#1 岡田利規(チェルフィッチュ)

上演台本から戯曲集へ

柳澤 今度の戯曲集 (注7) に収録されたのは、上演台本そのままですか。それともかなり手が入っているのですか。

岡田 せりふレベルではほとんど変わっていません。読みやすいように句読点を付けたりはしてますけど、せりふ自体は変わってなくて、あとは話し手の名前というか役名が、上演台本だとあて書きなので役者名になってます。そこは書き直しました。最初は男1、女1としてたんですがが、校正の最終段階で、男優1、女優1というように変えました。そっちの方が自分の中では正確だと思います。

柳澤 例えば「男」が出てくるんじゃなくて、「演じる男」が登場するという意味ですか。

岡田 そうです。別役実さんのと僕のは違うぞとか、そういうことを言いたいわけではなく(笑い)。

柳澤 ト書きは上演台本とほとんど同じですか。

岡田 はい、書き足してません。だって、ト書きはほとんど、自分のためのメモなんですよ。出捌けとか、必要なアクションがあれば書きますが、必須のアクションが必要な場合はほとんどない。例えばそこで座らなければいけないとか、上演するとき舞台で俳優が立ったり座ったりしますが、それをいちいち台本に書くことはまずありません。ほとんどせりふしか台本には書いてませんね。

柳澤 岸田賞の審査には上演台本を提出したそうですが。そうすると、台本だけを読んで浮かび上がってくる、立ち上がってくるものがあったということになりますね。

岡田 どうなんですかねえ。さっき言ったのと同じなんだけど、戯曲自体をぼくは完成品だと思ってなくて、でも提出してくれと言われたから出したわけですけど、どう読まれたのかは見当が付かないですね。ぼくが読む場合は、その作品の世界とか、いろんな情報がぼくの中にすでに全部あるわけなので、この台本だけを読んでどんなものがどんなふうに立ち上がってくるかということは、ぼくには分からないじゃないですか。スタイルがへんてこだからびっくりして、勢いで「まあこれを選んどけ」みたいな感じかもしれないですよね(笑い)。

柳澤 実際の舞台をみていると、話しているうちに役が語りの中で入れ替わっていくことが演技のレベルで分かる。それが、台本のレベルで読んでもちゃんと分る面があったのではないですか。

岡田 さすがに、あのレベルの読み手には分かるでしょう。

柳澤 役者には、ここでだんだん役が変わっていくんだと話すんですか。

岡田 演技ってものすごく具体的なレベルの作業なので、だんだん変わっていく、ということはあり得ないんですよ。お客さんにはいつの間にか変わってるように見えるようにしたいけど、俳優には明確に、ここから変わるという指示を出さないと、演技ってできないんですよ。

柳澤 上演台本では、ここで変わるというマークはないんですか。

岡田 ありません。それは稽古で決めます。やってる本人の中でいつ切り替えるかという指示です。彼なり彼女なりが、切り替えやすいだろうというポイントをぼくが判断して提案します。そこでOKだったり、うまくいかなければ変えたり。

拒絶反応について

柳澤 先に「自分にフィットすることを求めていったらこうなった」という発言がありました。「三月の5日間」の関西公演のとき、かなり拒否反応が起きたように聞いています。多分根深い問題なんだろうけれど、単純化していってしまえば、岡田さんが身体化したもの、岡田さんの身体を通してみえてきたもの、岡田さんの身体にフィットしたものがチェルフィッチュの舞台に上がってくる。それによる制限は必ずついて回ると思う。逆に言うと、指向性の鋭さや、アンテナの感度が高くなると、受け入れられる間口が狭くなる。岡田さんの身体が持つ指向性を強くしたところで作品が立ち上がってくるから、そこに同調できないと、引っかからなかったり反発したりする人が出てくる可能性はある。いまのスタイルで活動する限り、こういうことはついて回るのではないでしょうか。

岡田 それは悩む問題じゃないような気がしますけど。余りにも当たり前で、そこを使うしかないというか、逆にそこを使わないと自分に誠実に作るということにならない。問題外ではないですか。

