Pカンパニー「どこまでも続く空のむこうに」

◎開かれなかったテクスト
 間瀬幸江

Pカンパニー公演チラシ
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 静かな破壊力で阿藤智恵が新境地を開いた前作『曼珠沙華』から5カ月、待望の新作上演であった。『どこまでも続く空のむこうに』(小笠原響演出、Pカンパニー)の主人公は、『曼珠沙華』の登場人物と同じ「J」(ジェイ)。それを同じ役者(長谷川敦央)が演じる。二つの作品が響きあい、ポスト震災の阿藤ワールドの全貌が見えるであろうとの期待を抱かせるに十分なお膳立てである。しかしながら、前作にはあった破壊力はなかった。ところどころで違和感を覚え、テクストと上演作品との相関関係を考えさせられた。

 傾いた木の柱が一本。赤茶けて土塊が転がる地面。あちらこちらに転がる、底に凹凸のできた鍋釜。日差しは強そうだが、暑いかもしれないし、寒いかもしれない。どこか殺伐とした雰囲気。比較的最近、ここは戦争か災害に見舞われたかもしれない。あるいはそうした惨禍を逃れてきた人々が細々と暮らしているかもしれない。
 客電が落ちてしばらくすると、客席右奥から舞台に向かって長身の若い男が一人、ゆっくりと歩いてくる。白いシャツに黒いズボンというシンプルないでたちには、どこか悲壮感が漂っている。やがて男は舞台下手へと、姿を消す。男に一体何があったのか。何をしにここまで来たのか。いったいどこへ消えたのか。なぜ客席から舞台へと歩んでいったのか。こうした問いへの直截的な答えは一切提示されぬまま、短い無言劇が終わる。 
 と、若い女が弾むようにすべるように現れ、高い声で唄い始める。どこのことばかまったく分からない、呪文にも似た声の調子から、精霊のようにも感じられる。続いて初老の女が、かごに山盛りになった洗濯物を抱えて登場。若い女を見知っているらしく、彼女に親しそうに話しかけながら柱にロープをかけ洗濯物を干していく。そこへ彼女らの知り合いらしい赤い服の娘がさらに一人。もう少し年齢が上であるらしい黄色っぽい服を来た新参者の女がさらに一人。そこにさらに青い服を着た若い女がもう一人、叫びながら助けを求めて現れる。女たちは一斉に舞台袖に引っ込み、行き倒れたらしい男を発見、力を合わせて男を助け出し地面に寝かせる。
 白いシャツに黒いズボンの男は目をつぶったまま。中東をイメージしたらしい色とりどりの服装の女たちは、彼に一目で魅せられる。目を覚ました男は、女たち一人一人に、名前をつけていく。歌の好きな若い女はキャシー、洗濯物を干していた初老の女はドロレス、新参者の年長の女はアイリーン、倒れていた男の第一発見者となった女はさなえ。一人残された若い娘は、自らをンバキと呼称すると宣言する。男は自らをJと名乗り、ここにとどまることになる。
 彼は時折、キャシーの歌声に乞われるようにして、実話らしき物語を彼女たちに話して聞かせる。「行って帰って来た物語」では、彼はかつてここの人間であり、ここを去り地表をまっすぐに歩き続けて戻って来たのだと語る。「おもちゃの畑を歩いた物語」では、地雷の埋まった畑をまっすぐに歩いた話が、「長い長い行列の話」では、たくさんの柩を運ぶ人々の長い行列の話が、そして「へだてられた町を歩いた物語」では、周辺地域との交流が遮断されたところに暮らす人々の人間模様が語られる。女たちはJが語るごとに聞き入り、驚き、問いかける。
 キャシーの歌の内容を把握できるJに倣うかのようにキャシーとの心の距離を縮めていくンバキ、Jの心を動かそうと躍起になるさなえ、直接的な行動は起こさないまでもJにひそかな思いを寄せる年長の二人。しかし誰一人として、Jと男女の関係にはならないし、なれない。
 そしていつしか、Jがここを去る日がやってくると女たちは察する。その日がすでにやって来たのかまだなのかも明確にされぬまま、Jは再び舞台を離れ、客席の左側の階段を静かに登っていく。Jの後ろ姿に向けて歌いかけるキャシーに倣うかのように、女たちは声を必死に張り上げおもいおもいに即興で節をつくりながら、Jを見送る。

