◎ドラマとギャグの間のミディアムテンポ
柳澤望
先ごろ上演されたフランケンズの新作『暖かい氷河期』は、ゴルドーニの『二人の主人を一度に持つと』を取り上げた上演だった。フランケンズは、昨年『ラブコメ』と題して、モリエールの『女房学校』を上演していたが(注1)、この2作はコメディア・デラルテを起源としたヨーロッパ喜劇の歴史をたどる連作のようになっている(注2)。
さて、コメディア・デラルテと言えば、その伝統を現代によみがえらせたストレーレル演出の『二人の主人を一度に持つと』の来日公演を私は、幸運にも、見たことがあった。こちらで主人公となる道化の典型、アルレッキーノの身上は、軽快さと器用さだ(注3)。
この本家(?)『二人の主人を一度に持つと』では、主人公はあまりに機転が利くので、ちぐはぐな状況を取り繕おうとして、状況はさらにちぐはぐしたことになってしまい、それを取り繕う機転によって、ドタバタと状況はさらに加速していく。踊っているのか踊らされているのかわからないところでコケそうでコケない軽業が回転し続ける。
それに比べると、フランケンズの誤意訳版『暖かい氷河期』では、同じ『二人の主人を一度に持つと』が原作ではあっても、主人公は、どこかのんびりしている。ぐずぐずしていると逆に状況は好転してしまうかのような。
魯鈍というか愚鈍というか、道化(fool)といっても「おっちょこちょい」なアルレッキーノとは別の類型に属するような、いわばどこか「のろま」な人物に変換されている。
これは、主演の役者、福田毅のキャラクターに負うところも大きい。どうしたって、機敏なキャラクターじゃない。でも、この置き換えには、同じ曲をテンポを変えてプレイして別の魅力を引き出すDJのような手つきも感じられて、それはやはり演出の仕事なのだ。
結果として、筋立ては同じなのだけれど、フランケンズ版では、全体としてテンポはのんびりしたものになり、取り違えに発する喜劇の面白みはあまり際立たない(注4)。だが、フランケンズの最近の古典喜劇の連作では、喜劇のテンポを落とすことで、そこにドラマが際立ってくるようなところがあるようだ。
『二人の主人を同時に持つと』のお話では、兄に変装した妹が活躍する。フランケンズを主宰する中野成樹さんも公演の案内で「男装の麗人?ありえない」なんて原作に「突っ込み」を入れていた(注5)。
喜劇の枠組みにおいては、筋立ては登場人物の「うっかり」さ加減を強調するための空転する機械仕掛けのように働いて笑いをお膳立てすることになるが、それをドラマとして見てしまえばどこか陳腐なお話になってしまう。
でも、その陳腐なお話を、演劇的なものとして、ドラマとしてあえて引き受けてしまうところに、フランケンズを主宰する中野茂樹さんの資質があると思う。「誤意訳」としてほとんど縁もゆかりもない遠い国の遠い時代の戯曲を、距離を残しながら身近なものとして受け止めようとする姿勢にもそれは通じていると思う。
ゴルドーニの戯曲を現代にひきつけることで浮かび上がってくることのひとつは、のろまだったりうっかりしていたりする人物の欠陥は昔も今も大して変わらないということなのだけれど、それは身体をもって社会にあらわれることにつきまとう退屈さとも言えるし、おかしみとも言えるし、気苦労であるとも言える。
喜劇では、登場人物に何か欠点があることが本質的だ(注6)。欠陥は繰り返されるドジな笑いの種としてスピード感の中に解消され上滑りしていく。
悲劇においても、主人公のある種の欠陥が重要な働きをすることがある。だがそれは、歴史の中で取り返しがつかない一回性の出来事を引き起こす宿命のようなものとしてあらわれる。
人間の欠陥というものは、喜劇的な認識のあり方と、悲劇的な認識のあり方においては、別の現れ方をする。
荘重な悲劇と、軽快な喜劇の間にある、『暖かい氷河期』のミディアムテンポに浮かび上がるのは、常に固有でありながらどこかありふれたパターンにはまってしまうような私たちの生活のあり方そのものだと言えるだろうか。
フランケンズの古典喜劇連作では、喜劇や悲劇として純化されてすくい上げられる前の、あいまいで悲喜こもごもの生活の成り立ちが、喜劇をスローダウンさせることで還元された仕方であらわれたように思う。これはやはり、演劇でしかできない仕事なのだろう。
そんな悲喜劇性みたいなものを微笑みながら受け止めたいというのが、フランケンズの近作のひとつの特質ではないかとも思う(注7)。
