別役実作「壊れた風景」(組曲「二十世紀の孤独」第三楽章)

◎責任も無責任もありえないような状況がありうるということについて
竹内孝宏

戦後のリベラリズムを背景にした「無責任」の理論と表象―つまり丸山真男と植木等―を補完するかのように、この国のネオ・リベラリズムは、「自己責任」の言説を風俗的に定着させた。それは、勝ち組に対する負け組のルサンチマンに収斂することもあれば(イラク人質ジャーナリスト批判?)、逆に勝ち組の負け組に対する完膚なきまでのダメ押し(構造改革?)として顕在化することもある。

しかし、それにしても「自己責任」とはどういうことか。いそいでつけ加えておくと、わたしはここでなにも言葉の意味や法律の解釈を問題にしているわけではない。「責任」における具体的な行為とその現場的な効果の関係は、さほど自明のものでもないという事実を確認しておきたいまでのことである。いったい、どういう事態に対してどういう行動がなされたとき、「自分で責任をとった」ということになるのだろうか。

たとえば、他人のメガネを探していて、首尾よく見つかったのはいいがしかし壊れていたのでともかくいちおうこっちで弁償しておくという「事なかれ主義」は、「自己責任」の表現たりうるのだろうか。あきらかに他人がセットした豪勢なハイキングのフルコースを、その他人がいないのをいいことにみんなでさんざん食い散らかした挙げ句、いざとなったら頭割りで金銭的に賠償すればいいという「開き直り」についてはどうか。あるいは逆に、道端で回りっぱなしになっている所有者不明のレコードプレーヤーをそのままほったらかして自分の現在地を地図で確認する「自己チュー」な作業に没頭するのは、はたして「無責任」な行動だろうか。

ハイキングのフルコースといい、壊れたメガネといい、回りっぱなしのレコードプレーヤーといい、これらはいずれもわたしが任意にもちだしてきたのではなく、『壊れた風景』で別役実が導入したモティーフ―より正確には「仕掛け」である。しかし、だからといって、いかにも「日本(人)的」な優柔不断と付和雷同が支配する「無責任の体系」がそうした仕掛けの数々をつうじて生成されるというようにわかりやすく考えるのは、端的にまちがっている。なるほど、『壊れた風景』には、それこそ植木等もビックリというほど「無責任」な男女が跋扈し、またそれこそ丸山真男的に「無責任の体系」とでもいうしかない日本的ズルズル共同体が、密度の高い描写によってコンパクトにモデル化されている。そこまではいい。しかし『壊れた風景』の仕掛けはもっと複雑である。そもそも、日本人は無責任であるとか、日本は無責任な共同体であるとかいったまっとうなだけの「イメージ」を(たとえ一流の不条理とアイロニーの意匠を凝らしてであれ)追認するためにわざわざ芝居を書くほど、たとえこれが初演された1976年の時点ですら、まさか別役実ほどの作家は暇ではあるまい。

無責任の体系が体系として作動するとき、そこに主体としての無責任男/女はすでに必要ないということ、また逆に、無責任男/女たちの集団がありさえすれば、ただそれだけで無責任の体系が成立するわけではないということを、別役実は知っている。つまり、『壊れた風景』になんらかの日本戦後民主主義批判なり日本人論なりが書きこまれているのだとすれば、それは「責任主体としての未成熟」ということではなく、むしろ「無責任男/女の成立不可能性」という、より厳しくラディカルな命題に関わっているということだ。しかもそれは体系的であり、そして偶発的である―つまり主体の意思決定とはまったく無縁の位相にある。

そのことをもっとも集約的に示しているのは、やはり全体の幕切れにあたる第四場ということになるだろう。ここでとうとう、登場人物の全員が、依然としてだれのものなのかわからないハイキングのフルコースをみんなでシェアしはじめる。しかしそこで前景化しているのは、破廉恥で無責任な行動というよりもむしろ、あるいはそれ以前に、整然と体系化された無責任原則とでもいうべきものである。主体による主体的な決断をまつまでもなく、「バレたら頭割り」の民主主義的な責任了解により、それぞれの「取り分」が権利として保証されている―食べなきゃ損ですよ!―からである。

ところがこの芝居は、フルコースをセットした当の本人がついにその姿を現したので、最初の合意事項にしたがい「頭割り」の金銭的弁償で文字どおり負債を精算するとか、あるいは逆に、食うだけ食ってさっさとトンズラを決めこむとかいった、いずれにしても予定調和的な結末を用意していない。かりに前者であれば、どうにかこうにか、「無責任の体系を正面から突破しようとする責任の主体の成立」というモダンな物語になるだろうし、後者であれば、これはもうあからさまに、「無責任の体系の裏をかく無責任の主体の成立」というポストモダンな物語になるだろう。