 あらすじをことばで追いかければ、以上のようなことになる。どこからともなくやって来る男と、それを迎え入れる女たちという、5人の登場人物の心の交流の物語。しかし、実際に舞台を観ていて、その「心の交流」にどこか空々しいものを感じた。キャシーは男か女か、あるいは人間でない何か異形の者なのか不明だが、いずれにせよ、なぜ誰もキャシーを不気味に思わないのか。また、なぜJは彼女と意志の疎通をはかれるのか。ドロレスは一番年長らしく落ち着いているふうだが、他の女たちにとって彼女はどういう存在なのか。新参者のアイリーンは内気そうだがなぜ人見知りせずにそこに居続けられるのか。何よりも、Jがやってくる前に、名前もなしに彼女たちは何を共通項として共同体を形成し維持してきたのか。そしてまた、女たちがJに心ひかれる理由が分からない。彼女たちのJへの恋心は、この作品の主筋をつかさどる動力源なのだが、それにしても、どこの誰とも知れぬ男に彼女たちはなぜ無防備に心をひらき愛情を注げるのか。倒れていたJを担ぎ込み、「いい男ねえ」と見入ることができるのはなぜか。何らかの事情で男のいない生活を余儀なくされた女たちが、生物学分類上の男と久しぶりに遭遇し一気に色めき立つ、ということでもないらしい。とりわけ、さなえがJに思いを伝えるシーンや、アイリーンがJに出会ってから自分は変わったと女たちに告げるシーン、そして幕切れ近くでJが「人には喜びあうということだけしかできないのだ」と人間存在の無力さに言及しそれにドロレスがしみじみと相槌を打つシーンは、歯が浮くようでむずむずした。Jの発語は常に一本調子で、およそ情熱的ではないし、Jが語る四つの話は、およそ心ときめく内容ではないからである。
 総じて、いたるところで肯定される「愛」や「善」が表層的で無根拠に見えたのが一番気になった。凄惨で陰鬱な描写を多く含むJ(ジーザスを想起させるアルファベットである)の話に耳を傾ける女たちからは、宗教を自由意思で選択するよりも前に、司祭の話に耳を傾ける子供の反応にも似たナイーブさが感じられた。

 『テアトロ』4月号に掲載された戯曲にも目を通したが、舞台から受けた違和感は解消されず、さらに疑問が増えた。たとえば、Jが女たちに話して聞かせる四つの物語のくだりは、他の台詞やト書きの部分とは異なり、句読点がまったくない。台詞よりもむしろ詩歌に近い。また、キャシーの唄にはすべて含意が付されていた。ト書きには、キャシーの「唄にはどれも詞(ことば)や身振りがない。しかし、鋭敏な耳をもつ観客の中には、その唄の語るところをはっきりと聞きとる者もあるかもしれない」とあり、たとえば「行って帰ってきた物語」の直前、キャシーがJに差し向ける唄の含意は「物語を聞かせて あなたの物語を きっと思い出すでしょう皆 あなたを知っていると」である。果たして、Jがかつて「ここ」を出発し、「ここ」に帰ってきたことがが、「行って帰ってきた物語」の重要な主題である。なるほど、キャシーの唄と、Jの物語とは一種の照応関係にあるらしい。Jを愛する女たちが、キャシーを不気味に思わない所以であろう。しかし、劇作上のこうした指定にも関わらず、多くの観客にとっては、キャシーの歌は意味の不明な高音の連なりにしか聞こえなかったのではなかろうか。登場人物同士がいかに共感し合っていようとも(あるいは共感し合っているからなおさらに)、それを目撃する観客が感じるのは共感よりも違和感あるいは異物感ではなかったか。
 また、ト書きが非常に長いのも気になった。冒頭で「プロローグ」と題された長いト書きは、むしろ小説の一節に近い。

 何もない舞台。あるいは(予想によれば)どこかに古びた電信柱が一本、立っているかもしれない(が、それはこの世界にとって、あっても構わないが、別段必要でもないものである)。/客入れの照明が落ち、ひとときの闇の後ゆっくりと夜が白み始めると、まだ薄暗い中を、客席上手後方から一人の男が歩いてくる。かすかな衣ずれ、床を踏む音も聞こえるほどの無音。男はまっすぐに前を向き、一歩一歩を踏みしめて、客席の階段を降り切るとそのまま舞台へあがっていく。夜はその間も、次第次第に明けていきつつあって、男が舞台に上がり、ごく自然な曲線を描いて下手袖に向かって行く時、ちょうど舞台中央に差し掛かるころ、太陽の初めの光が、この世界にひとすじ差しこむのである。男はふとそれを感じたのか振り返り、光を見る。男が微動だにせず見つめているうちにも光は動き続けていて、一瞬たりとも留まることはない。ありふれた朝の始まりのひとつ。地球上でただのいっときも休むことなく太古の昔から続いてきた光の無言劇。今この瞬間にも世界のどこかで朝は訪れているが、闇に慣れた目をそばめることもせず、その光を見つめる人間の数が増えているのか、減っているのかを数えるものはいない。

