文学座アトリエの会『ぬけがら』

 名古屋の劇団B級遊撃隊を主宰する佃典彦の新作を、劇団内外で活躍する気鋭、松本祐子の演出で。5月10日(火)~22日(日)。信濃町・文学座アトリエにて。以下公演評です。 ◎昭和は未だ遠くあらず  このところ、「平成」とい … “文学座アトリエの会『ぬけがら』” の続きを読む

 名古屋の劇団B級遊撃隊を主宰する佃典彦の新作を、劇団内外で活躍する気鋭、松本祐子の演出で。5月10日(火)~22日(日)。信濃町・文学座アトリエにて。以下公演評です。


◎昭和は未だ遠くあらず

 このところ、「平成」という今日を暮す日常ある家族模様に「昭和」を侵入させ、新旧の交点から現在そして未来を見直す契機とする、そんな演劇作品が目につく。暦が平成に改まり早十七年。明治が大正、大正が昭和ほどの変化があったのかしらん、などとさかしらを決め込むつもりはなし、感慨深げな顔をできるようなご身分でもない。しかし、とひとまず。歴史には常のこと、旧体制と新体制の転換は軋轢を乗り越えながら進展してきたが、状況はさして変わらないのじゃないか。技術は進歩したけれど……などと訳知り顔の紋切りを打ってはいけない。いけないが、「昭和」の際限ないエピローグとして「平成」が存在しているかにさえ感じられる、それはそれで確かなのだ。文学座アトリエの会で上演された『ぬけがら』も、そんな舞台のひとつと言っていいかも知れない。

 ほとんど痴呆状態の父親が、母親の葬式の翌日に突然脱皮し、二十歳ばかり若がえる。まるでセミのように脱皮を繰り返し、そのたびに若がえっていく。挙げ句にぬけがらたちが踊りだす。カフカや安部公房を思わせる不条理が視覚化されるが、主人公を筆頭に家族の反応は何となく中途半端であり、案外自然な装いで日常に織りこまれていく。そうしたリアルとフィクションの危うい処理に面白みがあったけれど、折角の趣向も最終的には平凡たる家庭劇の枠内に止まってしまった感は否めない。また、夫婦の離婚問題が物語の中でさしたる働きを見せないこと、軸となるべき夫婦関係の後先が今ひとつ描き切られていなかった点が残念でもある。

 表題にされた「ぬけがら」。脱ぎ捨てられた現在はすぐさま過去の残骸となる。やがて過去は動き出す。戦後60年にあたる今年、第二次世界大戦の記憶は、作中たしかに或る影を落としていた。脱皮と若がえりによって、過去(父親)が、現在=未来を経験する。それは、死者との対話から現在(主人公)が過去を知る手つづきでもある。「ぬけがら」と「ぬけ出た」自分という、父親が経験したような自己同一性と時間感覚との歪みに、何かしらの議論が必要だったのではないか。脱ぎ捨てられ、日が経つにつれて匂いを発する「ぬけがら」たち。「ぬけがら(=過去)」はどんどんクサくなる。気になる匂いにはファブリーズ。洗濯もしてみる。匂いは消えない。誤魔化せない。「昭和」を次々に巻き戻し、両親の出会いにまで時は遡る。「奇跡と宿命」に彩られた自分の誕生秘話。しかしそれらが主人公の明日に大きく活きない。結局は何も変わらないのだ。

 松本祐子の演出は、主人公と浮気相手のもつれや離婚をめぐる夫婦の口論などの心理的対決を、行動と観察の関係から生じる沈黙を巧みに利用しながら、劇的対話としてより緊密な時間に仕立て上げていた。特に主人公の妻、美津子役の山本郁子が近作以上の好出来。台詞もよく回り、いわゆる新劇調に終始してしまうやや冴えない男優陣の中にあって、一人気を吐く。浮気相手の奥山美代子も静かな強さが滲み出ていたし、母景子を演じる添田園子の大らかさもいい。舞台装置もディテールにこだわったアパートの一室を再現し、戯曲の奇妙な事件を対比的に包み込むが、そのリアルが勝ちすぎてしまったところに、物語の弱さもあるのかもしれない。(後藤隆基/2005.5.11)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA


このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください