▽黒川陽子(劇作家)
★★☆(2.5)
プリズムのような魅力のある舞台だと思う。
ひとつは俳優の主体性について。俳優は台詞を発しながら特徴的な動きをし続けるのだが、そこには一定のルールがあるのに加え、全員で同じことをする。つまり、ゲームのようである。ゲームの持つ強制力の下、俳優は疲れが溜まって苦しそうな顔をすることもあれば、動きが台詞と共鳴し、急に熱心に話し始めることもある。この「やっている」と「やらされている」のあわいを俳優が行き来するのは新鮮だ。
また、同じ台詞が異なる動きの下で繰り返されることがあるが、例えば壁を全力で押しながら発せられれば悲痛な響きに、皆で跳ね回りながら発せられればワクワクした雰囲気にというように、台詞が色合いを変える。そこで話されている内容―夢に出てくる思い出と混じり合ったとき、何気ない一瞬の様々な色彩を表現しているようで美しい。
今後、プリズムがより大きな光を放てるように研ぎ澄まされればいいと思う。
(7月3日14:00 観劇)
▽西川裕(会社員)
★★★★
うさぎストライプの公演を観るのは2回目。前回公演の「おやすみなさい」から、着実に成長しているように感じた。パンフの作り方(QRコードの使用)や、Youtube・ツイッターでの宣伝も多くの人に見て欲しいという形の現れではないだろうか。 @usagi_stripeをフォローしているが、最寄りの小竹向原駅から会場となったアトリエ春風舎までの道のりをツイッターで案内するなど、初めての方に来場しやすい雰囲気をつくっている点にも共感した。「うさぎ」のキャラクターもかわいい。
40分という短い公演時間いっぱいを使って、役者は全身で感情を表現する。その迫力に感動した。全力で「何か」をしている人間があれ程までに迫力を持つ事に初めて気付かされた。
全力で枕を投げる、全力で踊る、全力で運ぶ、全力で壁を押す。
全力で身体を使う事で、肉体と感情がリンクする。
それが人間の覇気とも云える【迫力】を生み出していた。
しかし前回、今回の公演は劇団うさぎストライプにとって、まだまだ準備段階なのではないか。うさぎストライプは、ここから見えて来る何かを捕まえようとしている。そんな気がする。
(7月3日18:00 観劇)
▽江村清(タイポグラフィカル・アーティスト)
★★★★★
大池容子は、夢分析のフロイトの遺伝子を生まれ付き所有しているようだ。夢にこだわり、夢に戯れ、夢を紡ぐ。まさに、痛快な恐れを知らぬ新世代の演出家である。相対性理論のBGMが舞台と客席との緊張を解きほぐす。そして舞台は始まった。
約束通りの魔女三人、ついでに男一人。“うろ覚え” だから大いに遊んで宜しい。
王位を争う野望を現代の日常に滑り込ませて、枕を投げる。息は続く、身体は叫ぶ。
綾取りのような言語と身体の飽くなき相克の時空は、シリアスである程、正当な喜劇の世界に誘う。そうか、これはまさしく沙翁の四代悲劇の一つ“マクベス”を両双界を併せ持つメビウスの輪のように裏から光を当ててみたのだろう。つまり、悲劇は喜劇でもあるということか。魅惑の大池ワールド。いずれ平田オリザ氏の森田正馬的世界さえ突き放す新世代の旗手であることは、疑いのないところである。
(7月2日14:00 観劇)
▽福田夏樹(演劇ウォッチャー)
★★★
最近、自分はなぜ演劇を観るのかということをよく考えている。ひとつの答えは、演劇をきっかけとして、日常の豊かさや楽しみを教えられるからではないか、と何となく思う。
本作に私は心を動かされたが、何に心を動かされたか。ストーリーはどこかで聞いたような、死んだ男と、生きている男と、その両者と付き合った女の話。真新さはない。じゃあ、どこに、と突き詰めると、ストーリーとは無関係に行われる枕投げの楽しさであり、劇中流れ続ける相対性理論その他の音楽と、それに合わせて踊る楽しさではなかったか。そう感じたとき、私は悔しいと思った。自分はその楽しさを客として眺めることしかできない。相対性理論を流した部屋で、枕投げをできる仲間がいれば、こんな演劇は観ずとも、もっと楽しいのではないか。日常にそんなちょっとした楽しみすら持つことができないから、私は劇場にいるのではないか。
作品自体は、演劇として野心的でもあった。螺旋のようにストーリーが進む構成、一つの役を三人で分ける配役、身体への負荷によるセリフでの感情の発露など、演劇として、実験的で面白い部分はたくさんあった。おそらくはそういった試みが無意識に及んでのことであったとは思うが、でも私はこの作品の良さそのものが、単純に相対性理論っていいよねというのと、枕投げって楽しいよねということだったように感じてしまっている。果たしてそれはいいのか、悪いのか。よっかかりすぎではないか。その判断は留保させて欲しい。
私情を多分に挟んでの観劇であり、結局評価すべきは相対性理論なのではないかという思いもぬぐえないことから、真ん中の星三つ。正直なところは判断不能です。
(7月3日18:00 観劇)
▽大泉尚子(ワンダーランド)
★★
テキストは比較的シンプルな、若い夫婦の短い会話。これが何度も繰り返されるうち、いくつかの事柄が浮かび上がってくる。夫は企業の開発チームに属し、妻は夢遊病にかかっている。夫には、大学時代に一緒に研究をしていた仲間がいる。彼は大学で研究を続けて賞をもらったが、死んでしまった。そして、水面下に潜む3人の微妙な関係性 etc.
夫役は1人が演じるが、妻役を演じるのは3人の女性。4人は、手遊びをしたり、枕を投げ合ったり、壁を力一杯押したりと、セリフとまったく関連性のない、連動的でゲームのような動きを、次々に繰り広げる。動きはだんだん激しくなり、男性が女性を抱いて運ぶというところなどでは、当然のごとく、男性の息が上がっていた。「役者に負荷をかけるのが好き」という演出家の言葉を時々聞くが、ここもそうなのかなあ…。ただ、そうした言葉と動きのズレ、役を順送りにしていくことなどが、すでにお約束事のようになっていて「こなしてる」印象。そこから先に何が出てくるのか、この公演だけでは判断できない。
天井を4つに区分けした乳白色の照明や、流れ続けるロックバンド「相対性理論」の曲が、ぼんやりとした浮遊感を生み出していた。
(7月3日14:00 観劇)
▽プルサーマル・フジコ(BricolaQ)
★★★★☆(4.5)
最初観て、やばい、もしかしてこれ好きかも? と思って、次の日また観に行った。そして思いました。好きでした。基本、爽やかだけど微妙にアンニュイな中毒性。これは劇中曲に相対性理論を用いてるから、だけではない。カラフルな照明、パジャマ、アンケート、キャラクターの絵。そうやってブランディングされた小世界の中で、女3人、男1人がえんえんプレイを続ける。もはやスポーツのように(これは東京デスロック『LOVE』の遺伝子か?)、壁を押す。動かない。枕を投げる。痛くない。すべては結局《無駄》でしかないのだが、それによってこそ彼らの、そしてそれを観るわたし(たち)の存在が証明されるような説得力もあった。しかも《かわいい》。今は詳しく書けないけど、固定観念の呪縛から解放され、自由にのびのび生きてくためにも《かわいい》はほんとに大事。
手法もテクストも既視感だらけだが、そのデジャヴュをむしろ軽やかに遊んでやろうといった、絶望の裏返しとしてのポジティブさ。そしてそれを可能にするだけのリズム。しかも《かわいい》顔の下には、ぺろりと舌を出すような若干の不埒な匂い(?)もあり。
とはいえこれで大満足は全然できない。楽曲の使い方にもうひとアレンジ施すなど、シンプルな中にも複雑性は導入できるはずだし、上演時間の拡張などによっても、さらなる破綻や悪魔性や重力感(とだからこその浮遊感)を呼び込めそう。容れ物として、その余地とのびしろを感じるし、このユニットのみならず、作・演出の大池容子の今後の活動(青年団若手自主企画とか)にも注目したい。何度も観に行きたいと思わせるのはやっぱりただごとではないのです。
(7月1日マチネ、7月2日マチネ 観劇)
▽都留由子(ワンダーランド)
★★☆(2.5)
そうか、マクベスって夢の話だったのか。男性2人と女性1人の学生時代を、今は夫婦となった男女が繰り返し思い出し、何度も夢で見てその話をする。ひとりの人物を何人かの役者が演じたり、同じような場面が繰り返されて少しずつ状況が見えてきたりという手法は、それほど珍しくはないと思うが、役者は、壁を押したり、枕をパスしたり、人を抱えて運んだり運ばれたり、枕でドッジボールをしたり、いろいろやることがあってとても忙しそう。台詞とは無関係にめまぐるしくしておくこと、力仕事や運動を続けることで、新たに舞台上に見えてくるものがあったのだろう。しかし、残念、わたしには見えてこなかった。あ!と思う瞬間は確かにあったのだけれど。
終始流れる音楽をつい聞いてしまったこと、めまぐるしい動きがゲームのようで、つい見てしまったのが原因か。そのどちらも魅力的だったのだが、向こうにマクベス夫妻の影がほの見えたらもっとよかったのに。
(7月1日マチネ 観劇)
▽鈴木励滋(舞台表現批評)
★★★
当日パンフに“「全力で壁を押す」「人を持ち上げて運ぶ」などといった、乱暴かつコミカルなうごきによって、俳優の身体を切迫した状況へ導く”というのが大池容子の演出の特徴だと記されている。
こういうのって大抵の場合、前回までのことに言及するものだと思うのだが、今回の公演でまったくそのままをやってみせた。わたしは初めて観たので判らないが、前の二回の公演でも人を持ち上げ、壁を押したのだろうか。