 これで、「プロローグ」全体のわずか三分の一の分量である。「舞台」「上手」「客席の階段」「照明」「下手」などの演劇用語の頻出が、この作品で描かれている世界が劇場らしき場所で提示されねばならないという制約を示唆しているとはいえ、実際にこれを舞台にのせるにはどうしたらいいのか、一読しただけでは分からない。

 筆者は『テアトロ』2011年10月号掲載の阿藤の前作『曼珠沙華』を、担当する大学の演習「劇テクスト研究」の題材として用いたことがある。関西出身のある学生は、読むだけで涙が止まらなくなったと言った。またある学生は、一読した限りでは舞台のイメージがさっぱり湧いて来ないので、いっそ上演してみたいと言った。また演出家として自ら舞台制作を行っているある学生は、『曼珠沙華』を実際に上演しようと稽古をしてみたところ、かなり達者な役者を選んだにも関わらず、「下手くそな役者二人が、見え透いた労わり合いする二人の人物を無理に演じているようにしか見えなかった」と告白した。こうした「分かりにくさ」は、『曼珠沙華』よりも前の作品には見られないものである。Pカンパニーでは別役実作品との日替わり公演となることが多かった阿藤智恵の過去の作品(『しあわせな男』『死んだ女』『バス停のカモメ』など)は、人間関係の構造の根幹の部分をあえて隠すことで対話の不条理性を浮き上がらせる別役作品(この構造については、別役実著『ベケットといじめ』に詳しい)に相通じるものがあり、「隠れていない」部分の人間関係は、むしろ丁寧に書きこまれていたと言える。劇団椿組に書き下ろされた『ささくれリア王』(2009年4月、ザ・スズナリ公演)にしても、プロットは明確だったし体温の高い人間関係がくっきりとしていて、およそ『曼珠沙華』の「分かりにくさ」とは遠い作品であった。

 阿藤智恵に一体何があったのか。キーとなるのははやり、一年前の震災なのだろう。2012年1月、早稲田大学の学生有志により実験上演された『曼珠沙華』のポストパフォーマンストークに登壇した阿藤は、震災直後を振り返り、「家族や友人を津波で失い、絶望のなかでかろうじて生きている人に、生きて欲しいと願う傲慢さ」を考え葛藤したと述べ、その経験が書き手としての自分にダイレクトに影響したことを認めている。その葛藤を経た阿藤は、劇作家として「ことば」だけにこだわるのをやめたのではないか。伝わりやすいことばを生み出すためには、誰が、どんなことばを、何の目的で話しているか常に自覚的である必要がある。しかしその自覚があろうとなかろうと、本当に絶望している人に「伝わりやすい」ことばなど、ないのではないか。だからこそ、『曼珠沙華』以降の阿藤作品はとりわけ、読んだだけではなにも伝わらない、そういうことではないだろうか。
 こう考えると、『曼珠沙華』の破壊力の主原因はことばそのものではなかったことが分かる。ことばのレベルですれ違い続けているJとPに、がっぷり四つに組んで稽古を続けた長谷川敦央と林次樹の身体的リアリティが重なったことで、慈善でもなく、無理な解釈でもなく、愛ある無関心でもない、何かもっと別の仕組みに根ざしたコミュニケーションが、形象化されたということなのだろう。あの舞台はあの二人でなければ成立しなかった、と阿藤は明言している。ではその成立に至る道のりで何があったのか? 阿藤は、演出の冨士川正美と連携しながら「同じ場面をあれこれ試してもらい、これだと思ったものを一つずつ見つけて確定していっただけ」だと言う。何が出てくるか分からぬままに、ただ役者による発語と空間認識とを稽古場で実験し続け、作品を仕上げるところまでこぎつけたのだ。あの破壊力ある舞台を生んだのは、役者一人一人の個別の息遣いや声の調子、相手の発語を受けての瞬時のリアクションなど、そもそもテクストにあらかじめ記されようのない数多の要素の競合だった。
 そして、ト書きの分量や発語のための指定の特異性を見るにつけ、『どこまでも続く空のむこうに』は『曼珠沙華』よりもさらに難解なテクストに違いない。ステレオタイプの中東諸国を連想させるような衣装やセットを採用し、紛争地域を生きる女たちという「対岸の火事の物語」をテクストに上書きしたのは、「下手くそな役者たちが、見え透いた労わり合いする人物たちを無理に演じているようにしか」見えない状態に陥りやすいこの難解なテクストを料理する一つの方法ではあったろう。ただし、二年前であればまだしもひとつのフィクションとして受け止められたかもしれないこの「物語」は、今の私たちには空虚な絵空事に見えてしまう。このテクストを生かす方法は、解釈(しかし咀嚼されてさえいないオリエンタリズムを「解釈」と呼んでもよいものか)の上書きではなく、ひたすら問いを発し続けるということではなかったろうか。「テクスト自体が疑いによって生じたものなのだから、それに「忠実」であろうとするならば、まず疑う」必要があるのだと、阿藤は言う。発語し続け、問い続けることによって、テクストが開かれるのを待つか、上書きすることによって早々にテクストを閉じ、演出を確定するか。欲張りな観客としては、前者の考え方で作られた舞台が是非観たかった。

