燐光群「推進派」

燐光群「推進派」
◎「現実」を豪腕で舞台化したジャーナリズム演劇の成果
 森口秀志

「推進派」公演チラシ うーむ、こういう芝居はどう評していいものかと、思わず腕組みしてしまう…。欠点を論(あげつら)えば、いくらでも挙げることができる。
 まず、状況説明のために、登場人物が突然饒舌となりやたら詳しい解説を語りだす。〈解説〉が始まると役者は一歩前に踏み出し、声を張り上げるといった古くさい新劇テイスト。2日目の舞台のせいか、はたまたそのセリフの多さのせいか、役者がしばしばセリフを噛むこと。そして、話を詰め込みすぎて、十分に整理されていないこと…。
 しかしながら、そうしたさまざまな〈欠点〉を補って余るほどの迫力と剛力(ごうりき)をもって、本作『推進派』はワタシたちの前に提起された。今ニッポンで進行している事態を、一つのエンターテイメント性ある〈物語〉として結実させた芝居として。

 こうした豪腕の要るホン(脚本)を書き、舞台化(演出)できる演劇人はそうそういないのではないか?  そうした意味で、その〈取材力〉も含めた坂手洋二氏の芝居ヂカラには改めて、敬服するしかない。

 物語はこう始まる。かつてはスポーツクラブだった島の施設に、はるばる本土から数組の男女がやってくる。どうやら東日本大震災の被災者らしく、行政が対応しない被災者の受け入れを、民間人であるトミオカ(大西孝洋)が買って出たのだ。ところが、そのトミオカは沖縄・普天間基地ヘリコプター部隊の島への移設を望む「推進派」だった…。

 もちろん坂手氏は、最初から登場人物たちの〈正体〉を明かしたりはしない。一人でこの地にやって来た謎めいた女、車椅子の青年、若いカップル、父親と小学生の娘ら、トミオカの呼びかけに応えた人びとが一人、また一人と登場する。…やがて全員集合という図になるのだが、この地に来たからにはみな〈理由(わけ)あり〉であるはずなのに、参加者の合意によって「自分話をしない」ことがルールづけられる。つまり、物語の常套である登場人物のプロフィールが封印されることで、ワタシたち観客は登場人物たちと同じような互いの〈正体〉がわからないままに、この物語に放り出される。

「推進派」公演から
【写真は、「推進派」公演から。撮影=古元道広 提供=燐光群】

 そもそも本公演の「客入れ」からしてフルっていて、観客はスタッフの案内で薄暗い舞台裏へと導かれるのだが、気がつくとライトに照らしだされた舞台の上。戸惑いつつもすでに着席している客席の視線を浴びながら、舞台を降りる。そうしてようやく自分の席にたどり着けるという趣向。つまりここでの坂手氏の意図は明らかで、「あなた方(観客)もまた、登場人物(当事者)なのだ」というメッセージが込められているに違いない。

 しかしながら、同じように「自分話」を封印されたトミオカを巡り、基地〈反対派〉で公共施設館長のニシマツ(中山マリ)や〈推進派〉の村会議員(川中健次郎、杉山英之)らの登場によって、〈推進派〉としてのこの島での微妙な立場が次第に明らかになっていく。そこには、単に「反対」「賛成」では割り切れない、過疎にあえぎ、国の政策に振りまわされてきた島の現実があぶり出されてくる。

 その一方で、島にやってきた男女たちも、震災ボランティアからの離脱者、原発事故による被災とトラウマなど、おぼろげながらその背景が浮かび上がってくるのだが、そこには3.11が大きく横たわっていることが見てとれる。

 じつは6月3日に初日を迎えるはずだった本公演は、開演が5日も遅れた。それは大震災とそれに引き続く原発事故、さらには沖縄・国頭村安波区が普天間基地代替施設の受け入れを表明するなど、刻々と変化する「現実」がその遅延の要因だったことは想像に難くない。

 なにしろ公演パンフレットでも、「本作『推進派』は、過去時制をとるのではなく「現在」を舞台にすると判断し(略)「まさに今」と対峙する」と坂手氏は高らかに宣言しているのだ。

 ワタシは『沖縄ミルクプラントの最后』(1998)、『ララミー・プロジェクト』(2001)などの緻密な取材・フィールドワークに基づいた燐光群(坂手氏)の作劇法を高く評価してきた。リアルなセリフと場面を積み上げることで、その小さなミルクプラント工場やララミーの町が目の前に立ち上がり、やがてその舞台から世界に向けて鋭い刃を照射する…。

 その人びとの暮らしの中から掬いあげ、紡ぎだした小さな物語を集積する手法は、小川プロが膨大なフィールドワークから編み上げた傑作ドキュメンタリー『ニッポン国・古屋敷村』(1982) にも通じ、あるいは表現(表出)方法は大きく異なるものの、じつは青年団(平田オリザ氏)の諸作とも相通じるものがあると、ワタシは感じていた。

 そうした〈ジャーナリズム演劇〉ともいうべき手法を習作(?)として、さらに〈物語〉として結実させたのが鶴屋南北戯曲賞をはじめ多くの賞に輝いた『だるまさんがころんだ』(2005)であったかと思うのだが、本作もその延長線上の成果のひとつとして数えられるに違いない。

 ポストトークで坂手氏が明らかにしていたように、本作はヘリ部隊移設で揺れた「徳之島」をモデルにし、実際に町長をはじめさまざまな島民から話を聞き、また後に推進派・トミオカとなる人物とも酒を酌み交わしたという。

 それだけに、島の活性化を願い、基地の誘致を切望するトミオカのセリフの数々は胸に染みる…。「島の人口は減るばかり。このままでは島はなくなってしまう」「島を救うのは基地しかない。他に方法があったら教えてほしい!」…。その一方で、沖縄出身のシンジョウ(車椅子のはしぐちしんが好演)の「普天間基地で働く沖縄人は191人しかいない。基地は島を豊かにしない!」「名護市の平均月収は16万円。シャッター商店街はこの島よりひどい…」というセリフもじつに説得力を持つ。

 「ドイツでは食品の放射能は→飲食物に含まれる放射性セシウムの限界は8ベクレルまでなのに、なぜ日本では200ベクレルまで許されているの!?」といった〈啓蒙的な〉セリフも、鼻白むよりも先にやはりドキリとさせられる…。

 もっとも、冒頭に触れたように原発事故~放射能汚染まで話を広げてしまったのは、やや余計だったように思える。登場人物同士が「自分話をしない」という〈縛り〉をかけたことで、かえって観客の想像力を喚起し、この島に逃れてきた背景に当然それがあることは十分に伝わったはずだからだ。

 もちろん話の結論は何も出ない。避難民をも巻き込んでの大騒動の末、基地移設話に振り回された島民たちはまた元のように、推進派と反対派に分かれたまま生活を共にしていく…。その結末に異論はない。それこそがまさに「現実」だからだ。

 意外だったのは、最後に演者たちが全員登場して「しまうた」を円舞したことだが、ややありきたりの演出。これじゃまるで「ふるさときゃらばん」だ(苦笑)。やはりフィールドワーク派だった「ふるきゃら」はあらぬ方向(道路特定財源による道路整備啓発ミュージカル)に行ってしまったが、燐光群には深く思索へと向かう終幕のほうが似つかわしかったかと思う。
(2011年6月9日観劇)

(編注)「道路特定財源が仕込んだミュージカルの秘密」(「保坂展人のどこどこ日記」2008年02月15日)

【著者略歴】
 森口秀志(もりぐち・ひでし)
 1960年東京生まれ。明治大学政治経済学部中退。編集・制作会社(有)結プランニング代表。著書に『「在日」外国人』『これがボランティアだ!』など。多文化・ジャンル横断批評ブログ「@らんだむレビュー」を連日更新中。

【上演記録】
燐光群「推進派」
作・演出 坂手洋二
下北沢ザ・スズナリ(6月8日-19日)
伊丹 AI・HALL(6月21日-23日)-坂手洋二インタビュー
愛知県芸術劇場(6月25日-26日)

出演:
はしぐちしん 猪熊恒和 大西孝洋
中山マリ 鴨川てんし 川中健次郎 杉山英之
松岡洋子 樋尾麻衣子 安仁屋美峰 武山尚史
鈴木陽介 橋本浩明 桐畑理佳 横山展子 根兵さやか

スタッフ:
照明○竹林功(龍前正夫舞台照明研究所)
美術○じょん万次郎
衣裳○宮本宣子
音響○島猛(ステージオフィス)
舞台監督○高橋淳一
演出助手○城田美樹
文芸助手○清水弥生 久保志乃ぶ 
美術協力○森下紀彦
宣伝意匠○高崎勝也
徳之島アドバイザー○HiRO
協力○コンブリ団
Company Staff○西川大輔 向井孝成 宮島千栄 秋葉ヨリエ 内海常葉
制作○古元道広 近藤順子

名古屋公演 制作協力○加藤智宏(office Perky pat) 西杢比野茉実(少年王者舘) 七ツ寺共同スタジオ あいち燐光群を観る会
文化芸術振興費補助金(トップレベルの舞台芸術創造事業)

入場料:
一般前売3,300円 ペア前売6,000円 当日3,600円 大学・専門学校生2,500円 高校生以下1,500円

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