俳優に負荷をかけることの効果は、俳優そのものへのものと観客へのものと、大きく二つあると思う。前者で思い浮かぶのが、延々と同じ振りを繰り返させる先に「嘘がつけない身体」を現出させる、という黒田育世。後者は三条会の関美能留や東京デスロックの多田淳之介だと思う。関は、俳優に女(しかも大きな)を担ぎながら強く速く発話をさせ、観る者が発話内容のみを受けとり流れていくことを拒むかのような演出を施す。
だが、この作品では、女を持ち上げるやいなや男の息は上がり、女は壁のひと押し目に絶叫となった。千穐楽にありがちな「慣れ」かもしれないが、負荷がひとつの形式と化してしまったのではないか。残念なことに、わたしには俳優たちの身体に切迫した状況を感じられることはなかった。むろん、これは俳優たちのせいだけではないだろう。大池が、どうして負荷をかけねばならぬのか、「切迫した状況」の先に何を表したいのか、という問いを深めなければ、表現に強度はもたらされないのではないか。
(7月3日 観劇)
▽徳永京子(演劇ジャーナリスト)
★★★★
去年の暮れの第0回公演『おやすみなさい』で心地よく感じた清冽さと頑固さ、そのふたつは言ってみれば若さの変奏だが、間に1作品を挟んだ今作の大池容子の作・演出には、すでに貫禄が漂っていた。ぬけぬけと嘘をつく軽やかなたたずまい。軽やかさを切なさへと上塗りする手際の良さ。劇作家としても演出家としても、急激に成長していて驚いた。
夢遊病を患っているらしい妻と、優しい夫。夫の「ただいま」から始まるふたりの会話は、丁寧な歯磨きのように品行方正で習慣的だ。だが、現実の出来事を話す夫と、夢の話をする妻のキャッチボールは、次第に、若くして亡くなったふたりの同級生の存在を浮かび上がらせ、決して無傷ではなかった3人の過去をつまびらかにしていく。
ストーリーは類型的な三角関係。だが、ひとりの人物を複数の俳優がシームレスに演じたり、壁押しやドッヂボールなどストーリーと関係のない動きをすることで、夢を見るという不可思議な状態を生々しく立ち上げる演出が、見事に背景をふくらませた。
(7月2日18:00 観劇)
▽北嶋孝(ワンダーランド)
★★★
若い夫婦が、亡くなった学生時代の共通の友人を話題にするお話。と言ってしまえば身も蓋もないけれど、男2、女1の微妙な三角関係がモチーフ。だから「マクベス」よりもトリュフォーの「突然炎のごとく」や漱石の「こころ」の世界を思い浮かべる方がいいかもしれない。これを男1、女3の配置で繰り広げる。ちょっと甘く、それ相当に切ないヒ・ミ・ツだからこそ、まるでミニマルミュージックの方法を彷彿とさせるように、同じセリフを繰り返し立ち上げ、角度を変えて何度も変奏しなければホントのところは浮かび上がらない。身体に負荷をかけるのもそのひとつのプロセス。その先には、ほのかに「死」が見えてくる。ときに苦く、折おり淡く-。これが、うさぎストライプの通奏低音ではないだろうか。
身体に負荷をかけるという方法がこのユニットの特徴だと自己認識されているとしたら、逆にそのコンセプトが自分たちに負荷をかけているのかもしれない。もっと自由に、もっと伸びやかに。未知の領野に分け入るには、また未知のツールを手に入れなければならないはずだから。
それにしてもどうして登場人物が全員、パジャマ姿に靴、なのだろう。年末の旗揚げ公演は同じパジャマ姿でも素足だったのに。
(7月1日14:00 観劇)
【上演記録】
うさぎストライプvol.2「おやすみなさいII」
アトリエ春風舎(6月30日-7月3日)
作・演出:大池容子
原作:ウィリアム・シェイクスピア「マクベス」
出演:亀山浩史、森岡望(青年団)、森祥恵、村松みさき(村松みさきプロデュース)
照明・舞台監督:黒太剛亮
音響:植木麻衣子
ドラマターグ:金澤昭
ブランディング:西泰宏
企画制作・主催 うさぎストライプ
協力 青年団
【料金】予約 1,500円・当日 1,800円
「うさぎストライプ「おやすみなさい II」(クロスレビュー挑戦編第10回)」への5件のフィードバック