柳澤 演劇は、ラッピングして提出されて初めて受け取るものだと考えている人にすると、岡田さんのスタイルは料理しないまま出されたと感じるかもしれませんね。

岡田 ラッピングしているんだけどなあ(笑い)。

柳澤 実際に料理している部分が見えない人がいる。それが現実ではないかと思いますが。そこが改善されれば、拒絶反応は大幅に減るんじゃないですか。

岡田 拒絶反応をさまざまにクリアしていくことにそれほど興味はないんですよ。現実の貧しさというかショボサというか、現実の生活空間で毎日見せつけられているものを、なぜわざわざ劇場で見せられなければならないのか、せめて劇場では……と発想する人たちがいて、そう考える人たちがチェルフィッチュの舞台をみて拒否反応を起こすのは健全なことだから、ぼくとしては全然問題ないというか、ポジティブに受け止められます。

柳澤 手法として、語り手と役が入れ替わるということをしないだけでも、かなり受け入れやすくなると思うんですが。比較対象として思い浮かぶのは、新宿のタイニイアリスでやった「三日三晩、そして百年」です。セットも一応あって、物語もリニアに流れて、登場する2人の関係も固定されている。そういう作品だったら、この間の「ポスト*労苦の終わり」にあったような拒否反応はなかったと思います。広い客層から支持されたと思いますが。

岡田 その辺のさじ加減は分からない。できないんですよ。ぼくは自分のやっていることを特殊とか最先端とかいう認識がないんですよ、これはほんとなんですけど。いま考えているのは、どうやったらぼくの公演をみて怒り出す人の比率を下げずに活動を続けられるかということなんです。理想としては、できるならその比率をキープしたい。

柳澤 いまやりたいことをやりたい。

岡田 それはそうですね。

柳澤 お客が減ろうが増えようが関係ない。

岡田 いや、そりゃあ増えてほしいですよ(笑い)。チェルフィッチュの舞台は分からないという人もいるけど、3回ぐらいみたら分かるという人もいるんですよ(笑い)。

偶然と狙いと

柳澤 では今度は、この 3月に行われた「ポスト*労苦の終わり」公演についてうかがいたいと思います。基になる「労苦の終わり」(2004年11月、横浜STスポット)という作品があって、それの 2次創作というか再創作というか、半ば再現、半ば新作という形のおもしろい形態でした。前作は正方形の狭いスペースにマイクが1本立っていて、両側から観客が取り囲む形でした。空間が限られていて、身体のあり方をダイレクトにみせていく感じでした。しかし今回の「ポスト*労苦の終わり」は緻密な空間構成だったと思います。ハイビジョンじゃないけど横長のテレビが舞台に置かれていて、なんか流行りそうで流行らなかったやつですが、そういうものを使うあたり絶妙ですね。

岡田 確かにあのテレビには、ハイビジョンと書いてあったですよね。わざわざ書いてあるあたりが、微妙に古い機材だったんですけど。

柳澤 舞台のセンターからちょっと脇の所にビデオカメラが三脚につけられたまま固定されていて、そのカメラが下手の壁のあたりを捉え続けていて、それをその横長のテレビモニターにずっと映してましたね。松村翔子さんがカメラの脇で演じているとき、ルームシェアしている先輩の話をするのに正面を向いたまま「この人が、この人が」と後ろを指さすと、横長のテレビモニターに映った指先がその隣に座っている「先輩」役の山崎ルキノさんを指している、という場面がありました。あれは立ち位置がしっかり決まっていないとできないと思いますが。

岡田 あれは結局、全部偶然、たまたまです。稽古のあのシーンで彼女の動きがモニターに入ったらああいう風になった。最初から意図して振り付けたのではなく、稽古の中でそういうことが起きて、それすごくいいじゃん、ということになって固めた。

柳澤 でも公演の度に、同じようにカメラのフレームに収まる演技をしたわけですよね。稽古場で偶然発見したけれど、それをリピートできるように定着した……。

岡田 みんなそんなのばかりですよ。狙ってできればたいしたもんだと思いますけど。あの場合は偶然というより、ほとんど奇跡ですけどね。

柳澤 舞台をよく見ている人なら、あのシーンをみて、でたらめでないと分かると思うんですけど。こうならなければいけないという必然性が上演の中にあったんだと伝えることになっていたと思う。

岡田 じゃあ、これは狙ったということにしましょうか(笑い)。>>


(注7) 岡田利規 『三月の5日間』 (白水社