チェルフィッチュ「目的地」

 チェルフィッチュの「目的地」ワークインプログレスの模様は先にお伝えしましたが、本公演が8月6日、びわこホールで開かれました。「夏のフェスティバル2005」の参加作品。このフェスティバルは「 二年に一度、最先端の身体表現 … “チェルフィッチュ「目的地」” の続きを読む

 チェルフィッチュの「目的地」ワークインプログレスの模様は先にお伝えしましたが、本公演が8月6日、びわこホールで開かれました。「夏のフェスティバル2005」の参加作品。このフェスティバルは「 二年に一度、最先端の身体表現をご紹介する」目的を掲げています。


 今回は「話法」に関する分析や解説が目につきました。「わぁ。(驚きに満ちた小さな悲鳴)」サイトのqueequegさんは「話法が果てしなく自由自在になっていってる」と指摘しています。特に「猫になっちゃったりとか妻が浮気してると思い込んでる夫の妄想の中の妻が浮気相手を切る場面を繰り広げちゃったりとか、まあよく考えたらなんでそんなことになってんのか全然わかんねえよ!笑とか思いはする。のだけど、実際に舞台を見ているあいだにおいては(略)『またひとつ新しい空間が開かれた』っていう驚きが喚起させられるばかりで、だからやっぱそれはすごい」と書き留めています。

 「コンテンポラリーダンス目撃帖」のcannon26さんは「個人的には、この『目的地』は、演劇でもなければダンスでもなく、「話芸」としての面白さに一番惹かれた」と述べ、「結論を言ってしまいますと、『漫談やん』と思った」と指摘します。

 「中西理の大阪日記」サイトは、チェルフィッチュの入り組んだ間接話法構造について次のように分析します。

通常の演劇(近代演劇)は登場する俳優の会話として提示される。ところが岡田のテキストは直接の会話ではなく、だれかが自分以外のことをだれかに説明するという伝聞のスタイルで提示される、語られる事実がそのまま会話として観客に示されるわけではなく、論理階梯がひとつ上のメタレベルから語られることにその特徴がある。もう少し分かりやすい言い方をすれば例えば小説には地の文と会話体の部分があり、会話劇では通常、そのうちの地の文の部分が排除されて、会話の部分だけが抜き取られてそれぞれの俳優によって演じられるわけだが、岡田のテキストではその地の文的な部分と会話体の部分が1人の俳優によって、一緒に演じられるという「語り物」の形態に近いところにその特徴がある。
 さらに言えば、単に地の文というだけではなくて、その話者として想定された一人称の「語り手」がひとりだけでなく、複数存在していて、それも実際の上演では1人の語り手に対して、1人の俳優が対応するという一対一の対応だけではなく、「語り手」と「俳優」の対応の形式が多対一、一対多と融通無碍に変化していく。

 さらにポストパフォーマンストークでクナウカの宮城聰が「チェルフィッチュの演劇をピカソの『アビニョンの娘』に例えて語り、その発言はきわめて啓発的であった」と触れていますが、詳細は不明です。「チェルフィッチュ日記」で岡田さんも宮城発言に触れていますが、中身を詳しく紹介していません。ちょっと興味がありますね。

追記
 ワークインプログレスについて、宮沢章夫さんが自分のブログ「富士日記2」(7月24日付け)で言及しています。チェルフィッチュは初体験だと断りながら、「超リアル」な日本語は、「きわめて計算された不自然な『せりふ』」で、「その言葉が持つ『特別な強度』を借りつつ、うまく計算されて書かれている」「『リアル』をもうひとひねりしたからだの動きも相俟って、きわめて精緻に造形された人物が出現しており、なるほどと思った」などと強い印象を受けたようです。

投稿者: 北嶋孝

ワンダーランド代表

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