舞台の「枠組み」に関して、もう少しいくつかのサイトを紹介してみます。
「小劇場系」は、冒頭の場面が「演劇という制度がそもそも『窃視』もしくは『視姦』行為であることを観客に、かなり露悪的な形で、見せ付ける構造となっており、そうした窃視が演劇表象を支え、さらには『表象』そのものを追認しているのだと糾弾しているようだった。我々の視線(gaze)が問題化されているのだ」と指摘します。
「Sato Site on the Web Side」は「枠組み」を平田オリザらの「静かな演劇」と重ねつつ、その違いを次のように書いています。
「言葉を話せる人」の世界とは明らかに違う「彼ら彼女ら」がいて、そういう日常生活を覗き込んでいる、という指摘です。「動物」ではなく、確かに「人間」なのだが、言葉を介したコミュニケーション回路から外れている人たちが舞台上に存在したのだと想像できます。
彼ら彼女らは、食べたりセックスしたりテレビゲームに興じたり。そんなマンションの共同生活を「部屋の様子は彼らの精神と生活の荒廃ぶりを反映しゴミが散乱している」「倦怠感ただよう生ぬるい日常」(楽観的に絶望する)「動物のような人間が、そこに居ました」(しのぶの演劇レビュー)「徹底的な貧しさ」(現代演劇ノート)「すべてが面倒になった若者の群像」(読売新聞)とする描写が目立ちます。劇作家の宮沢章夫さんも「最低な人間たちの生活のごく一部」((Mar.11 2006)と書いていました。
しかしどこか気になったとみえて、翌日の書き込みで「あの最低な人間たちの描写と、グロテスクな人間関係は、苦い喜劇であると同時にやはり悲劇なのだろうと思う。ああした人たち(なんて表現すればいいんだろう、ヤンキーとかそういった種類の人間たちか)の『最低さ』」(Mar.12 sun.)と述べて、今度は「最低」にカッコが付いています。また別の日に、学生の指摘を得て「渋谷のセンター街にいるようないわゆるギャルとギャルオ」と見立てていました。
もう少しフラットな描写がないか読み進むうち、先にも触れた「Sato Site on the Web Side」の次のような個所にぶつかりました。
それにしても、本当に「ゼロ」な世界だよなあ、ここに落ちまいとしてひと(人類)は生きているのではないかという気さえする。でも、「ゼロ」であるからこそ、偽りのない世界で、妙にすがすがしく、健全で、タイトルに偽りなしとさえ最後には思わされてしまった。
「しのぶの演劇レビュー」によると、女性がキーボードで弾く曲は、バッハの有名なカンタータ「主よ人の望みの喜びよ」だそうです。バッハがこの場面で自作の曲が使われると知ったら卒倒するかもしれませんね。
「Sato Site on the Web Side」が「ゼロ」と呼んだ地点をどうみるのか。「 CLP(クリティック・ライン・プロジェクト」の竹内孝宏さんは「ポツドールの新作に接したいま、(現実の側にも演劇の側にも)すでにある種の地殻変動が生じているという事実を疑う必要はまったくないように思われる」と述べて、次のように問題の所在を設定しています。
ところで、言語が存在しないというのは、たとえば葛藤の原因も結果も存在しないということ、つまりおよそありとあらゆる「劇的なるもの」が存在しないということを意味しているだろう。こういってはあまりに歴史主義的すぎるかもしれないが、「現実」は「劇的」であることを通りこしてすでに「アンチ・テアトル」的な段階にまで到達しているという判断こそ、「夢の城」によって提示された強固な状況論である。
ワンルーム・マンションの閉域で成立する非言語的な関係性--食う、寝る、やる…など--という設定は、この劇団の履歴からすればほとんど論理的な帰結か不可避的な通過地点であって、なにか決定的な転回が賭けられているというわけではない。しかし、われわれとしては、腹をくくってこの抜きさしならない地点からもう一度やりなおす以外に、演劇の根拠を見いだすことは困難である。
ナイロン100℃「男性の好きなスポーツ」公演では、セックスがらみのコトバがあけすけに乱射されていました。全裸の男女が登場する芝居もあれこれ挙げることが出来るでしょう。しかし「夢の城」が特異なのは、この「抜きさしならない地点」、「ゼロ」というポジションに到達しているせいかもしれません。
特に「性行為」を舞台上で繰り広げ、男性は完全ヌード、女性のあえぎ声も漏れてくるとあっては、平常心を保つのはなかなか大変かもしれません。みる人の性的規範がそのまま投射されざるを得なくなります。フリーズも拒否も衝撃も、あるいは冷静な装いさえ、この規範の山を超えなければならないのです。「性」はぼくらの身体に埋め込まれた共同規範の根っこにあり、近代的な「人間形成」や「家族形成」の基礎要素だからです。
だから「一行レビュー」は、無星から四つ星、五つ星まで極端な評価が並ぶのはある意味で当然だと思われます。
「小劇場系」はこの構造を次のように解説しています。
性行為を舞台に載せるのは、計算ずくか直感かは別にして、みる側の規範を攪拌したり引き出したり、「意味の牢獄」にとらわれているぼくらに露骨に触手を伸ばしていることを意味します。「ゼロ」地点では、みる側の感情や価値観がそのまま透けて見えるという逆照射関係になるからです。だからそこには「客いじり」が隠されていると言っていいのではないでしょうか。えげつなくもしたたかな演出のねらいを見てとることが出来るでしょう。
演出の三浦大輔さんはあるところに次のような文章を寄せています。
「スケベったらしさ」を隠し、あくまでドラマにおけるスパイスとして、繊細に「性」を描く、凡百のスマートな日常芝居はもううんざりだ。(松井周 作・演出「地下室」公演のチラシから)
ここには「性」を露出すると、なにが逆照射されるかを知っている人物がいます。その照り返しを、いささか意地悪く見定める視線が感じられます。ある意味では「確信犯」なのでしょう。演出が「緻密」で「的確」という評価が多いのももうなずけるような気がします。
さて、三浦演出は「性」をてこにして「いま」を切り取る試みなのでしょうか。しかし「性」はなかなかに手強いようです。周到に演出したように見えながら、意外な方角から矢が飛んできます。ぼくがある劇場サイトのインタビューで劇団idiot savant 座長の恒十絲さんと会ったとき、彼が語った次のようなことばを思い出しました。
確かに「角度」まで演出できれば、それはもう「そっちのプロ」顔負けと言うことになるでしょう。演出でコントロールできないことがあるから「演劇」なのかもしれません。
それにしても恒十絲さんの発言は意表を突き、その強度は舞台に匹敵します。
ただ三浦さんも相当の突っ張りのようですから、「それじゃあ、やってやろうじゃないか」と反発して女優に魔の手を伸ばしたり(笑)、寺山修司張りに警察の世話になるなどスキャンダラス路線を突っ走らないとも限りません。
竹内さんは先の引用の中で、今回の公演(内容)は「この劇団の履歴からすればほとんど論理的な帰結か不可避的な通過地点」と指摘しています。これからどこへ向かうのでしょう。意外に純愛物語を成立させたり、あるいはもっと従来の手法と様式を徹底するのかもしれません。
今回もまた、ぼくは売り切れで公演をみることが出来ませんでした。次回公演はなんとか足を運びたいと思います。
[上演記録]
ポツドール「夢の城」(シアタートップス、2006年3月2日-12日)
作・演出 三浦大輔
照明 伊藤孝(ART CORE design)
音響 中村嘉弘(atSOUND)
美術 田中敏恵
衣装 金子千尋
出演 米村亮太朗(オウジ) 名執健太郎(ナンミン=smartball) 仁志園泰博(エラオ) 古澤裕介(ゲーリー) 鷲尾英彰(チンゲ) 安藤玉恵(ウシ) 佐山和泉(スーパージャイコ=東京デスロック) 小倉ちひろ(ヒメ=smartball)