シベリア少女鉄道 『残酷な神が支配する』

◎残酷すぎる人々

なにやら近頃小劇場ブームらしい。『ユリイカ』が特集を組んだのが昨年の7月、今年に入っても『スタジオボイス』6月号は「演劇入門 小劇場ガイド2006」という題で特集を組んでいる。テレビメディアにもこの余波は流れており、『劇団演技者』(CX系)という番組は、ジャニーズ事務所のタレントと小劇場の俳優達が、これまた小劇場の劇作家の戯曲を4週間に渡って上演するというもので、ふれ込みは「期間限定劇団」である。若手劇作家が小説を発表すれば文学賞にノミネートされるといった格好で、破竹の勢いで駆け上がっているように見える。見えると書いたのは、そういった動きは全て東京でのことであり、私のように大阪の地に住む者は以上に挙げた媒体からの情報を基にしてそう察するしかない。そういう訳で本当に今、小劇場がブームなのかを肌身に感じていない以上、半信半疑の面がないわけでもないが、ためしに関西の劇団で有名なものを思い浮かべてみても、それらは東京公演を行っているものばかりだというのもまた事実であり、どうやら演劇の東京一極集中化はいつまで経っても変わらないようだ。


長々と東京の演劇事情に対する一種羨望も含んだ文章を書いたのは、まさに小劇場ブームというものを先頭に立って引っ張っている劇団の一つらしいというシベリア少女鉄道の関西初公演となる『残酷な神が支配する』を観たからである。この劇団は土屋亮一がインターネットで劇団員を募集するというユニークな方法で2000年に結成、着実に観客動員数を伸ばしている。五反田団や毛皮族、ポツドールといった劇団は既に関西公演を行っているが、近々関西公演を行う劇団としてチェルフィッチュやペンギンプルペイルパイルズ(共に9月)が控えているし、東京の劇団自らが演劇の東京一極集中化に疑問を感じて関西公演を行うTOKYO SCAPEというフェスティバルも7月末から京都で行われた。こういった試みは少なからず東京の演劇事情を知ることになり、関西劇団との相違点を見出すことも可能だろうし、そこから活況を呈している小劇場の貌というものも見えてくるかもしれない。

3つに仕切られた回り舞台式の演技空間(部室、監視室、喫茶店)が真ん中に設えられており、上手と下手には映像投影用の壁がある。その下手壁に突如、アントニオ猪木のアップ映像が流れ、ひたすら闘魂ビンタを繰り返す。映像の中の猪木は、格闘技イベントへ現れた観客へ闘魂ビンタをお見舞いしているのだが、ビンタをすると打撃音と共に回り舞台が右へ左へ回る。つまり、映像の猪木と舞台上で行われている事がリンクしており、また、登場人物達は何が起こっているのか皆目検討がついていないのだが、流れのままにそれに従うのである。そして観客は火が点いたように爆笑し始めたのだ。

突然、何を書いているのだとお思いだろう。いきなりこの舞台の結論というか、<ネタ>部分をバラしてしまったので仕方がない。実は、猪木の映像が出現するまでは真面目な「お芝居」が1時間20分ほど進行していた。妹の祥子(出来恵美)を誘拐された山内達郎(藤原幹雄)と警察官である桜井哲也(前畑陽平)、原田隆之(吉田友則)、草壁真一(横溝茂雄)、それに桜井の友人の江藤祐次(加藤雅人)大学職員の瀬名美帆(篠塚茜)が、誘拐犯を突き止めるために繰り広げる推理劇がそれなのだが、全ては後半20分の猪木登場までの長い<ネタ振り>でしかない。絶えず時計の針が刻む音が流れるのも、「バカになって考えろ」と桜井が生真面目で論理的な考えしかできない女に土壇場で叱責するのも、誘拐の緊迫感を醸し出し、ドラマを盛り上げる演出効果というよりも、PCに記録されている警察の機密データを爆破するという犯人からの警告通り、3分前のカウントダウンがゼロになった瞬間、突如『イノキボンバイエ』と激しい照明と共に猪木の映像が現れるまでの用意周到に散りばめられた笑いの種でしかなかったのだ。

なるほど、様々な所から手に入れた情報通りシベリア少女鉄道の劇は、長い<ネタ振り>と<ネタ部分>から成り立っている。前半の笑いを一切排除したドラマ部分では観客にフラストレーションをギリギリまで溜めさせ、一気に後半それを爆発させることに使う手法は確かに大和田俊之が先に挙げた『ユリイカ』で「前半の物語の虚構性が保たれることで、それを共有する舞台と観客との間に共犯意識が生まれ、『内輪受け』を準備する空間が成立する」と指摘するように観客と創り手との「内輪的な」おもしろさがこの劇団の要となっているのは明らかだろう。舞台と観客が一体となって親和空間を形成するには、できる限り情報を共有する必要がある。前半の1時間20分が<ネタ>というのは後半の笑いのために伏線となること全てを生真面目さを装って前半部で提示しておくという作業を行っていたのだ。ここまで書けば、この作品においては、アントニオ猪木という「もう一人の登場人物」が<ネタ>の全てを体現していることは明らかだろう。

私を含め、猪木がプロレスをする勇士を見たことのある若者はどれだけいるだろうか。モハメド・アリと対戦した異種格闘技戦、タバスコを日本で初めて輸入したこと、1998.4.4の東京ドーム引退試合は知っている人もいるかもしれない。しかし、アリと対戦したのは30年も前になる訳で、現在私達が知り得るこういった「伝説」はテレビのプロレス番組や雑誌媒体によるいわば二次情報からもたらされたものである。そして猪木自身が様々な人に物マネされてしまっている今では、おもしろさばかりが強調されてしまった、闘魂ビンタを見舞って「道を説く人」という認識が広まっている。なによりこの舞台で大いに笑いを誘いつつ核となる部分も、この猪木の闘魂ビンタとマイクパフォーマンスという誰もが共通言語として流通しきっている2点なのである。

舞台の題名は『残酷な神が支配する』である。神が死んだというニーチェの言葉を引き合いに出すまでもなく、こと日本人に限って言えば全体を導いてくれるような確固たる絶対的な神を共同幻想として抱いてはこなかった。特に若者達にとっては、その世代や個々個人によって固有の神を崇めてはこなかっただろうか。個人の時代、個性の時代が叫ばれる昨今では特にその傾向が如実になって来て、その対象は文学者や宗教家をはじめ、芸能人や二次元の世界の住民であるマンガやアニメキャラクターへとかなり広い振幅を見せている。個々個人によって神となるべき存在が異なるということはつまり、自分とは異なる神を大切に抱く人間、自分には理解できない、時代遅れとなった神に対しては「分からない」と言って切って捨てるということである。従ってまずはこの舞台での神とはまさに後半、舞台を引っ掻き回す猪木ということになる。しかも卑下されてしまった神として。

だから、舞台下手に映った猪木が闘魂ビンタを繰り出せば時計回りだった周り舞台が逆回転することになるし、生真面目にしか思考し、行動できなかった篠塚が「バカになってみるわ」と決意する際には猪木はマイクパフォーマンスで「バカのススメ」を説くのである。前半部の全てが伏線となっているというのはそういうことであり、それがこの劇団の笑いの原動力となっている。しかし舞台を注視すれば、舞台の進行を支配しているのは猪木のように思われるが、登場人物である若者達は今自分達が置かれている状況をむしろ逆手にとって遊んでさえ見え、熱くそして真剣に我が道を説いている猪木は芝居の<ネタ>に使われているに過ぎないという逆転の構図が鮮明になってくる。つまり、「残酷な神」とは差異化、情報多加な時代にあっていかに楽しく、おもしろく生きようかとする若者の方だったのである。その辺の感性というものを土屋亮一は巧みに捕えている。

だが、彼ら登場人物達もクライマックスに至って変容が起きる。その場面とは、時計回りに回り続ける舞台に対し、全員が反対方向を向きながら足踏みするシーンである。つまり部室、喫茶店、監視室をロードムービーさながら巡回する格好になるわけだが、進む内、一人ずつ立ち止まって脱落(舞台奥へハケる)していく。後半部、彼らは猪木というもう一人の<登場人物>による外圧にも屈曲することなくその場が不条理であることにも意に介すさずに戯れているように思われたが、最後には完全に後半部から覆い尽くす二次元空間の枠に取り込まれて消え去ってしまうのだ。

作品は破たんしているように見えながら、全てが緻密な伏線の基に練られているからこそ、いくら唐突に展開が切り替わっても観客はしばらくすればテトリスのようにブロックがうまくはまり込んだ時のような快感を覚えて納得するのである。同じ事を、先に引用した大和田俊之は本格推理小説の謎解きの快感に似た感覚を指摘し、また前半部が後半部に取り込まれるという点に、演劇という制度そのものを揺るがせることは決してないということに触れている。あまりにも私がこの理数系劇について事前に仕入れていた情報の通りに進む展開を魅せたのはそのシステムと呼ぶべきものが、変奏こそ見せるものの、確立しているからなのである。しかし、だからこそこの作風がいつまで通用するのか私は疑問を抱くのだ。簡潔に言えば新鮮味をどこまで維持することだできるのかということだが、この劇団の作風が電脳世代による新時代のポップ劇であるならば、それを支える観客層もまた然りである。今後このまま演劇界のメインストリームを目指すならば、同じ地平で立ち止まってもし時流を取り損ねることになれば、この舞台の登場人物と同じように遠景の虚構空間に消去される結果になろう。観客の求める刺激は回を重ねる毎に果てしなく激しく、そして高度になっていくのだ。

最後に、私は舞台を観ながら京都の劇団ヨーロッパ企画と理数系という点で似ていると感じた。ヨーロッパ企画の登場人物が、無個性性を所有しているのは、記号論的な次元内で戯れている今の人間の存在というものを鑑みれば当然の帰結だし、結局「日常」という枠内で物語が進行し、あくまでもそれを瓦解させることはない点も似ている。しかし、戯曲のうまさは際立っているがシベリア少女鉄道のように斬新さは少ない。演劇の制度を揺るがせることのないシベリア少女鉄道、その演劇の制度内のそのまた「日常性」という所に基点を置くヨーロッパ企画、2つの劇団の同位性と少なからずの差異はここにある。今回のシベリア少女鉄道の大阪公演は貴重なサンプルだったことは付け加えておきたい。
(7月21日 精華小劇場 ソワレ)

(藤原央登 現在形の批評

[上演記録]
シベリア少女鉄道 『残酷な神が支配する』(7月20日~23日)

【作・演出】土屋亮一

【出演】
前畑陽平
篠塚茜
藤原幹雄
吉田友則
横溝茂雄
出来恵美
加藤雅人(ラブリーヨーヨー)

【スタッフ】
舞台監督:谷澤拓巳+至福団
音響:中村嘉宏(atSound)
照明:伊藤孝(ART CORE design)
映像:冨田中理(Selfimage Produkts)
舞台美術:秋山光洋
衣裳:坂倉香子
小道具:畠山直子

舞台監督助手:津江健太(至福団)
演出部:岩田和明・福知美和子
音響操作:井川佳代
照明操作:小川英士
大道具:C-COM舞台装置
舞台写真撮影:青木司
スタッフコーディネーター:キモトマユ
宣伝美術:チラシックス

制作:保坂綾子・安元千恵

製作:高田雅士

助成:芸術文化振興基金
制作協力:サンライズプロモーション大阪
主催:精華小劇場活用実行委員会・精華演劇祭実行委員・ニッポン放送
企画・制作:シベリア少女鉄道


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください