三条会 『砂の女』 (作:安部公房、構成・演出:関美能留)

◎男と女と、そして〈砂〉 今回、四演目という三条会の『砂の女』。北千住の、普段は稽古場という劇場に入ると、向かい合う客席に挟まれた2mばかり下、船底のような長方形の舞台空間は三方を壁に囲まれ、七人の俳優がそれぞれ男四人と … “三条会 『砂の女』 (作:安部公房、構成・演出:関美能留)” の続きを読む

◎男と女と、そして〈砂〉

今回、四演目という三条会の『砂の女』。北千住の、普段は稽古場という劇場に入ると、向かい合う客席に挟まれた2mばかり下、船底のような長方形の舞台空間は三方を壁に囲まれ、七人の俳優がそれぞれ男四人と女三人に分かれて準備運動めいていた。中央には長い縄梯子。観客はちょうど、舞台を下にのぞきみるような格好になる。その日に坐った席からみると、舞台の右手が出入りの袖代り、左手が天井までのびる劇場の黒壁である。その左手――壁がすなわち穴の底(下方)であり、右手は外界(上方)、というわけ。舞台をへだてて向う側の人には当然、逆に映っているハズだ。〈底〉を背に、女たちがいる。反対側に男らがいる。「のぞきこむように、ご覧ください」という俳優の挨拶に誘われ、エレキギターも狂おしいアメリカ国歌の「Introduction」が鳴れば、いよいよ開演である。 


船底の舞台空間を上方からみつめる視線が物語と接続される。わたしたちは、わたしたち自身の身体ごと、劇に入り込むだろう。プロットの理解だけでなしに、無意識にもせよ、「のぞきこむ」という行為によって体感される、『砂の女』という劇の世界。ちょっと特権的な視点を与えられた観客は、「観察者」の興趣をさえ催す。それは、砂穴の男女を眺める部落の人びとの視点でもあった。時・空間ひっくるめた〈縦/横〉の感覚は『砂の女』をめぐる一つの鍵言葉だと思うが、〈砂の穴の地面〉と〈縄梯子の昇降〉に加え、それらを鳥瞰する客席という新たな一項が、空間構成の美しさをも際だたせていた。

縄梯子のほか何もない素舞台(小道具の新聞紙、マクドナルド、コカ・コーラ)にいるのは、俳優だけだ。彼らは、男と女を、部落の人や男の恋人を、また同僚を演じ分けるだろう(「演じ分ける」というと語弊があるけれど…)。原作の男女はひとりずつ。しかし、舞台には四人の男と、女が三人。男女を一人ずつあてがえば、勘定は一人余る。そこでジャンケンだ。幾たびかのアイコを経、負けた男(中村岳人)は残念ながら退場、嬉々とヨダレでも垂らしそうな男(榊原毅、岡野暢、橋口久男)と、婉然とうち笑む女(大川潤子、立崎真紀子、舟川晶子)のドラマはここにはじまる。「Love is Blue」の〈対訳〉が台詞化されたり、言葉と身体が紡ぐロマンスの意気は、三条会『砂の女』の主線となる。

言葉と身体をつなぐ作業のなかで、〈一人複数役・複数人一役〉という特徴は一人の人間の心の多層をあらわすものでもあった。たとえば、榊原毅が立崎真紀子と言葉を交わす、その後ろのやや薄い暗がりで、岡野暢と大川潤子が凝ッと向き合っている。照明のスポットに浮びあがる言葉のやりとりと、余光と闇のぼんやりとした境界に無言の交感が同時にあらわれる。〈そこにいる〉であろう人間の行為は、ただそれだけなのでなく、たとえば〈こうありたい〉と願う心情、あるいは衝動といった、本来であれば不可視であるはずのものが、「三人」の形象を借りて舞台空間に顕現されていた。

『砂の女』において殊に男は、予期せぬ事態にさまざまの葛藤を強いられる。昆虫採集に来たのに、まるで自分が虫のごとく、「蟻地獄」に捕らわれる。同僚や恋人との対話の形をも借りた自己内対話は分裂し、分裂する男の内面はきわめて理性的なようであって、ケモノじみていくだろう。冒頭から時折、そして幕切れ近くにも、片足をのばし、腰を折った前駆姿勢で両手を前に構え、男たちは犬のように唸り、吠える。ケモノじみた男たちは恰も本能だけを残し、ジャンケンに敗れた一人が唯一の理性である、か。砂穴の外からの目を持つ中村岳人はコロスだったり、狂言回しだったりもする。あの、軽みをフンダンに湛えた笑顔は、「三人」の、劇の緊張をいつでも対象化してやまない。それに、マクドナルドの紙袋を抱え、白髪混じりのカツラ戴く訳知り顔は、やっぱり誰かによく似ているのだ。

一方で女は、「三人」になりながらもその意識は一貫し、分裂した男のそれぞれと対応するように相手をするだろう。砂の穴に住む彼女の目的はひとつであり、三人寄れば何とやら、かしましき乙女たちは寄り添い、ひそやかに笑み合い、男をあしらいからかいつつ、その魅力で以てときに積極的に男を誘う。男が、言葉と裏腹の心理状況に置かれるのに対し、女の言葉は、内面にも根拠づけられている。随所に鏤められた、合せ鏡のような空間構成は、俳優の身体表現だけでなく、『砂の女』の構造そのものを可視化してみせる。冒頭で女が語る〈砂〉の定義をはじめ、そのイメージと実体の変遷が、男と女の意識化のズレともなってあらわされていた。

やがて妊娠が発覚した女たちは、男(中村)とともにキャッキャッと穴の外へ出ていく。呆然と残された男たちは〈底〉を背にして、冒頭とは逆の状況が、ねじれた円環をしめしていた。そして終幕へ。知ってる人は大喜び、知らない人もアレと驚く「バビル2世」だ。「砂の嵐にかくされた」塔にいるバビル2世。砂の穴の底にいた男女は、華やぐレヴューよろしく、賑々しい歌と踊りによって一気に穴から駆け上がり、砂漠にそびえる幻の塔の高みをめざす――とは、ちょっと熱に浮かされた勘繰りが過ぎたかもしれない。けれども、『砂の女』の、一種、悲劇的・極限的な物語を、抜群の明るさと身体性で超えていくスタイルは、物語回帰ではない、演劇の楽しさを十全に、肌で感じさせてくれる。舞台空間に横溢するエネルギーは、その意味よりも(もちろん「意味」はあって)、〈それがそこにあること〉自体で、観客の感覚に強く訴えかけてくるのである。(2006.5.28/1010ミニシアター)

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