新国立劇場『夢の痂』(作・井上ひさし、演出・栗山民也)

◎「述語」を「主語」に
後藤隆基

六月から七月にかけて新国立劇場小劇場[THE PIT]で上演された『夢の痂』(作・井上ひさし、演出・栗山民也)は、改めて云うまでもなく「東京裁判三部作」という連作劇の完結編である。『夢の裂け目』(二〇〇一)からはじまり、『夢の泪』(二〇〇三)と書きつがれた主題は、これまた断るまでもなく「東京裁判」である。第一作の『夢の裂け目』では、紙芝居を通して東京裁判のかくされた構造を明らかにした。つづく『夢の泪』は、A級戦犯・松岡洋右の弁護人を主人公にすえて裁判を〈内側〉から掘りおこす大胆な力業であった。そして、この第三部は――。


『夢の裂け目』で紙芝居が暴いた東京裁判のカラクリ―「テンノーと日本人に戦争責任をとらせないための日米合作」―によって暗黙に免責された、見えない罪過に光があてられる。昭和二十二年七月上旬、東北の小さな町。一見、裁判とは何のかかわりもなさそうな地方旧家の別邸が舞台となる『夢の痂』は、全七曲の劇中歌にしても、クルト・ヴァイルのスコアやリチャード・ロジャースなどのブロードウェイ・ミュージカルのナンバーを中心に賑々しく織りなされた前二作と較べても、ちょっと控えめな趣に思われた。

井上ひさしは、公演プログラムの「ある献辞」という文章のなかで「この第三作には、東京裁判のとの字も出てきません」と断っているが、地主の座敷で繰り広げられた天皇の東北巡幸を迎えるための予行演習は、たしかに「東京裁判」の「予行演習」なのだった。それは、いつの日か来るべき、しかし来なかった時間。本当は行われるべきだった、にもかかわらず行われなかった裁判、そのリハーサルであり、一人の女性―「涙の谷」に日々を暮す市井の人が直接に天皇を喚問するという卓抜な趣向である。

省略される「日本語の主語」の問題を論じた「文法の授業」のあとで、〈天皇(=主語・状況)〉に見立てられた「金屏風」が取り払われる。ト、青白い霊妙な照明の下、ほとんど「天子さま」になりきった徳次が椅子に腰かけている。絹子の「予行演習をいたします」の声で全員が御前に控えると〈開かれなかった法廷〉が開かれる。下手の舞台端、オーケストラ・ピットの傍までおりて、徳次(=天皇)に直訴する絹子。このとき客席は「裁判」の傍聴席に見立てられると同時に、劇場を埋め尽したわたしたち観客は陪審員としての役も振られていた。

「かしこくも天子さまにおかせられましては、その戦いのわざわいを引き起こされた御責任をいかがお考えあそばされておいででしょうか」。絹子に問いつめられる徳次(=天皇)が「責任は参謀たちにある……」と怯えるとき、この怯えは「天子さま」の「大御心」だったのか。あるいは天皇を慕い、天皇を庇おうとする徳次のものなのか。井上ひさしは〈演ずる〉行為の多重構造を劇中に仕掛ける。俳優たる「角野卓造」がいて、「三宅徳次」という大本営参謀を演ずる。その彼が、今度は「仮の天子さま」を演ずることになる。演じているうちに自他の境界はゆらぎ、恰も本物の「天子さま」のごとく変身してしまう。〈人間化〉を宣言した天皇と対置されるように〈天皇化〉していく徳次の姿は、「天子さま」という聖なる存在を道化的にもどくパロディとなる。またそれは〈天子さまもわたしたち同様、人びとのひとりである〉というユーモア精神にも通じていただろう。

何かに憑かれたような徳次(/角野卓造)の名演もさることながら、周囲の人びとが「御前での振舞い」を結構よくやっている点を忘れてはならない。佐藤家に集う人びとは、徳次が「仮の天子さま」になりきるための条件をととのえ、あげく眼鏡や付け髭まで用意して(角野の姿は昭和天皇と云うより、某陸軍大将にもひどく似ている)、結果的に徳次の〈天皇化〉を強く後押ししていた。そこに、絹子が最後の仕上げをほどこすのが、第四場「金屏風」の山場である。

「歌にお逃げあそばすな」と強く詰め寄る絹子と、悶える徳次。まったく言葉だけによるダイアローグの時間は、けっして長くはなかったけれど、ともすれば尤もらしい言説に回収されかねない主題を求心化し、劇の緊張を密に高めていく。そして徳次が「すまなかった」と頭を垂れるとき、「東京裁判三部作」をしめくくるのは、「わたしたちが、わたしたちを」裁かねばならないという、『夢の泪』が残した宿題への答えだったことに気づかされるのだ。

ホンモノの天皇の身代りとして糾弾され、歴史のけがれを引き受ける徳次は、「天子さま」となりきるうちに知らず退位まで決めてしまった。我に返り、そのショックから金屏風を抱えて逃げ出してしまう。裏の崖から飛び降りるが助かる。またしても「死」はずっこける。ごっこ遊びはついに狂気にまで高まる。呆然とする男たちに高子が云っていた。「検分がすんで、天子さまがいらっしゃって、そのあとはどうするの?」「働いて、ごはんをたべて、眠って、また働く。決まってるじゃない」。彼らにとって一大イベントである天皇の御巡幸とは一種の〈お祭り〉であり、そのあとには前からつづく普通の暮しがある。女たちが誘う『日常のたのしみのブルース』は、〈お祭り〉を経由した先にある日常への寿歌でもあった。

戦争によって解体された「大日本帝国」の〈歴史〉の跡で、フツーの男と女が出会い、再出発を図る。それが『夢の痂』に仕組まれたもうひとつのプロットである。舞台には〈未来〉を担うべき若い人たちと、〈過去〉を築いてきた老人と、そして社会構造の基軸となり、直近の〈歴史〉を抱えながら―あるいは忘れながら―〈現在〉を再構築していく男と女がいる。とくに「ある参謀」と「ある女流文法学者」の恋物語は、劇を貫く芯棒になるだろう。「敗戦」という一つの終結点は、大本営の参謀なる「ある男の半生」の終わりでもあった。昭和二十年八月二十八日の熱海屏風ヶ浦、三宅徳次の自殺未遂から始まった『夢の痂』は、「裂け目」と「泪」の時間(=敗戦のあくる年)をまるごと包みこんだ先に展開される。そして物語は、天皇御巡幸の予行演習という〈お祭り〉のなかで、徳次演ずる「仮の天子さま」の謝罪と退位の言葉によって「ある女のなげき」が救われ、その新たな出発が祝福されたときに幕が下りる。劇の終幕は希望さえ孕みながら、彼らの人生の始まりを告げていた。

エピローグも大詰にさしかかると、おしまいの劇中歌『ある女流文法学者の半生』の後半で、サッと舞台が暗くなる。蔵の入口(舞台奥)から射しこむ、やけに明るい外光ばかり背にした九人の男女は顔も衣裳も闇に失われ、寄りそい歌いつづけるシルエットだけが舞台に黒々と浮びあがる。匿名となった人びとの影が「この人たちの/これから先が/しあわせかどうか/それは主語を探して隠れるか/自分が主語か/それ次第」と歌うとき、「この人たちの」未来とは、いま客席に坐るわたしたちのことでもあった。登場人物に仮象された個々の肖像を剥ぎとることで、劇のなかにあらわれた具体的な記名性を消し去り、最後の最後で舞台と客席とを接続する。栗山民也は、劇中人物のゆくえに「どこへいくのか」わからぬ「われわれ」の姿を重ね合せる。これまで観てきた劇が、自分たちの現在へとつながっていること、劇を生きた彼らが、云ってみればわたしたち自身の似姿であることを暗示していたのだった。三作を通せばおよそ九時間近くに及ぶ一大叙事劇の相貌が、「夢」を冠された「東京裁判三部作」の総体である。そのすべてを、ほぼ同キャストの俳優九人(『夢の裂け目』のみ、福本伸一ではなく大高洋夫が出演)で上演した意図もそこにあった。

