劇団鹿殺し「無休電車」

◎泣き顔の青春グラフィティ
 岡野宏文

 しょっちゅう尊敬しているものだからまるで無分別のように見えなくもないが、わたしの畏敬する歌手・中島みゆきは、「ファイト!」という素敵な青春応援歌の中でだいたいこんなようなことを歌っている。正確な歌詞を書き写せないさる陰険な事情のあることはお察しいただきたい。

 −闘う君を闘わないものが笑うだろう。だけど、ファイト!  君はつらさの中をのぼっていけ

 今から書く劇評において、批評される舞台は「闘うものたち」の作り上げたそれであった。そして私は、嗤っていはしないものの、少なくとも「闘わないもの」なのだった。まったく、この業界において私ほど闘わないものは珍しいといわねばならない。へこたれることにかけて私はかなり卓越している。朝目が覚めたといってはへこたれ、部屋から玄関までが遠すぎるといってはへこたれ、なんのかんのといってはへこたれてばかりいる。

 そこで、「闘うもの」と「闘わないもの」はセーヌの左岸と右岸にたたずむ二人の人に似ていることになる。いや、別に善福寺川でもいいのだけれど。とにかく、両岸にそれぞれ向かい合って立つ二人にとっては、流れが逆方向なのである。同じ右へスタートを切ったとて、わたしはヘナチョコにあえなく水に流されていくだけだ。踏ん張って流れをさかのぼっていく方の裳裾にも触れる暇がない。その遠近法を手元に以下をお読みいただきたい。

 まず劇団名の「鹿殺し」。なかなか物騒な名前ではある。舞台の上で鉈を振り上げ生きた鹿をベッチョベチョに屠りちぎり、血みどろになったところをわしづかみにして奇声とともに客席にぶちまけては、いやがるお客に生レバーを強引にほおばらせ、舞台と客席の一体感というか「鹿の一体」感を生臭く分け合うと、そういうお芝居では一切ない。

 劇団名とはうらはらに、ロックバンドでもある劇団員のヘビメタ演奏をちりばめたり、歌舞伎チックな扮装と見栄でコミカルな味わいを演出したり、スピードとダイナミズムを殺陣のシーンに込めてみせたり、明るく賑やかで、ストレートなエンタテインメントなのである。今回の「無休電車」でもそれらの要素は、的確な位置と波動で、物語の中にはめ込まれていた。

 そもそも2008年に「電車は血で走る」という公演があり、本作はそれの五年後の物語という設定。人物や場所も続編の形となっている。

 宝電鉄「庄内駅」にある「鹿野工務店」の栗田寛をはじめとする面々は、工務店に勤めながら劇団をやっている。前作「電車は血で走る」は、その劇団「宝塚奇人歌劇団」が休団にいたるまでの顛末を描いたストーリーだったが、今回は活動復活のお話。そのお話の冒頭シーンに、劇団代表の鹿野武が泥酔してホームから落ち轢死してしまうというモメントをもってくるのがうまい。通夜の席で解散公演のつもりで「銀河鉄道の夜」を披露したのがきっかけで、やがて活動再開への気運が高まる。つまり、銀河鉄道に乗って死者の国へ旅立ってしまったジョバンニ=鹿野武から、「どこへでも行ける切符」をもらったカンパネルラが、その遺志を継いで本当の幸せを目指してよりよく生きていこうとする、その姿を自分たちに重ねてみせるのだ。

 もちろん電車は、死者を乗せて走るあちら側への乗り物でもあるが、同時に運転士だった祖母にこと寄せられた夢の時間であり、ここではないどこかへ乗せていってくれるロマンへの手がかりであり、また高校時代の思い出へと彼らを引き戻す幻想の装置としても使われていた。舞台上にしばしば現れるこの電車は、茶色い衣装に身を包んだ人々が一列に連なって、バンド演奏をしつつ舞台上をめぐるのだったが、関西ではどのような事情だったのだろう、少なくとも私の暮らす横浜では、昭和35年くらいまではフロアや腰掛けが木製の、車体も茶色に塗られた列車が走っていたからちょっとグッときた。レトロの秋波を食らったのである。

 やがて「宝塚奇人歌劇団」は、東京へ進出することに決め、都内でのゲリラ上演を開始することになる。

 実はこれは「鹿殺し」のこれまでの歩みとほぼ重なってくる形になっている。大阪で旗揚げした「鹿殺し」は、勇躍、上京し、渋谷などでいわゆる「泥棒」の無断ライブを断行する。東京の端っこの端っこに一軒家を借りて住み込んだことも、ライブ中に警官やヤクザさんに脅かされたことも、「宝塚奇人歌劇団」とそのまま重なってくるのだ。

 つまりこのお芝居は、「私小説」というか、「私戯曲」というか、自分たちのことについて語っているという寸法。作者丸尾丸一郎演じる栗田寛は、こんなセリフを吐く。

 「自分のことを面白おかしく、書いて誤魔化しただけや。でも、自分のことも忘れてしまう。過去の思い出もそのときの気持ちも少しづつ磨り減ってしまう。だから今を書こうとするけど、今は今で現実が見えへんやろ?」

 劇団が楽しくないわけではない、しかし自分の限界というものがいつでも見える。そういう強い流れに逆らって進みたいと願う青年たちの姿が栗田の、そして「鹿殺し」の団員たちの「今」と重なってあらわれるのである。ここに、元気に跳ねて飛んで歌って走る場面展開があるからよりいっそう、その無償の汗に観るものは切なさを感じるに違いない。

 ただ、わたしには、そうしたリリシズムが、リリシズムには見えなかった。自分に対するリリシズムとはなんだろう。少なくともいくつかの「私小説」を読んできた身には、優れた作品の場合、自分のことを書くとき、おのれの過剰な絶望に対するギリギリの場所からの笑いによって成立していたと理解している。

 わたしは「鹿殺し」のお芝居を、「泣き顔の青春グラフィティ」として観てしまった。セーヌの下流へ向かって流されていくものの半畳である。

【筆者略歴】
岡野宏文(おかの・ひろふみ)
 1955年、横浜市生まれ。早稲田大学文学部仏文科卒。白水社の演劇雑誌「新劇」編集長を経てフリーのライター&エディター。「ダ・ヴィンチ」「サファリ」「e2スカパーガイド」などの雑誌に書評・劇評を連載中。主な著書に『百年の誤読』『百年の誤読 海外文学編』『読まずに小説書けますか 作家になるための必読ガイド』(いずれも豊崎由美と共著)『ストレッチ・発声・劇評篇 (高校生のための実践演劇講座)』(扇田昭彦らと共著)『高校生のための上演作品ガイド』など。
・寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/a/okano-hirofumi/

【上演記録】
劇団鹿殺し 充電前公演「無休電車」
伊丹 アイホール(2013年10月18日-21日)

作 丸尾丸一郎
演出 菜月チョビ
音楽 入交星士×オレノグラフィティ

出演
丸尾丸一郎、菜月チョビ、オレノグラフィティ、山岸門人、橘輝、傳田うに、円山チカ、坂本けこ美、 山口加菜、鷺沼恵美子、浅野康之、近藤茶、峰ゆとり、有田杏子、越田岬
福田転球、岡田達也(キャラメルボックス)、美津乃あわ

料金
一般=4,900円
学生=3,500円(各回枚数制限有)
【全席指定】


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