toi 「四色の色鉛筆があれば」(「ネクスト・ジェネレーションvol.1」)

◎先鋭なセンスと計算された構成力 練度の高い舞台作品を生む
香取英敏

「四色の色鉛筆があれば」公演チラシ。デザイン/セキコウ 今回の「四色の色鉛筆があれば」は四つの短編集である。上演順に「あゆみ」「ハイパーリンくん」「反復かつ連続」「純粋記憶再生装置」の4作であった。
20分程度の短編オムニバスである。それぞれのエピソードは物語の上での関連はない。テーマも設定も人物もそれぞれ独立したものである。

それを数学の「四色定理」になぞらえて並べている。「四色定理」とは、「どんな地図でも隣接する領域を違った色に塗り分けるためには、4色あれば足りる」というもの。1976年に、コンピュータにより証明がされたが、長く数学のアポリアの一つとなっていた。柴はこの定理を引用し、自らの「世界」を塗り分けるのに、「コミュニケーション」(「あゆみ」)、「宇宙」(「ハイパーリンくん」)、「家族」(「反復かつ連続」)、「恋愛」(「純粋記憶再生装置」)という4色を採用した。それらは20代半ばの作者にとっては、それぞれに切実なテーマであることを感じとることはできる。
さて世界は塗り分けることができたか?

柴本人のブログ「cassette conte」には彼の創作の過程や元ネタが丁寧に開示されている(「『四色の色鉛筆があれば』サンプリング元ネタ大会はじまるよー」という元ネタがあからさまに紹介されているページもある)。

内外のヒップホップ、ポップミュージックから影響をうけ、またそのPV(プロモーション・ビデオ)の映像が発想の「元ネタ」になっているのがうかがいしれる興味深いブログである。柴にとってポップミュージックと同じにネット環境は「当たり前」のことで「YouTube」で映像を検索し、それを活用していることがよく分かる。そこで検索された映像や音源が彼の発想の根源にある。

たとえば、「あゆみ」は栗コーダーカルテットの「おじいさんの 11ヶ月」のPVが元ネタであり、「移動し続けることができる映像であえてフレームを固定して、編集によって再移動してみた。一方、舞台はあらかじめ固定された空間である。さぁどうするってこと。」という創作の動機が語られている。

また、「ハイパーリンくん」の元ネタは「powers of ten」という教育界ではよく知られた宇宙のスケールを体感させるビデオ教材。それを演劇にしよう、というのが、創作動機である。その過程で柴は、「あーゆー作品は非常に怖いなと自分で思った。作り手の意識ひとつでもいくらでもその機能を変えることができると。」、「またそういった側面を踏まえても僕は知識賛歌人間賛歌を描きたかったのであーいった形になりました」。また「演劇として大声を出す、大きく動く、集団で声を出すことは面白いしそれを自由にやれることは豊かだと思うのですよ」とそこにはネタばれを全くおそれない素直さで書かれており、好感が持てる。

「あゆみ」から

「ハイパーリンくん」から
【写真は「四色の色鉛筆があれば」公演から。撮影=青木司 提供=toi 禁無断転載】

そういう映像が元ネタではあるが、いわゆる「パクリ」になっていないのは、そこからインスパイアされたものを演劇化するという点で、彼が舞台表現の特質を突き詰めて考え、上記の引用のように模索の苦しみを経ているからだろう。
たとえば「あゆみ」では、映像では当たり前の「フレーミング」を舞台で表すために照明を使ってみる。「ハイパーリンくん」では、距離の階層を実感させるために会場に役者を広く配置し、暗闇の中ラップで観客を包みこむという演出になっている。映像の安直な「物マネ」では決してない。それを訳知りに、「これって○○のパクリじゃん」と断じてしまうことは、まったく演劇の特殊性の理解と創作の豊かさにつながらないだろうと思う。彼は「反復かつ連続」もシベリア少女鉄道へオマージュを捧げているし、元ネタをどうやって消化し、自分の作品に新しい方法として結実させるかという課題をきちんと解いているところを正しく把握せねばならない。
といっても、このレビューでは、これ以上「あゆみ」、「ハイパーリンくん」はとりあげない。元ネタと、彼が語っていることとの分析にかなりの分量をとられてしまい、舞台そのものの批評にはなりづらいことを予感するからである。

