか、あっちへこっちへ考えをめぐらせる私とは、いったいどこにいるのか、すっかり足場を失ってしまった。王様はお亡くなりになるのか? それとも王国が? それともお芝居が? 世界が? いったい何がお亡くなりになるというのか?

医師(斎藤歩)は医師であり、死刑執行人でもあり、バクテリア学者として最小単位を研究し、占星術師として大局を読む。王様の死は王国の死でもあり、お芝居の終わでもある。対極が同時に存在し、私とお芝居と世界の区別がつかない。そのような状況で、死はどのように描かれるか。こたえは「無」であったように思う。王様はもう王様か柄本明かわからないくらい無防備になり、目に見えるドラマは何もない。第一王妃の長台詞によって死出の旅のビジョンが語られるが、それも少しずつ像を結ばなくなっていく。王様はついに闇に消え、お芝居は終わった。

残ったのは、足場を奪われ、すべての境界があいまいになった私の世界だ。頭をつかんで揺さぶられ続けたかのように、目がまわってぼーっとしていた。混沌。どんなお芝居だったかはうまく説明できない。何が面白かったかもうまく説明できない。うまく辻褄を合わせて日常を受け入れ、整理されてきた私の世界がひっくり返され、すべてが混沌の中に沈んだ。

しかしあいまいな世界は逆に、私の輪郭を際立たせてくれた。この混沌もいずれまた、その輪郭の中で整理されていく。2時間15分のこのお芝居は、時にそれ以上の存在感を示し、時にはすっかり忘れ去られ、あっちへこっちへ自由に伸び縮みする予感がしている。
(2008年10月5日観劇)
(初出:マガジン・ワンダーランド第117号、2008年12月10日発行。購読は登録ページから)
(注1 )「瀕死の王」をみて劇評を書くセミナー第1回レクチャー(2008年10月10日)での発言

【筆者略歴】
浜崎未緒(はまざき・みお)
1982年横浜市生まれ。早稲田大学狂言研究会OG。古典芸能から小劇場、グランドミュージカルまで「何でも観る」がモットー。特技は、演出を好意的に受けとめること、身内に対してもダメ出しを遠慮しないこと。

【上演記録】
あうるすぽっとプロデュース「瀕死の王
あうるすぽっと(豊島区立舞台芸術交流センター)2008年9月28日-10月5日

○作:ウジェーヌ・イヨネスコ
○演出:佐藤 信
○訳:佐藤 康
○出演:柄本 明/佐藤オリエ/高田聖子/
斎藤 歩/谷川昭一朗/松元夢子

企画:鴎座
企画製作:あうるすぽっと
(スタッフ)
美術:佐藤信/照明:黒尾芳昭/音響:島猛/衣裳:岸井克己/演出助手:鈴木章友/舞台監督:北村雅則/宣伝美術:マッチアンドカンパニー/宣伝写真:ノニータ/広報:小沼知子/制作:藤野和美/プロデューサー:ヲザキ浩実

(東京公演)
主催:(財)としま未来文化財団/豊島区
助成:芸術文化振興基金

(兵庫公演)
主催:兵庫県立尼崎青少年創造劇場

あうるすぽっとインタビュー 佐藤信×柄本明(取材・文/尾上そら)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA


このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください