双対天使「赤い、赤い、赤い靴」

  少女カーレン(上ノ空はなび)が何とも言えない、飾り気なしの可愛いらしさだった。レースの縁飾りのある黒いドレス、その短いスカートからにゅっと突き出た白いふっくらした両足が、後ろに前に右に左に、赤い靴に引っ張られて、めち … “双対天使「赤い、赤い、赤い靴」” の続きを読む

  少女カーレン(上ノ空はなび)が何とも言えない、飾り気なしの可愛いらしさだった。レースの縁飾りのある黒いドレス、その短いスカートからにゅっと突き出た白いふっくらした両足が、後ろに前に右に左に、赤い靴に引っ張られて、めちゃ踊りする。もっと見ていたかった。もっと踊って欲しかった。


  あんまり洋ものを見ない私がなぜ阿佐谷アートスペース・プロットに? 理由は簡単。ルコック・システムとはそも何ぞや、この目で確かめたかったからだ。脚本・演出の猪俣哲史は、本場で実際に学んできた人。Physical Theatreに関する論文もいくつかある。帰国後の公演はこの「赤い、赤い、赤い靴」で3回目とか。どこまでこだわるかも見届けたいと思った。
作品は題名から明らかなとおりアンデルセンがもと。靴も母親手製の布靴がやっとという貧しい家の少女が、貴婦人に仕えることになり、夫人の目が見えないのを幸い、いけないと言われた赤い靴を靴屋で買い……と、ほぼ原作に添って始まって行く。が、その後、夫人はかつて自分の実の娘に嫉妬して見殺しにしたことがあり、その夫は戦いに負けて人肉を食べ、告白を聞くのが役目の牧師はロリコン、足フェチだった……と、話は思いがけない方向に進んでいく。が、実はこれはショータイム。誰がいちばん残酷かのコンテストだったというどんでん返しとなる。そして再びアンデルセンのほうに戻っていって、踊って踊って踊り続けなければならない少女は足を切ってと頼み、願いどおりの足切り。しかしなぜか天使が足を返してくれて、めでたしめでたし――のはず。
ところがこのハッピーエンド。放ったらかしの飢え死にか、実母のお葬式のすぐあとに続いており、少女の赤い靴はまたぴくぴく動きはじめる――というところで終わる。そう、これは、いちばん純真、可憐な少女が実はいちばん残酷だったという物語であった。少女がまったく少女。オンナなんかでないからいっそう残酷、理屈でいえない怖さである。その昔、童話を読みなおし、本来持っていた残酷さを蘇生させようとする作業が盛行したことがあったが、これもその流れ。別役の初期傑作と同様だ。
ほんとのことをいうと、初めはなかなか物語の中に入れなかった。日本人の顔や声と、もとはコメディア・デラルテとか、ガイジン風手振り身振りとが、しっくりしなかったからだ。やがて出てきた少女には、そういう型っぽい動きがなかったので助かった。幸い?少女は口もきけなかった。いずれ日本の、役者一人ひとりにぴったりの、イノマタ・システム?が生まれていくにちがいない。
とはいうものの、貴婦人の今は亡き娘の成長が3足の赤い靴で示されたり、電動ノコの音が少女カーレンの足の切断だったり、説明でなく観客の想像と感受に直接伝えようとするルコック・システム。そのポイントをという猪俣哲史の意図はよく伝わってきた。たとえば懺悔室が横に倒されると棺桶になったり、道具(モノと言ってくれと抗議されそうだが…)を、自然主義的にでなく、演劇として面白く使おうとする工夫もよく凝らされていた。
欲を言えばまだまだ。3階から落下した娘の音は? 人肉の味は手触りは? 言葉でなく直接伝えられるはずのことは少なくない、と思った。着想が面白いカニバリズムも、犠牲者決めるくじ引きと赤い靴の関係が今イチ呑みこめなかったし。盲目に聾唖に足の切断――知ってか知らずか、残酷はもっともっとあったのに、とも思った。
「赤い靴」とは、アンデルセンのなかでも飛び切り素敵な選択だったと思う。このままではもったいない。練り直して再度の挑戦をぜひ期待したい。少女はなぜ踊り続けないではいられなかったのだろう。赤い靴は猪俣哲史にとってなんだったのだろう。そして私には?――刺激的な芝居を見ると、あとが楽しい。                 (西村博子 2005.02.05)