劇作家、福田恆存の3作品を3人の演出家によってそれぞれ3回ずつ上演する「横濱リーディングコレクション#0 福田恆存を読む!」が2月中旬横浜で開かれました(横浜相鉄劇場、2月8日-12日)。「横濱リーディングコレクション実行委員会」主催の初回リーディングで、「#0」と銘打っているのでシリーズ化する意図があるのでしょうか。
取り上げたのは「わが母とはたれぞ」演出:椎名泉水(studio salt)、「堅壘奪取」演出:扇田 拓也(ヒンドゥー五千回)、「龍を撫でた男」演出:矢野靖人(shelf)の組み合わせでした。
「因幡屋ぶろぐ」は「質の高い戯曲を選んで気鋭の演出家と共同制作し、リーディング形式で連続上演する試み。戯曲との出会いの場をプロデュースするという刺激的な企画」と評価した上で、椎名演出「わが母とはたれぞ」のステージをこんな風に伝えています。
一度聞いただけでは意味がわからない言葉(例:唐三彩 父母に孝)が文字で書かれてようやく「ああ、そういうことか」と理解できるものもあり、特に深い意味はないのだろうが、その言葉を話した人物の存在が際立つもの、たとえば姑が嫁に向かって言う「友ちゃん、お風呂みてきておくれ」、逆に嫁が姑のことを「どうして男に好かれるんでせう」と評した言葉など、板に書かれた文字が、まるで生き物のように舞台に息づいているのを感じた。
戯曲は、言葉は、生き物である。生きて動いて観客を捉え、劇の世界にいざなう。
また「『リーディング』をどう定義するかはむずかしいし、今回の公演は厳密に言うとリーディングとは言えないかもしれないが、ひとつの戯曲を演出家がどう捉えているか、その作品がどんな手触りであるかを観客に伝える点では非常に魅力的なステージになっていたと思う」と述べています。
聞いただけでは分かりにくいことばが、舞台に配置されたボードに文字となって現れるのはなかなかおもしろいアイデアではないでしょうか。「のっぱさんの観劇日誌」もこの点を「たしかに、こうしておけばこの時代の難解な言葉も、耳で聞くだけよりも理解しやすい。リーディングなので、動きが制限されている分、話を伝えるのに効果的だったし、何より『書きっぷり』が、いいパフォーマンス。リーディング芝居なのに『役者は読まず、観客が読んでいる』という面白い状況になっていた」と的確に指摘しています。特に「『書きっぷり』が、いいパフォーマンス。リーディング芝居なのに『役者は読まず、観客が読んでいる」という個所はなるほど鋭いですね。
扇田演出の「堅壘奪取」は、「ほぼ二人芝居を10人以上の出演」でみせてくれたようです。「休むに似たり。」は3作とも観劇。よくぞここまでフォローするものですが、「リーディングをしている舞台を多重構造にして見せる趣向。たくさんの人物それぞれの背景らしいものが見え隠れしたりしますが、そこに深入りせずに軸で見せる後半は、見応えがあります。しかも、おそらくは原文をほぼいじることなく、成立させてるのはたいしたものだ、と思うのです」と評価していました。
「映像作家の道草日和」も「いわゆる朗読劇、か…と身構えて行ったら、そんなこちらの固さをさらりと解きほぐしてくれるような、立て板に水の演出でした。それならそうと早く言ってくれればいいのに!といった感じでしたが、あれだけの人数(20人近くいたかも)をオーケストラのように見事に指揮するのにはそれなりに見せ方が必要ですよね。舞台中央で地図を描き怪しい動きを舞いながら時にオーケストラに喝を入れる『代理』指揮者が大変妙薬でした」と書き込んでいます。
では「「龍を撫でた男」はどうだったのでしょうか。10年前に子供2人を事故で亡くした精神科医の家庭には、孫の死で精神のバランスを失した母親と、戦争帰りで情緒の不安定な妻の弟が同居しています。そこに知人の劇作家とその妹の女優が訪ねて来ところがら狂気が露わになっていく物語です。
「ほぼ観劇日記」は「shelfの矢野靖人の構成・演出により、普通に上演すれば3時間程度かかりそうなボリュームを、1時間20分に大胆に構成し、そのうえ演出的にも、役者と台詞を一部分離させながら、構造を浮かび上がらせたり、と意欲的な演出をしていました。序盤は、その構造が理解できるまでなんだか不思議な感覚ですが、中盤からは、構造を明確にするような効果が生まれ、終盤への勢いを創っていきます」と描写しています。
「のっぱさんの観劇日誌」はさらに突っ込んで、次のように分析しています。
また、「ト書き」までしっかり読んでいるので、音だけ拾えばラジオドラマのように聞こえるのはずなのだが、実は目の前で起きていることは、まったくのキテレツ。 役者の動きや立ち居地については、全くト書きの命令無視なのである。(だからこそ「ト書き読み」が必要なのだろう)スローモーションの動きや、オブジェのような姿勢、声のベクトルが錯綜する対話、製本されていないバラバラの紙の束(台本)が散らばっていく様子などが、ほとんど素舞台の上にエキセントリックに、しかしバランスよく展開している。