井上ひさしが追い(負い)つづけるのは、変えられぬ過去を、ほんの一瞬でも超えることのできる劇的方法への問いかけである。井上戯曲に描かれるような〈歴史〉と直接につながる人びとは、いずれ誰しも不帰の客となる。そうなったとき、「戦争を知らない子供たち」やその子孫たちが「東京裁判三部作」のような舞台をどのようにみるのか。そんな杞憂はいらぬ心配、余計なお世話だよと云われるかもしれない。けれども、客席の年齢層の高さを鑑みてもやはり、「この先」がどうしても気にかかって仕方がないのだ。

目の前の舞台に紡がれていく劇の未来が既知であることを前提に世界は相対化されていく井上芝居。歴史とはすでに定まったものであり、どんな虚構を経由したところで、歴史そのものを嘘にすることはできない。しかし、わたしたちはそれを曲げてきたというのだ。「東京裁判三部作」とは、未完の歴史を確認する作業でもあったし、時間の隙間に挿入された〈天皇東北御巡幸〉という出来事は、ひとつ〈終わりと始まり〉という構図を劇に与えた。そのときはじめて、劇の未来は〈未知〉のものになる。

「自分が主語か/主語が自分か/それがすべて」と人びとが歌う幕切れにフト、『道元の冒険』で第十七回『新劇』岸田戯曲賞を受賞した当時の井上ひさしのことばを思い出す。「述語であり続けること」(『新劇』一九七二・三)という小文がそれである。「喜劇や笑劇は、わが日本列島においてはついに主語になりえず[略]常に述語として使われることになっている」。そして「主語になりにくい曖昧さや身の軽さがありすぎる」から「述語の位置に甘んじているしかない」のだと述べる。そうした「曖昧さや身の軽さ」を「主語」とし、普通であれば主語の位置に冠される思想やらテーマを対象化する。「重喜劇」とも評される井上芝居は、述語的なるモノを主語に反転させる軽やかさで以て、重く見られがちの物語を舞台に息づかせんとしてきた。「これから始まる喜劇は/ある男の悲劇」とプロローグで歌われた「喜劇」が、果して「主語」となりうるのか。劇の向う側に、おそらくはじめて〈未知たる未来〉の余白を示した『夢の痂』。わたしたち観客があらためて〈過去〉を見つめなおすとき、〈未来〉はいつかの〈現在〉となるハズである。(二〇〇六・七・二一/新国立劇場小劇場[THEPIT])

【筆者紹介】
後藤隆基(ごとう・りゅうき)
1981年静岡県沼津市生まれ。立教大学大学院博士課程前期課程。日本文学専攻。Wonderland 執筆メンバー。

【公演記録】
夢の痂 ゆめのかさぶた」
新国立劇場小劇場(6月28日-7月23日)

スタッフ
作: 井上ひさし
演出: 栗山民也

音楽: 宇野誠一郎
編曲: 久米大作
美術: 石井強司
照明: 服部 基
音響: 山本浩一
衣裳: 前田文子
ヘアメイク: 佐藤裕子
ステージング: 夏貴陽子
歌唱指導: 満田恵子
演出助手: 北 則昭
舞台監督: 増田裕幸

芸術監督: 栗山民也
主催: 新国立劇場

キャスト
角野卓造 高橋克実 福本伸一 石田圭祐 犬塚 弘
三田和代 藤谷美紀 熊谷真実 キムラ緑子

(演奏)
朴 勝哲 佐藤 桃 大下和人 佐藤拓馬 山田貴之

【関連情報】
後藤隆基さんの執筆公演評
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