 かつて阿藤智恵は、演出も手がけていたが、数年前から劇作に専念するようになった。しかしこの『どこまでも続く空のむこうに』を演出するためだけに、もう一度演出家に戻ってはもらえないものか。しかし阿藤は「わたしが演出したところで、納得の作品ができるかどうかは分からない」と答えるだろう。それは、稽古場での試行錯誤が好ましい結果にいきつくかどうかは、やってみなければ分からないというごく当然の理由による。人の心に刺さる演劇作品とは、複合的な要素が相互に乗り入れるなか、奇跡的に誕生するものなのだと実感させられる。改めて、これまでの自分の観劇体験を振り返り、心に刺さった舞台の記憶を大切にしなければならないと痛感した次第である。そして、その体験を個別の「物語」へと組み上げる自由は、観客にだけはあってよいと思っている。

【筆者略歴】
間瀬幸江(ませ・ゆきえ)
 2010年4月から、早稲田大学文学部助教。ジャン・ジロドゥ研究に軸足を定めつつ、フランス古典劇~近現代劇全般を視野に収めて研究を継続中。著作に、『小説から演劇へジャン・ジロドゥ話法の変遷』(早稲田大学出 版部、2010年)、「フジタとジロドゥ―知られざる《邂逅》をめぐって」『比較文学年誌』47号(2010年)などがある。目下、寺山修司におけるジロドゥからの影響関係についての小論を準備中。昨年から進行中の研究テーマは、フランス19世紀後半~20世紀前半における、舞台美術家兼挿絵画家たちの人的交流ほか。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/category/ma/mase-yukie/

【上演記録】
Pカンパニーどこまでも続く空のむこうに
池袋シアター・グリーン BOX in BOX THEATER
2012年3月15日(木)-20日(火・祝)
別役実VS阿藤智恵 日替わり公演Ⅳ
作: 阿藤智恵
演出: 小笠原響
出演:長谷川敦央、茜部真弓、長浜奈津子(劇団俳優座)、須藤沙耶、木村万里、木村愛子

(別役実VS阿藤智恵 日替わり公演Ⅳから)
ほかにAプログラムとして別役実「会議」が上演された。
作: 別役実
演出:冨士川正美・林次樹
出演:本田次布、内田龍磨、森源次郎、上杉陽一(演劇集団円)、要田禎子(劇団昴)、服部幸子(劇団昴)、松浦裕美子(PAC)、菊池章友、吉岡健二、富岡崇興(フリー)、一川靖司、宮川知久

●スタッフ
照明:石島奈津子(東京舞台照明)
音響:木内拓(音映)
美術:松岡泉
衣裳:友好まり子
音楽:日高哲英
舞台監督:大島健司
宣伝美術:松吉太郎
イラスト:矢戸優人
協力:別役実
制作:Pカンパニー

●料金:前売り・当日共 一般:4,500円 学生割引:3,500円
 ABセット券(前売りのみ)一般:8,000円 学生割引:6,000円


“Pカンパニー「どこまでも続く空のむこうに」” への 4 件のフィードバック

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  3. ピンバック: 間瀬幸江
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