ポツドールは今回もまた、刺激的な舞台を提供したようです。第14回公演「夢の城」(新宿シアタートップス、3月2日-12日)は「拷問のようだった」という人もいて、賛否と言うよりは、ぼくらが抱えている性的規範が最初の分水嶺を形作るのかもしれません。それでも毎日毎夜現れては消えていく芝居の流れに幾重かの波紋を広げたようにみえます。2回に分けてその痕跡を拾ってみようと思います。
どんな芝居だったのか。「あらすじ。(勝手に解釈したもの)」と前置きして「踊る芝居好きのダメ人間日記」は次のように記します。
登場人物の行動を時系列でつなぐとこんな感じなのでしょう。前々回の「ANIMAL」は「獣のように傷つけ合う人間達の『風景』」、前回公演「愛の渦」は「裏風俗店『ガンダーラ』の一夜の出来事」でテーマは「性欲」だと、ポツドールのwebサイトに書いてあります。今回は「マンションでの共同生活」ですから、もっと平場に近づいて、フツーの光景を用意したように思えます。
継起的光景からさらに視線を引いてみると、舞台に施された「枠組み」がみえてくるようです。劇作家(兼演出家)の宮沢章夫さんは次のように指摘しています。
これは「現代演劇ノート~〈観ること〉に向けて」で松本和也さんが、冒頭部(と結末部)でベランダ越しに舞台をみるというあり方に触れ「重要なのは(中略)虚構の演劇という表現形態への高い意識を看取することであり、舞台をガラスの向こうに配置すると同時に観客をオートマチックにガラスを介したのぞきの位置へと配置してそのまなざしを近代のそれとしてフレーム化していく、明確といえば余りに明確な、演出の意志である」と指摘していることに呼応します。だから「動物園に『人間』を観に来ました!!って感じでしたね。ほんとねぇ、なんだろうか、セリフ一切なしね。で、ふっつぅに交尾始めるんです」(トゥッキリする!?)という視線も、淀みなく生じてくるのでしょう。
宮沢さんはさらに、せりふのない舞台を観察し、そこにリアルそうにみえながら明瞭な演出の跡を見つけています。その上で聞こえてくる「音」に耳を傾け、「泣く」という行為の周辺を探り続けます。
さて、こうして描かれた、最低な人間たちの生活のごく一部が、劇としてどこに落ち着くのか、その落としどころはなにか、考えつつ観ていると、ラスト近く女が泣くというところにおさまる(いや、べつに落としどころがなくても、いいと思うが)。けれど、その「泣く女の行為」もまた、説明がまったくない。それまで眠っていたのかと思っていた女が、ひきっぱなしの布団の上に横になって、泣いている。なにか伏線があったわけでもないし、ドラマが用意されていたとも思えぬが、ただ、泣く女はただ一人、開演からまもなく少し遅れてこの部屋にやってきたこと、あるいは、衣装の種類がほかの者らとどこかちがうことによって、なにかほかの者らと異なる種類の人物に見えた。その「泣く行為」の意味を探す手がかりはほぼその程度だ。あるいは、一瞬気を取られたあのテレビのニュースにあったのかもしれない。ただ女は声をひそめて泣く。劇中、ずっと一貫しているのは、登場人物たちが、ほかの者がすることに興味を持たないことだが、やはり泣いている女に対しても誰も関心を持たない。共同生活をしながら、しかし、他者に関心を持たないこの姿や、そして、言葉を発しない方法は、ここできわめて強いメッセージになっているのを観る者に与える。リアリズムの外見を持ちながらまったくそれとは異なる方法によって組み立てられた劇だ。とても刺激的だった。(富士日記2 Mar.11 2006)
最後の指摘は強烈です。「共同生活をしながら、しかし、他者に関心を持たないこの姿や言葉を発しない方法は、ここできわめて強いメッセージになっている」「リアリズムの外見を持ちながらまったくそれとは異なる方法によって組み立てられた劇」。他者との関係性がほぼ消えてしまったようにみえる登場人物の造形に、三浦演出の明快な意図と方法を見つけているのです。
では「最低な人間たちの生活」とか「動物の交尾」ともみなされた、登場人物たちの生態はどのように描写され、どんな姿で見えてくるのでしょうか。(続)>>