ポツドール「夢の城」(下)

 舞台の「枠組み」に関して、もう少しいくつかのサイトを紹介してみます。  「小劇場系」は、冒頭の場面が「演劇という制度がそもそも『窃視』もしくは『視姦』行為であることを観客に、かなり露悪的な形で、見せ付ける構造となってお … “ポツドール「夢の城」(下)” の続きを読む

 舞台の「枠組み」に関して、もう少しいくつかのサイトを紹介してみます。
 「小劇場系」は、冒頭の場面が「演劇という制度がそもそも『窃視』もしくは『視姦』行為であることを観客に、かなり露悪的な形で、見せ付ける構造となっており、そうした窃視が演劇表象を支え、さらには『表象』そのものを追認しているのだと糾弾しているようだった。我々の視線(gaze)が問題化されているのだ」と指摘します。


 「Sato Site on the Web Side」は「枠組み」を平田オリザらの「静かな演劇」と重ねつつ、その違いを次のように書いています。

平田オリザが、「水槽の魚たち」を覗き込むように世界をつぶさに眺めるツールとして演劇を規定したとすれば、まさに今作が舞台上に作り上げたのはそういった「水槽」だ。ただし、そこに泳ぐ「魚」を平田氏はあらかじめ「言葉を話せる人」に限定していたのかも知れない。少なくとも、今作の登場人物は平田氏の作品には登場することが出来ない。彼らにしゃべらせたら途端におかしなことになるだろう、「まがいもの」のにおいが鼻についてくるに違いない。徹底的に彼らのリアルな状態を覗き込めるようにしたところが、今作にぼくが感動してしまったいちばんのポイントだ、うん。

 「言葉を話せる人」の世界とは明らかに違う「彼ら彼女ら」がいて、そういう日常生活を覗き込んでいる、という指摘です。「動物」ではなく、確かに「人間」なのだが、言葉を介したコミュニケーション回路から外れている人たちが舞台上に存在したのだと想像できます。

 彼ら彼女らは、食べたりセックスしたりテレビゲームに興じたり。そんなマンションの共同生活を「部屋の様子は彼らの精神と生活の荒廃ぶりを反映しゴミが散乱している」「倦怠感ただよう生ぬるい日常」(楽観的に絶望する)「動物のような人間が、そこに居ました」(しのぶの演劇レビュー)「徹底的な貧しさ」(現代演劇ノート)「すべてが面倒になった若者の群像」(読売新聞)とする描写が目立ちます。劇作家の宮沢章夫さんも「最低な人間たちの生活のごく一部」((Mar.11 2006)と書いていました。

 しかしどこか気になったとみえて、翌日の書き込みで「あの最低な人間たちの描写と、グロテスクな人間関係は、苦い喜劇であると同時にやはり悲劇なのだろうと思う。ああした人たち(なんて表現すればいいんだろう、ヤンキーとかそういった種類の人間たちか)の『最低さ』」(Mar.12 sun.)と述べて、今度は「最低」にカッコが付いています。また別の日に、学生の指摘を得て「渋谷のセンター街にいるようないわゆるギャルとギャルオ」と見立てていました。

 もう少しフラットな描写がないか読み進むうち、先にも触れた「Sato Site on the Web Side」の次のような個所にぶつかりました。

あるものはキーボードを引き出す(ショパン?)し、ある者は深夜に素振りを一人で始める。彼らはニートで、だから教育が全く施されていないかと言えばそんなことはなく、ピアノも少しは弾けるし野球の経験もあるのだ、ただしそれはいまや単なるガラクタでしかないのだが。こういう、無意味な教養の積み重ねとしての人生という描写が、実に切ないし、これは彼らに限ったことではなかろうと思わされた。(中略)
それにしても、本当に「ゼロ」な世界だよなあ、ここに落ちまいとしてひと(人類)は生きているのではないかという気さえする。でも、「ゼロ」であるからこそ、偽りのない世界で、妙にすがすがしく、健全で、タイトルに偽りなしとさえ最後には思わされてしまった。

 「しのぶの演劇レビュー」によると、女性がキーボードで弾く曲は、バッハの有名なカンタータ「主よ人の望みの喜びよ」だそうです。バッハがこの場面で自作の曲が使われると知ったら卒倒するかもしれませんね。

 「Sato Site on the Web Side」が「ゼロ」と呼んだ地点をどうみるのか。「 CLP(クリティック・ライン・プロジェクト」の竹内孝宏さんは「ポツドールの新作に接したいま、(現実の側にも演劇の側にも)すでにある種の地殻変動が生じているという事実を疑う必要はまったくないように思われる」と述べて、次のように問題の所在を設定しています。

この芝居には、原則的に台詞がない。分節言語が聞きとられるとしても、それはテレビのスピーカーから流れてくる音響であり、俳優が直接的に発する肉声は、分節言語以前の「あえぎ声」がその大半を占めている。(中略)言語に依存しないコミュニケーションについての芝居が、ひたすら「リアル」に上演されていくというだけの話である。
ところで、言語が存在しないというのは、たとえば葛藤の原因も結果も存在しないということ、つまりおよそありとあらゆる「劇的なるもの」が存在しないということを意味しているだろう。こういってはあまりに歴史主義的すぎるかもしれないが、「現実」は「劇的」であることを通りこしてすでに「アンチ・テアトル」的な段階にまで到達しているという判断こそ、「夢の城」によって提示された強固な状況論である。
ワンルーム・マンションの閉域で成立する非言語的な関係性--食う、寝る、やる…など--という設定は、この劇団の履歴からすればほとんど論理的な帰結か不可避的な通過地点であって、なにか決定的な転回が賭けられているというわけではない。しかし、われわれとしては、腹をくくってこの抜きさしならない地点からもう一度やりなおす以外に、演劇の根拠を見いだすことは困難である。

 ナイロン100℃「男性の好きなスポーツ」公演では、セックスがらみのコトバがあけすけに乱射されていました。全裸の男女が登場する芝居もあれこれ挙げることが出来るでしょう。しかし「夢の城」が特異なのは、この「抜きさしならない地点」、「ゼロ」というポジションに到達しているせいかもしれません。

 特に「性行為」を舞台上で繰り広げ、男性は完全ヌード、女性のあえぎ声も漏れてくるとあっては、平常心を保つのはなかなか大変かもしれません。みる人の性的規範がそのまま投射されざるを得なくなります。フリーズも拒否も衝撃も、あるいは冷静な装いさえ、この規範の山を超えなければならないのです。「性」はぼくらの身体に埋め込まれた共同規範の根っこにあり、近代的な「人間形成」や「家族形成」の基礎要素だからです。
 だから「一行レビュー」は、無星から四つ星、五つ星まで極端な評価が並ぶのはある意味で当然だと思われます。
 「小劇場系」はこの構造を次のように解説しています。

裸体を「エロイ」もしくは見たいという欲望に駆られるのは、身体それ自体が「エロい」のでは勿論なくて、文明化以来人間が身体(裸体)に植えつけてきたイメージ/表象(文化的に構築された性差であるジェンダーがこれに含まれる)こそが我々の欲望を誘発する仕組みとなっているからである。その意味では、我々は本来的な意味で身体そのものを見ていない、見れないという意味の牢獄に囚われているのである。

 性行為を舞台に載せるのは、計算ずくか直感かは別にして、みる側の規範を攪拌したり引き出したり、「意味の牢獄」にとらわれているぼくらに露骨に触手を伸ばしていることを意味します。「ゼロ」地点では、みる側の感情や価値観がそのまま透けて見えるという逆照射関係になるからです。だからそこには「客いじり」が隠されていると言っていいのではないでしょうか。えげつなくもしたたかな演出のねらいを見てとることが出来るでしょう。
 演出の三浦大輔さんはあるところに次のような文章を寄せています。

松井(周)さんは露出狂だと思う。でも僕もそうだから、松井さんの芝居はとても好きだ。ぼくは一日の80%はスケベなことを考えている。松井さんは90%考えているはずだ。じゃなきゃ、あんな誠実な芝居はつくれない。
「スケベったらしさ」を隠し、あくまでドラマにおけるスパイスとして、繊細に「性」を描く、凡百のスマートな日常芝居はもううんざりだ。(松井周 作・演出「地下室」公演のチラシから)

 ここには「性」を露出すると、なにが逆照射されるかを知っている人物がいます。その照り返しを、いささか意地悪く見定める視線が感じられます。ある意味では「確信犯」なのでしょう。演出が「緻密」で「的確」という評価が多いのももうなずけるような気がします。

 さて、三浦演出は「性」をてこにして「いま」を切り取る試みなのでしょうか。しかし「性」はなかなかに手強いようです。周到に演出したように見えながら、意外な方角から矢が飛んできます。ぼくがある劇場サイトのインタビューで劇団idiot savant 座長の恒十絲さんと会ったとき、彼が語った次のようなことばを思い出しました。

最初は「(演出の)三浦君、かっこいいなあ」(笑)。あの芝居も、おもしろいかおもしろくないかではない気がする。でもあそこまでチンポコ出すんだったら、おネエちゃんはどうなんだよと言うか、男に対する愛情と女に対する愛情が演出的に随分違っていたなあ。出演している女優の中に彼女か、ねらっている女性がいたんじゃないかとか、そんな感じがしなくもない。(中略)ただなるほどと思ったのは、そのときどき勃起の角度が変わること。あそこは唯一、生っぽかったなあ。あれが演出だったらすごいと思うね(笑)。

 確かに「角度」まで演出できれば、それはもう「そっちのプロ」顔負けと言うことになるでしょう。演出でコントロールできないことがあるから「演劇」なのかもしれません。
 それにしても恒十絲さんの発言は意表を突き、その強度は舞台に匹敵します。
 ただ三浦さんも相当の突っ張りのようですから、「それじゃあ、やってやろうじゃないか」と反発して女優に魔の手を伸ばしたり(笑)、寺山修司張りに警察の世話になるなどスキャンダラス路線を突っ走らないとも限りません。

 竹内さんは先の引用の中で、今回の公演(内容)は「この劇団の履歴からすればほとんど論理的な帰結か不可避的な通過地点」と指摘しています。これからどこへ向かうのでしょう。意外に純愛物語を成立させたり、あるいはもっと従来の手法と様式を徹底するのかもしれません。

 今回もまた、ぼくは売り切れで公演をみることが出来ませんでした。次回公演はなんとか足を運びたいと思います。

[上演記録]
ポツドール「夢の城」(シアタートップス、2006年3月2日-12日)

作・演出 三浦大輔
照明 伊藤孝(ART CORE design)
音響 中村嘉弘(atSOUND)
美術 田中敏恵
衣装 金子千尋
出演 米村亮太朗(オウジ) 名執健太郎(ナンミン=smartball) 仁志園泰博(エラオ) 古澤裕介(ゲーリー) 鷲尾英彰(チンゲ) 安藤玉恵(ウシ) 佐山和泉(スーパージャイコ=東京デスロック) 小倉ちひろ(ヒメ=smartball)


投稿者: 北嶋孝

ワンダーランド代表

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