いわゆるストレートプレイ的なリアリティに対して、これは徹底して「抽象表現」であるのだが、具体的なものを抽象的に表現しているのではなく、抽象表現そのものが主張なのだろう。 (略)
福田恒存がこの作品を書いたときから約半世紀、社会も人も言葉も変わった。しかし、変わらない「本質」をしっかり踏まえて、積極的に新しい解釈で現代の演劇として蘇生させているのは、素晴らしいことである。
リーディング上演にもさまざまな試行錯誤や工夫があるようです。宮沢章夫さんの「富士日記2」を読んでいたら、2月初めにリーディング公演を開く準備をしながら、こんなことを書いています。
■ある演出家のリーディング公演の戯曲は、その本番の当日、はじめて俳優たちに手渡されたそうだ。一回だけ読み合わせをして、「この漢字、なんて読むんですか」といった質問が出たという。ことによったらそれでもいいのかもしれない。戯曲の言葉を提示するのだとしたらそれが本来の姿かもしれないのだ。仮に、稽古を重ねるうち、せりふを完全に俳優が覚えてしまったら、そのとき、台本はなんになるだろう。おそらくそれは、「リーディング公演」における小道具だ。これはおかしな話だ。「リーディング公演」を「形式」にしないためにはどうしたらいいか考える。あくまでそれは、「戯曲の提示」であるはずだ。ただ、僕もなんどかリーディングをやっているうちその効用について気がついたことがあり、もっとも大きいのは、本公演の稽古に入る前に、戯曲が完成していることはかなり意味があるのだった。書くのが早い人はべつにいいだろうが、僕はその恩恵をかなり受けている。
■今回の『鵺/NUE』に関して言えば、本公演は十一月だ。とすると、リーディング公演から八ヶ月以上時間がある。もう戯曲ができているなんて、なんという幸福だろう。しかも、そのあいだに書き直すことができるし、「戯曲の提示」によって様々な意見がもらえ、それを参考にすることもできる。そして、本公演とちがって、わりとリスクが少なく公演することの意味も大きく、「これリーディングなので」と、小規模な公演で許されるのだ。(Jan.27 fri.「稽古をしている」)
稽古を重ねているうちに「俳優はセリフを覚えてしまう」という個所は、リーディングにとって皮肉というか、なんとなくニヤリとしてしまいます。
今回の「横濱リーディングコレクション#0 福田恆存を読む!」でも演出家がドラマリーディングの意図やおもしろさについて語っています。椎名さんは自分のブログ(「椎名さん、言っとくけどそれフツーじゃないですよ!」)で演出の内幕を幕明かしているし、今回の企画のプロデューサー・総合ディレクターを務めた矢野さんも主催サイトのほか、昨年夏に開かれたAAF戯曲賞ドラマリーディングのインタビューでも、言葉との距離みたいなものがドラマリーディングでは割と分かりやすく見せられる」(BACK STAGE【SideA】「ドラマリーディングを体験するチャンス!-AAF戯曲賞ドラマリーディング開催」)などと語っています。ご興味のある方はのぞいてみてください。
[上演記録]
「横濱リーディングコレクション#0 福田恆存を読む!」
(横浜相鉄本多劇場、2006年2月8日-12日 )
『わが母とはたれぞ』
演出:椎名泉水(studio salt)
黒宮万理(少年王者舘) 鈴木紀江(劇団離風霊船)
奥津祐司(劇団河童座)
麻生0児(studio salt) 増田知也(studio salt)
松本・F・光生(studio salt)
『堅壘奪取』
演出:扇田 拓也(ヒンドゥー五千回)
緒田果南 岩井花子 伊藤千鶴 尾身麻里奈
篠原麻美(reset-N) 横山真(遊幻サーカス)
義村美季(遊幻サーカス) 向後信成(ヒンドゥー五千回)
藤原大輔(ヒンドゥー五千回) 成川知也 服部紘二
森山静香 両角葉 行貝チヱ 林田むつみ
村島智之 あらいひろこ(遊幻サーカス)
久我真希人(ヒンドゥー五千回)
坪井康浩(東京Ne+ws)
金子恵(遊幻サーカス)
『龍を撫でた男』
演出:矢野靖人(shelf)
飯村彩子 笠木真人 斉木和洋 (山の手事情社)
諏訪智美(ク・ナウカ) 藤井麻由 三橋麻子
[スタッフ]
音響+照明/massigla lab.
舞台監督/小野貴巳(Jet Stream)
舞台監督補/満木夢奈(Jet Stream)
当日運営/三村里奈(MRco.)
宣伝美術/西村竜也 写真/原田真理
プロデューサー・総合ディレクター/矢野靖人(shelf)