しかしそれらはどちらもあっけなく骨抜きにされる。饗宴の前に現れたのは、なにか小型の通信機器をもった男で、もちろんそれは待望されていた当の本人ではない。しかもこの男は、(すくなくとも今度の演出では)別段それと見てわかる制服のようなものを着用しているわけではないが、どうやらこのあたりで事件があり、なんらかの公権力としてその調査をしているらしい。警察の可能性もある(そういえば、そもそもこの芝居は、近くにあるはずの交番が見当たらないという母娘のやりとりから始まっていた)。ともあれ、「真実」はついにこの男の口から告げられることになるだろう―蓄音機と食事の支度をしたのはとある家族で、しかもその六人家族は、ここからほど遠からぬところに停めた車のなかで原因不明の一家心中を遂げたのだ、と。

ポリス・エクス・マキーナ? ギリシア悲劇に結末と収束をもたらす「機械仕掛けの神々」の役割が、ここでは近代的な世俗権力によって代行されているといったりしたら、あまりにアナクロニックで学校教師的だろうか。しかし、ともかくわれわれは、自分より弱そうに見えるやつには威張るくせに権力と死者にはただそれだけでペコペコするとかなんとかいうような「日本人の日和見的エセ主体性」を、このブラック・ユーモアから抽出して満足してしまうようなことだけは避けなければならない。責任の主体にしろ無責任の主体にしろ、体系的な無責任に対していくら主体を立てようとしたところで、それは偶発性の介入―責任なり無責任なりの観念を発生させる参照系そのものの唐突な消滅―によって一挙に不毛化されうるというのが、このなんともやりきれない幕切れのメッセージだからである。実際、こうなってはもはや登場人物のだれ一人として責任をとることはできず、だからといって無責任を声高に主張することもできず、塩をふったゆで卵かなにかを口いっぱいにほおばりながら、そろいもそろって間抜けな面をたがいに見交わす以外、ほかにやることがなくなってしまうのである。

この笑うに笑えないハイパー・ポストモダンな状況にとってかわるヴィジョンなり戦略なりを、『壊れた風景』が積極的に提案しているわけではない。あるいは、それだとなにか作家の手抜きか限界であるかのように聞こえてしまうようなら、あえて開かれたまま残されているといってもいい。だから、われわれとしても純粋に戯曲レベルの議論はいっそこのあたりで打ち切り、むしろ実際の上演について最後にひとことだけ述べておくべきだろう。

これほどまでに言葉として堅牢に構成された戯曲からすれば、さらにその戯曲が「主体性」としての登場人物よりもむしろそのバックグラウンドでひそかに動いている「関係性」―それをパースペクティヴ、あるいは単に「風景」といいかえることもできるだろう―それ自体を問題にするものであるならばなおさらそうだが、俳優の身体性はむしろ邪魔になる。ほとんど「古典主義的」な慎みが要請されるはずだ。そういった意味からすれば、道に迷ったマラソン・ランナーが、全身これ汗(疹)まみれになりながら、しかも股上げをしながら息ひとつ乱すことがなかった―この芝居にもっともふさわしくない表現主義的クソリアリズムはそれで見事に回避される―という事実は、どうしても記憶にとどめておかねばならない。この「男2」を演じた裵優宇は、ようするに俳優としてあくまでプロフェッショナルであったということなのだが、そこのところをたとえば自己責任の表現などといったとしても、おそらく許されるだろう。

【筆者紹介】
竹内孝宏(たけうち・たかひろ)
1967年東京生まれ。東京大学教員。表象文化論。ジョルジュ・ディディ=ユベルマン『残存するイメージ-アビ・ヴァールブルクによる美術史と幽霊たちの時間』(共訳、人文書院、2005)の訳者であり、同時にまた、「「白い黒人」とレイシズム-エドワード・オールビー『ベシー・スミスの死』」(『劇場文化』No.9)、「ベルサイユのばら、あるいは宝塚のトラウマ」(『悲劇喜劇』2005年9月号)など、演劇をめぐる論考の筆者でもある。

【公演記録】
燐光群+グッドフェローズ プロデュース壊れた風景」(組曲「「二十世紀の孤独」第三楽章、SPACE 雑遊 オープニング企画)
新宿・SPACE 雑遊(9月3日-10日)
http://www.alles.or.jp/~rinkogun/kodoku.html
作○別役実
演出○川畑秀樹

<CAST>
女1…………………… 坂井香奈美
その母………………… 中山マリ
男1…………………… 川中健次郎
男2…………………… 裴優宇
男3…………………… 内海常葉
女2(男3の妻)…… 樋尾麻衣子
男4…………………… 小金井篤

<STAFF>
美術○池田ともゆき
照明○竹林功(龍前舞台照明研究所)
音響○島猛(ステージオフィス)
舞台監督○高橋淳一
衣裳○鈴木真紀子
演出助手・音響操作○坂田恵
進行助手○楠原礼美子
照明操作○伊勢谷能宣
設営協力○鈴木等(スペースライン)
宣伝意匠○高崎勝也
制作○古元道広・近藤順子・小池陽子

協力○太田篤哉(SPACE 雑遊 オーナー)
龍前舞台照明研究所
ステージオフィス
高津映画装飾株式会社
C-COM
岡野彰子
川端恵美子
小林優
園田佳奈
増永紋美
八代名菜子
矢野志保

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