また、筆者は1月22日に長久手町まで、「劇王再び」を見にでかけたということもある。「劇王」とは、日本劇作家協会東海支部がプロデュースする、3人程度の役者による20分の短編コンペティションである。柴は2007年に「反復かつ連続」により四代目王座についた。今年度の「劇王VI」(2月7、8日)の前に、歴代の劇王が受賞作を再演するという企画が「再び」であった。今まで「劇王」を見てなかったこと、それが佃典彦や北村想がいる協会東海支部単独の主催であることへの興味と、昨年のアゴラのtoi公演「あゆみ」を見逃し残念だったことにより見に行ったのである。さらには柴がトラム公演の1週前に、どのようなものを提出するのかにも興味があった。そこで彼は受賞作と、もう一本トラム公演のための新作「純粋記憶再生装置」を上演した。
一週間おいて、トラムの公演で同一作を再び見ることができて、その変容ぶりに大変興味をそそられた。今回はこの2本を中心にレビューを構成しようと思う。

「反復かつ連続」は4人姉妹と母の5人家族の朝のスケッチである。それをインパラプレパラートの内山ちひろが一人で演じる。
起きて洗顔をして朝食をとり出かけていくという毎日反復される「朝」の風景のスケッチである。ある朝のシークエンスを年少の小学生の末妹から、順に中学生の三女、高校生の次女、社会人の長女と描いていき、最後に母親を描いて家庭の朝を再現する。
ここで使われるのがヒップポップから始まり発展を遂げた「サンプリング」の手法である。2人目のくり返しからは前の妹たちの声が再生され、現在の場面にかぶされていく。3人目4人目とじょじょに「家族の朝」が立体的になっていくしくみである。「はーーい」の前に「ちゃんとしなさい」という母の注意があったりすることが、くり返しごとに克明になっていく。単なる描写的なセリフだったものが他の声がかぶさってくることにより、会話として立ち上がってくる。途中に「口楽器」による家族のセッションなどという遊びもはいる(5人完成すると壮観!)。

一人ずつの声が再生されつつ、朝のシーンが「反復」されていく。繰り返されるごとに、シーンが「連続」性をもち完成に近づいていく。そして5人全員のセリフが終わり、完成を向かえる。6回目のくり返し、無人の舞台に声のみが再生されていく。後半、腰をかがめた内山がお茶を持ち現れ、前ツラに座り、ゆっくりとお茶をすする。そこで、完成したこの朝のシーンが、「老母」の回想であったことがあきらかになる。母はうたた寝をし、同居の娘の「おかあさん、そんなところで…」というセリフがなげかけられ芝居は終わっていく。老母は何番目の娘と同居しているのだろうか?

名古屋長久手風のホールはごく普通の会館のため、額縁舞台だった。だから舞台の床が見えず、末妹が行儀悪く食卓のコタツで寝そべり、三女に踏まれ言い合いになるという、細かいがほほえましいシーンはなかった。
長久手版のよさは別にあった。トラムでは広い舞台を区切る目的もあってか、演技のエリアの四隅にスピーカーを設置し、それから一人ひとりの声が流れたのだが、長久手では会場のスピーカーを使ったために観客席の四方から声が聞こえた。それぞれの娘たちの声が一つずつのスピーカーに割り当てられ明解な指向性をもったために、サラウンドな音環境になり、観客はまさに居間の中で家族の朝に立ち会っている気分を味わうことができたのである。トラムでは、味わえなかった臨場感だった。

サンプリングの再生が、立体化していく中で、毎日の生活が単なる反復ではなく、毎日の「再生」に通じていく。するとそれは、「朝」というものの厳粛な「儀式性」というものがもたらす日常の循環と再生に突き当たらせてくれる。またその渦中では永遠に続くかと思いがちな「日常」が、子どもたちの成長・独立によって、ある時、終わってしまい過去になってしまう。「日常」はいつか終わる。その日常が失われた後、老いた母がくり返し思い出すのは、次女が地元での就職を決意する日であり、長女の交際相手が挨拶にくる日である。もしかしたらこれは別の日のできごとなのだが、母の中で記憶が改変され、同じ日の朝になってしまっているのかもしれないと思えたりもする。家族の構成員それぞれの人生の分岐点、共同体の変容の始まりという「節目の朝」であるのだ。その朝を境に家族の変容がはじまる、「家族の生活の『特異日』」なのであった。

永遠に続く終わりなき日常と思っていた反復の中に突如現れる「特異日」。反復かつ連続・継続する中に突如として現れる転換の瞬間を焼き付けた。ささいな中にこそ人生のシビアな厳粛が突如として現れるという機微をみごとに掬いとったといえるだろう。

「反復かつ連続」から

「純粋記憶再生装置」から
【写真は「四色の色鉛筆があれば」公演から。撮影=青木司 提供=toi 禁無断転載】

「純粋記憶再生装置」はごく普通のボーイ・ミーツ・ガールの話である。
それを男2人、女2人、武谷公雄、山本雅幸(青年団)、岡田あがさ、黒川深雪(InnocentSphere/toi主宰)の4人が「4人2役」で演じていく。

それが実に複雑かつ精密である。男女の組み合わせが次々と換わっていくだけでなく、男同士、女同士で2人を演じたり、演技する二人の後ろから残りの二人が声を当てたり(それも性別がいれかわったりもする)、二人で演技をしつつ、声は一人で演じわけたり、あらゆる順列・組み合わせが行われていく。
とうとう寝ている二人を俯瞰に見せるためたった二人が寝姿をし、実際に寝ている二人が声をあてるということまで行われる。そこでは、就寝後に暗闇の中で互いの細かい、しかし細かいからこそ二人にはとって深刻な気持ちを確認しあうという会話が、二人の関係のこれからを暗示する。
そういった役者たちは、瞬時で入れ替わっていく体と声とに振り回されることなく、きっちりと演じていく。

話は、若い男女が出会い、交際し、同棲し、別れていく。という変哲もないラブ・ストーリーである。ストーリーにはひねりは全くない。その典型的とも言える話をシーンのコラージュで組み上げていく。エピソードには特段、目新しさはない。若い男女の、なんと言うことのないような初々しい恥じらいや、共有のよろこびや、すれ違いや、対立といったものが時間軸とは関係なく並べられ、パッチワークをつくる。ほんとうによくある話である。

しかしそれが、受け渡され、歌舞伎の「早変わり」のように一瞬で変わっていくのを見せられると、徐々に牧歌的なラブストーリーではないことに気づいてくる。役者が、一つの役を肉づけしていき、体現していく困難は自明だし、二人分表現するという演劇的手法もよくあることだ。しかし今回は二役を演じ分けられるだけでなく、瞬時に入れ替わったり、テニスの壁打ちのように自分が投げかけたものが、すぐさま自分に跳ね返されてきたりするものに反応したりしなければならない。また、セリフのテンション、肉体のテンションを別々に保ったり、またそれをまた瞬時に入れ替わらせたりする。間断ない「早変わり」が要求される役者の困難さは、累乗倍にどんどん負荷が増していく。一貫性も循環性もないため、登場人物の心理の流れが把握しづらい状況の中で、役のモチベーションを持続していくのはそうとうな困難であろうと想像する。クルクルと変わり一瞬も安定したキャラクターを許されない体と心を演じ続けていく役者たちの力量は高い。4人は演技力と同時に、芝居への普段に数倍する集中力を試される厳しい状況におかれている。

さらに、それぞれが同一の2役を演じているはずなのに、おのおのの役者による人物の性格の異なりが感じられるのも面白かった。武谷が表す陽気な屈託のなさと無責任さ、山本の冷静さと激しさを共に内包するナイーブさ、岡田が見せる神秘的な雰囲気と内側の熱情、黒川が表した天真爛漫さと同時に存在する酷薄な身勝手さ、そういったものが相手を見つめるまなざしや表情に端的に表現される。それはキャラクターの造型に、陰影をつけていくのだが、そこにも別の声が当てられたりして、複雑さは増していく。演出の巧みさに目を奪われがちであるが、演出の意図を外さず実現していく武谷、山本、岡田、黒川の4人のしっかりした演技がなかったら、この芝居がなりたたないことを忘れてはいけない。

長久手版では、役を受け渡していくことのみに注意がはらわれ、そのアクロバットを単純に喜んでいるものに感じられた。それだけでも超絶的で、作品の完成度はあったのだが。しかし、半面よくできた曲芸的な風情で終わってしまっていた。そこでは、単なるパズル的なおもしろみが強調される結果になる恨みが残った。終演後、「来週までにはもうすこし、ねりあげます。役者にはまだ苦労してもらいます」と胸をはっていた柴だったので、楽しみにしていたところ、トラム版には改変が加えられていた。

最後の雪に見立てた白紙を放り投げるシーンがことなる演出になっていたのである。それには、たしかに質的な変化を感じることができた。
長久手版は登場人物の男女が雪の中で戯れるありさまを堅持していたが、トラム版では紙を放り上げだすと、それまで精密に受け渡され続けていた2役がごちゃごちゃになっていく。単純に役柄とは無縁の男女4人が雪景色の中で戯れているシーンになる。せっかく積み上げてきた2役が誰が誰やらわからなくなってしまうのである。この瞬間、営々と守り続けられてきた主人公の2人「主体」が、カオスに向かって開かれていく。
するとその時、主人公の彼と彼女も、また役者たち4人も、個性や人格をはぎ取られ、カオスの中で、誰でもないただの「存在」へ、「存在」そのものに変換されてしまったことが見てとれるようになる。
その結果、閉じた二人きりの恋愛話だったものが、人間のコミュニケーションの問題という「普遍」へ向かって開かれていくのである。見ているものには、ありふれたラブストーリーが、誰にでもあるような「ありふれた話」であるからこそ、かえって誰にでも通用する思い出や経験へと昇華されていく。めまぐるしく入れ替わる「主体」が、最後に「主体」から解放されていく姿は、人の持つ「共通体験」や「共通の記憶」といったものを瞬間感じさせてくれる。そしてその後、元の流れに戻り、二人の別れと出会いのシーンへと続く。しかしそこに見えるカップルは、特定の誰かではない、普遍的な若い男女として観客の目に映り、普遍を感じつつ、芝居が記憶の中で頭からリフレインされて行くのである。

柴の作品は、冒頭に触れたように、面白いPVを見たからこれを演劇にできないか、試してみようといった無邪気さからスタートしている。
またそこで語られるストーリーも無邪気で、純粋さに満ちている。無垢なほのぼのした世界と言ってよく、世界観は「幼いロマンチシズム」に彩られている。はっきりと言うが、柴の才能は新しい物語を創造するという能力にはない。ありふれたストーリーを、自分のアイディアや思いつきを基に表し方・見せ方を工夫して提示していくものにすぎない。

しかしその表し方・見せ方は、他の演出家には思いつけないだろうと思わせる先鋭なセンスに基づくアイディアと、細かいところまで隙なく計算された構成力を感じさせるものになっている。だれでもがネットで手に入る先行作品をお手軽に引用したり、援用したり、それこそパクったりはしない。すでにある方法論を借用するのでなく、それを基にして、その方法を演劇という「ライブ」に適用していくのである。

それは一つのアイディアを演劇という視線から執拗にこだわり続けることから始まる。それは、あたかもこどもが気に入ったおもちゃをあれこれとひねくり回していくうちに、全く新しい遊び方を見つけ出すようなものだ。その執拗さと追求力にはためらいがない。「こどもっぽさ」の特権性を駆使して作品をつくっているのだ。
思いつきを、思いつきという閾(しきい)を越え、世界を切り取る「ものの見え方」にまで鍛えあげる。それは演出の「力」の可能性を拡張していく。

柴の内側では相反する要素、「軽さ」と「重たさ」、「幼さ」と「老獪さ」、「天真爛漫」と「緻密な企み」、「のほほんさ」と「繊細さ」、「ロマンチシズム」と「冷徹さ」といったものが、雑多に無頓着に存在している。それぞれの決して一致することのないベクトルが不思議にもバランスをとって破綻なく平衡している。

