龍昇企画と江古田ストアハウス提携公演の漱石プロジェクト第2弾は「こころ」でした(江古田ストアハウス、3月8日-15日)。原作は夏目漱石。脚本は第1弾「行人」と同じく犬井邦益、演出も福井泰司。広く知られた作品をどう舞台に載せるか、とても興味がありました。
実際の舞台はこんな感じのようです。
「きょうび漱石でもあるまいと思っていたが、役者良し、練られた脚本・構成、正攻法な演出など、真摯で好感持てる舞台でございました。大変面白かった。古典は普遍にして常に観る者に何かを問いかける。」 (ごてふ、「一行レビュー」から)
「原作に忠実に舞台化していました。(中略)芝居は淡々と進むけど、漱石作品の言葉の美しさを実感しました。」(武藤の日常、3月10日)言葉が印象に残ったようですね。「今日のTU-SINN(通信) run」も「漱石の言葉の使い方は、基本的「話し言葉」である。昔の言葉だが、それが耳に心地よく響いてくる」と書き記しています。
「因幡屋ぶろぐ」は芝居全体の印象を、端正な舞台に見合うように次のようにまとめています。
原作のどこを取り、どう表現するかは劇作家、演出家の腕のみせどころである。しかし今回の『こころ』からは、作り手側の「さぁわたしの手腕をご覧ください」的な主張は感じられなかった。自分の個性や視点をどう活かすかよりも、この小説のもつ世界観を謙虚に舞台にのせたという印象がある。端正で清々しく、潔い。
「今井の日記」の劇作家・今井一隆さんは「いま」との距離を感じ取りながら、しかし舞台の方向を理解して次のように述べています。
そこを嗅ぎ取って、いっそ「笑い」に仕立て上げることも可能ではないかと思われたが、この芝居は、そうはしなかった。
しなくて正解だったと思うし、ハナからそんなつもりもなかっただろう。
また、ありがちな友情物語にも、安易な「あらすじ」の説明にも、なっていないのがよいと感じた。
「いま」との距離のほか、文学とは違う演劇の場で「身体」をどう具現化するかという問題も当然指摘されるはずです。次の一文はその点を衝いています。
「こころ」というテキストの中の「グロテスクな生を生きるインテリ中年」=先生、を如何に殺すかのドラマが私は見たかったよ。イヤーな感じの「わたし」。この芝居に出てくる男達はどいつもこいつも「ダメなヤツ」である。その「存在」を嗤う「漱石殺し」を妄想した。ただ、演出家の言う「抑制のきいた芝居ではあった」し漱石文学を立体化し、批評したじつに分りやすい演劇という意味では水準以上のいい作品である。私が漱石がどうしても好きになれないので書いてるだけ・・・・・。
(「男、流山児祥の汗と涙の劇道の日々を徒然に・・・」2006年弥生日記 3月8日)
漱石の「こころ」はさまざまな「読み」を可能にしてきました。弟子筋の小宮豊隆らによる漱石本人の考えと作品を結合する古典的な論考にはじまり、江藤淳、吉本隆明らのすぐれた作家、作品論を生み出しました。最近ではテキスト分析的な読解で新しい流れを作った小森陽一、石原千秋らの仕事も忘れられません。いまの世の中に作品を開いていくとき「語りと内容の齟齬」(「今井の日記」)をどう考えるかが要だと感じます。
龍昇企画は今回限定10人ですが、「稽古見学」をチケットとセット販売しました。芝居の生成過程にも観客に立ち会ってもらい、完成品だけでなく「演劇が立ち上がる瞬間」も楽しんでもらおうというねらいのようです。ク・ナウカは以前からワークイン・プログレスという形式で「過程」を共に歩む姿勢を積極的に見せていました。最近では風琴工房が次回公演「砂の階段」で試験的に公開稽古を始め、それを「稽古場リポート」で公開中です。
ぼくも「こころ」公演に出かける予定にしていましたが、仕事の日程が押していて、どうしても抜けられませんでした。第3弾もあるなら、次はみてみたいと思います。
[上演記録]
龍昇企画「こころ」
江古田ストアハウス提携公演・漱石プロジェクト第2弾
江古田ストアハウス(3月8日-15日)
原作:夏目漱石
作 :犬井邦益
演出:福井泰司
出演:龍 昇/直井おさむ/吉田重幸/栗原茂/稲田恵司/中野真希
黒木美奈子/大崎由利子/高村志穂
私は、前回の「行人」から観ています。漱石作品の
すごさと「朗読」でなく作品を演劇で「読む」
可能性が現されていると思います。
行人は、思いの外よかったです。原作を読んでいる
だけにどこを再現するのかという楽しみもありました
このシリーズが続く限りみていきたいと思っています
役者が変わらなければ作品名から配役を想像する
楽しみも加わっています。
>漱石作品の
>すごさと「朗読」でなく作品を演劇で「読む」
>可能性が現されていると思います。
そうですか。見逃したのは残念ですが、次作に期待が高まります。
後期作品だと、「こころ」のあとは「道草」や「明暗」に進むのでしょうか。いちばんめぼしいところをやってしまったような気もしますね。