『暖かい氷河期』の終盤で、夫となるべきひとに怒って妻となる女性がカラフルなゴムボールを投げつける場面がある。痛めつけようとする関係の図式だけあらわれて、攻撃があらかじめ無効なものになっているのがいかにもおかしい(なんて理屈をこねるのも滑稽だけど)。
ゴムボールのケミカルなよそよそしさとお遊戯的な身近さとがあいまって、まじめに怒って攻撃性をあらわにしている演技が危険の無いボールのあり方によって中和されている。いわば「悲喜劇」的な舞台造形と言える場面だったと思う。
『暖かい氷河期』では、舞台は簡素な仮舞台のようにしつらえられていて、裸電球がいくつも整然と下がっている。まるで、田舎芝居のような雰囲気が演出されているが、裸電球は洗練された仕方で明るさを操作されるし、別の照明もあてられる(注8)。
そうした舞台造形はいかにもどさまわりの喜劇一座という雰囲気を醸しているのだけれど、一方でほぼ正方形の舞台はストライプをなして並ぶゴムのように伸縮性のある肌色で縦長の細長い幕の列で囲われていて、役者たちは上下を固定されたそのストライプをかきわけて舞台に出入りする。
舞台を囲む伸縮自在の縦縞は、壁にもなればドアにもなり、かきわけながら互い違いに幕をすり抜け続ける役者の演技によって心理の葛藤を示すメタファーのようにも働く可塑的な平面になっていた。そんな意味できわめてモダンな空間構成にもなっていて、舞台を視覚的な抽象性によってひきしめている。
そんな舞台美術的な構成もまた、悲喜劇的な両義性とでも言える性格を持った舞台造形になっていたと思う。
さて、フランケンズの近作を見ていて、ある種の退屈さを感じることがある。だから、フランケンズの舞台をみてつまらないと思う人の気持ちもわからなくはない。
それと同時に、この退屈さは、単なる不足ではないとも思う。きっと、フランケンズが実現しようとしていて、他の演劇的な営みと決定的に違う、フランケンズに独特な特質が、この退屈さの印象に関わっているのではないかと思う。
誤意訳の余地があるということ自体が、すばらしくも退屈なことだ。ずっと昔の別の国でそうだったように、私たち人間は、あいもかわらずのろまでドジなのだ。
『暖かい氷河期』というタイトルには、「氷河期」を生きた遠い祖先の苦労と、温暖化の進む現代の苦労を同じフィジカルなものととらえる認識のあり方が示されているかのようだ。
フランケンズの舞台は、テンポが遅く、冷めていて、間延びしていることがある。観客がおのずと舞台に距離をおいてしまうような隔たりの感覚というのは、演技の質にも由来している。
以前、私はそれを、「翻訳劇的な演技のスタイル」と書いたことがあった(注9)。新劇の伝統に根ざすだろう演技の様式をシミュレーションしたみたいな、あまりに淡々と律儀にひとつひとつの拍を刻んでいくみたいな演技の質。
その質は、演技のスタイルのひとつにすぎないという自覚を伴いながら、しかし、避けようが無いものとして引き受けられているようにも思う。それは、身振りが社会的な規範と共に成り立つということが、演劇の成立と密接に関わるということと関連する。
ある種のダンスや振り付けの試みにおいて、社会的な規範から自由になるところに身体的悦楽が見出されるような仕方とはまったく別の方向性がフランケンズの演技の質にはある。しかしそれも、身体固有のリアリティを汲み取るひとつの仕方には違いない。
身体の社会的な生のあいまいさをあいまいさのままに、距離をおいて浮かび上がらせるような舞台造形。つまり「ミディアムテンポの悲喜劇(どこか退屈でどこか愉快な私たちの生)」。
(注1)
『ラブコメ』については、 http://d.hatena.ne.jp/yanoz/20050409/ などで論評した。最近のフランケンズは古典喜劇の連作のほかにも、ブレヒトの上演やアメリカ現代戯曲のリーディング公演なども手がけている。
(注2)コメディア・デラルテについて、ネット上での簡潔な説明として http://www.page.sannet.ne.jp/kitanom/geiron/geiro09.html などがある。
ゴルドーニが生きた時代についてネット上で読める文献としてたとえば http://www.bun.kyoto-u.ac.jp/italianista/studi/venezia.htm がある。
(注3)
道化論は、20世紀後半に盛んだった。日本を代表する道化論として、たとえば山口昌男『道化の民俗学』(ちくま学芸文庫、ほか。山口昌男著作集3巻に所収)高橋康也『道化の文学』(中公新書)絶版などを参照のこと。道化の系譜をまとめたサイトとしてたとえば