「あゆみ」のいつも一緒にいる友だちに、好きだからこそ意地悪をしてしまうという幼児的なコンプレックス。「ハイパーリンくん」の宇宙のスケールを知った時の「知識」の高邁さへの、こちらが恥ずかしくなるようなためらいのないストレートな賛美。毎日一緒に生活する家族への屈託とその屈託を感じてしまう自分への軽い自己嫌悪がバックボーンにある「反復かつ連続」。コミュニケーションへのあこがれとそのすれ違いへの苦い諦観。など、どれも繊細な感受性に満ちているけれども、もしその感性のみでモロに作品化されてしまったら、かなり気恥ずかしい、観客が見ていられないものになるだろう。しかし、柴はあっけらかんとした図太さで、そういう繊細な話を平気な顔で提示してくる。

自らのもつ「軽さ」「幼さ」「天真爛漫」「のほほんさ」「ロマンチシズム」という「こどもっぽさ」を臆面もなく提出できる厚顔さが、柴の最大の強みである。同時に見せ方には老獪さや緻密なたくらみがあり、その両面が結びついて作品となる。子どもっぽさをぬけぬけと追求していく図太さと、明確で理論的な構造をしめす演出とが、明瞭なしくみが見て取れる形で提示されている。魔法のような、ブラックボックスのようなところはない。
その二面性こそが練度の高い舞台作品を産み出した。彼の中にある「こどもっぽい感性」に頼り切ることなく、世界をつかみ取りたいという強い希求によって、「普遍的な世界観」の構築へと行き着いているのである。

しかしここで若干の不安を感じるのもたしかである。その創作の道筋が彼の中で確固たる方法論として、揺るぎなく把握しきれているかというと、「?」である。僭越ではあるが、本人もまだまだ手探りで、今のところたまたまうまく行っているという感覚をもっているのではなかろうかと推察する。矛盾する要素を共存させ破綻なく世界をいつでも構築することができるという強い自信を見てとることはまだできない。まだ手探り、綱渡りに見える。今回だけをもって、あまり誉めすぎない方がよいかもしれない。
ヤジロベエが1点に立ってゆらゆらと揺れながらも、バランスは崩さず、外からは安定した姿に見えるようである。一瞬の僥倖であるのかもしれない。

四色地図は確かに完成したようだ。しかし、三次元以上の世界では、領域の取り方しだいで色数はいくらでも必要となる。どこにリアルな世界の領域をみすえるか? そこに何色の色鉛筆で対峙するのか? まだまだ、先が楽しみだ。

最後はざっくばらんに言おう、
「柴くん、急いで大人にならなくていいや。もうすこし、その僥倖に立ち会う時間を楽しませてくれ。」
(初出:マガジン・ワンダーランド第128号、2009年2月25日発行。購読は無料。手続きは登録ページから)

【筆者略歴】
香取英敏(かとり・ひでとし)
1960年、神奈川県川崎市生まれ。大学卒業後、公立高校勤務の後、家業を継ぐため独立。現在は、企画制作(株)エムマッティーナを設立し、代表取締役。ウェブログ「地下鉄道に乗って-エムマッティーナ雑録」を主宰。「カトリ式小劇場の歩き方」をワンダーランドに連載中。

【上演記録】
toi presents 4th「四色の色鉛筆があれば」(ネクスト・ジェネレーションvol.1)
シアタートラム(2009年1月27日-28日)
脚本・演出=柴幸男
キャスト:
黒川深雪 [InnocentSphere/toi]
青木宏幸
内山ちひろ [インパラプレパラート]
岡田あがさ
ゴウタケヒロ [POOL-5]
斎藤淳子
佐藤みゆき [こゆび侍]
武谷公雄
永井若葉 [ハイバイ]
中島佳子 [無機王]
中野架奈
中林舞 [快快]
二反田幸平 [青年団]
平原テツ
三浦知之 [InnocentSphere]
山本雅幸 [青年団]
スタッフ:
舞台監督=佐藤恵
音響=星野大輔
照明=森友樹
宣伝美術=セキコウ
制作=ZuQnZ
当日運営=横内里穂
プロデュース=宮永琢生
企画制作=toi
主催=財団法人せたがや文化財団
後援=世田谷区

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