http://www.tokyomad.com/clownhistory.html がある。
(注4)
まあでも、取り違えの喜劇というのは、アンジャッシュとか、古典に回帰したみたいな最近のお笑い芸人さんたちが好んでモチーフにしているので、そちらに任せておけば良いとも言える。
(注5)
身近な人の男装に気がつかないことがギャグになるというのは、『稲中』だとかギャグマンガなんかにも良くあるパターンではある。男女を区別する制度だとか性的なものをめぐる「おかしさ」もまたそこに「絡む」のだとすると、これは喜劇というものの本質にも「絡む」重要な論点につながるだろう。
(注6)それは、たとえば古典喜劇の題名が『守銭奴』だったりすることに象徴的にあらわれている。
(注7)たとえばベケットの『ゴドー』もサブタイトルに悲喜劇と冠されていて、悲喜劇という用語を人間性につきまとう欠陥のグロテスクな「不条理」として考える方向も開かれていたのだろう。フランケンズの場合それはもっとさりげなくありふれたものだ。なお、本稿で悲劇と喜劇を類型化する上では、とりわけベルクソンの著作『笑い』の議論に触発されている。
(注8)ストレーレルの『二人の主人を一度に持つと』でも、舞台上に照明用のろうそくがあくまで舞台装置として並べられていた。
(注9)フランケンズの演技の質については http://d.hatena.ne.jp/yanoz/20041101#p1 で論じてみたことがあった。
(初出:週刊マガジン・ワンダーランド第12号、2006年10月18日発行。購読は登録ページから)
【筆者紹介】
柳澤望(やなぎさわ・のぞみ)
法政大学の大学院でフランスの哲学者ベルクソンを研究していたが、博士課程を退学。某編集プロダクションを経て現在某業界紙記者として働いている。
【公演記録】
中野成樹+フランケンズ 「暖かい氷河期」
STスポット横浜(9月8日-18日)
共催:STスポット横浜
[原作] カルロ・ゴルドーニ「2人の主人を一度に持つと」
[誤意訳・演出] 中野成樹
[出演] 村上聡一、福田毅、野島真理、石橋志保(以上、フランケンズ)、篠崎高志(POOL-5)、本多幸男(第七病棟)、タケシタユウジ(Dotoo!)、松村翔子、ゴウタケヒロ(POOL-5)
*出演予定だった仲田真一郎が諸事情により降板、ゴウタケヒロ(POOL-5)が出演。
[STAFF]
舞台監督=山口英峰/照明=高橋英哉
音響協力=竹下亮(OFFICE MY ON)
美術=中野成樹
宣伝美術=青木正(Thomas Alex)
制作=コ・フランケンズ
横浜市創造的芸術文化活動支援事業
・関連企画1. ポストパフォーマンストーク
第一夜(9/10) ゲスト 関 美能留(三条会/演出家)
第二夜(9/11) ゲスト 岡田利規(チェルフィッチュ/劇作家・演出家)
第三夜(9/14) ゲスト 内野 儀(演劇批評・東京大学助教授)
・関連企画2. ワークショップ「翻訳劇を遊びまくる!」
2006年9月13日(水)14:00・17:00
【関連情報】
・インタビューランド #4 中野成樹(POOL-5, フランケンズ主宰)
根っこはないけど大切にしたいものはある-「誤意訳版」翻訳劇の源
http://www.wonderlands.jp/interview/004nakano/
・中野成樹+フランケンズ『暖かい氷河期』09/08-18 横浜STスポット(しのぶの演劇レビュー)
http://www.shinobu-review.jp/mt/archives/2006/0912010647.html
・中野成樹+フランケンズ 『暖かい氷河期』@STスポット (ときどき、ドキ
ドキ。ときどき、ふとどき。)
http://blog.goo.ne.jp/sotashuji/e/ae44c499a67f7e22b53061153d0a7dfe
・中野成樹+フランケンズ「暖かい氷河期」 (炭酸カルシウムガールズ2)
http://blog.livedoor.jp/caco3girls/archives/50600441.html
・久々の小劇場~「暖かい氷河期」(Just the way you are)
http://plaza.rakuten.co.jp/cutentag/diary/200609160000/