ベケット「エンドゲーム」

◎「待つ」ことの希望と救済
田中綾乃

ベケット「エンドゲーム」公演チラシ今年は、ベケット生誕100年ということで、ベケットに関するシンポジウムや公演が数多くなされている。その中でも、9月末にシアタートラムで上演された『エンドゲーム』は、連日立ち見がでるほどの盛況であった。

ベケットの『エンドゲーム』の初演は1957年*i。『ゴドーを待ちながら』の初演(1953年)から4年後である。そのためか、『エンドゲーム』も『ゴドーを待ちながら』も、ベケットの中期戯曲作品に見られる共通の特徴を有している。それは、一言でいえば、(成立してるかいないかは別として)一貫した「対話」劇*ii であること。そして、そこで描かれているのは、「待つ」という状態の人間のありかたである。
ベケットといえば、「不条理劇」を誰もが想定し、一般的に「不条理劇」=「難解」というイメージを抱きやすい。もちろん、ベケット作品に“ある特有の難解さ”があることは否めない。しかし、このことは決してネガティブに捉えられる側面ではなく、むしろ作品の豊かさを増し、観る者の想像力を一層喚起する要素なのではないだろうか。

冒頭、幕があがると、薄暗い光が差しこんでいるがらんとした灰色の部屋。舞台真ん中と下手には、白い布がかけられた物体があり、部屋の両側の高い壁面には小さな窓がついている。そこへクロヴ(柄本明)がドアをあけて入ってくる。この男は、足を引きずっているようにもみえる。クロヴは、無言で部屋の奥の高い小窓に木製の脚立で登り、窓をあけて外を見る。そして、何かを見て低い声で「ははははは・・・」と笑う。脚立を下り、また同じことを、もう一方の窓で行う。「ふふふふふ・・・」。
この冒頭の場面だけでも、充分に面白い。いや、想像力が喚起される。まだ何も始まっていないのだが、この部屋は一体何であるのか、そして、この男は、窓の外のどのような景色を見て笑っているのか、そもそもこの男は誰なのか・・・?と次々と疑問と興味が湧いてくる。

男は、部屋の下手にある白い布をはがす。そこには、錆びたドラム缶が二つあらわれる。クロヴは、ドラム缶の中を覗いて、また笑う。今度は、中央の布をはがすと、顔に布をかけた人間が椅子の上に座っている。それを見てまた笑うクロヴ。そして、ふっと無表情になり、こう吐き捨てる「おしまい。終わったよ。終わりそうなんだよ」。
この「おしまい」という台詞から始まる『エンドゲーム』。「おしまい」とは、まさにこのゲーム(芝居)の始まりを意味している。タイトル『エンドゲーム』は、チェスゲームの終盤を意味するそうだ。舞台には、4つのコマがある。舞台中央の椅子の上には、盲目で足が不自由なハム(手塚とおる)。二つのドラム缶の中には、ハムの両親と思われるナッグ(三谷昇)とネル(渡辺美佐子)がそれぞれ閉じこめられていて、時折、ドラム缶から顔だけだす。そして、部屋の中を唯一自由に歩き廻ることができるクロヴ。この4人の登場人物*iii による「対話」というゲームがまさにここで繰り広げられるのである。

ここで主に展開される「対話」は、ハムとクロヴの「対話」である。盲目で足が不自由なハムは、チェスのキングのように部屋の真ん中の椅子の上にいて、自ら動くことはできないが、何かあれば笛でクロヴを呼びだし、いつもの雑談を繰り返したり、用事を言いつけたりする。その語りかたは、館の主と思わせるような高圧的で、かつ、朗々とした語りである。
それに対して、クロヴは、時には早口で対応し、時にはぶっきらぼうに返事をしたりする。おそらく、いままでずっと同じことを何度も繰り返してきたのだろう。何の変わり映えもない生活、ハムの何度も同じ質問や言動に飽き飽きし、うんざりしているようにみえる。しかし、クロヴは、主であるハムの命令に決して逆らうことはない。ハムの命令をうけると、きちんとそれに従う。
ハムはクロヴに尋ねる。「なぜ、わしを殺さないのじゃ」と。クロヴは「あんたを殺したら、(食料の)錠前がわからないから」と応える。ハムとクロヴがどのような関係なのかは不明だ。主従関係ではあるが、もしかしたら親子であるかもしれないし、もしかしたら同志であるかもしれない。だが、どのような理不尽な関係であっても、お互いがお互いを必要としているのはわかる。
二人は、「対話」を通して、時には他愛もないやりとりを楽しみ、時には拮抗しあい、時にはじゃれあい、時には発狂し、時には一方的で意味のない言動を繰り返しながら時間を過ごしていく。
ハムとクロヴの「対話」は、『ゴドーを待ちながら』のヴラジーミルとエストラゴンの「対話」と同じように、とくに何か特別なことが起こるわけでもなく、ただ淡々と進んでいく。だが、そのような淡々と続く「対話」を紡ぎあわせながら、この物語の背景を想像していく楽しみがベケット作品には与えられているのだ。

ところで、ベケットの不条理演劇のスタイルについて、最近では、よく「時代がベケットに追いついた」という表現を耳にする。それは、おそらく20世紀の世紀末から今世紀にかけて、災害や事件、戦争、といった様々な悲惨な社会的な出来事を目の当たりにしてきた私たちにとって、「不条理」という言葉や「不条理」な出来事が身近になり、それゆえベケット作品にもリアリティがある、といった教科書的な意味で用いられているのであろう。
しかし、世界が、あるいは、人間が「不条理」な存在であるのは、当然のことながら今に始まったことではない。ベケット以前でも、我々の世界には常に「不条理」が溢れている。そのような中で、私は、ベケット作品に接すると「不条理」という言葉のイメージとは反対に、言いしれぬ安心感や希望を抱く。それは、どのような状態であっても、二人の人間が、ハムとクロヴが「対話」をし続けるという姿勢である。
もちろん、二人の「対話」の間には、通常のコミュニケーションは成立していないのかもしれない。意味のある「会話」というよりは、記号としての言葉を羅列し、ただただ一方的に言葉を発し、すれ違っているだけかもしれない。しかし、それでもハムとクロヴは、その無意味な「対話」をやめようとはしない。理不尽な主従関係であっても、そして、たとえ世界が終焉しても、「対話」というゲームを続けていくのだ。

『エンドゲーム』の描かれている世界がどのような世界なのかは、実際にはわからない*iv。だが、ハムの台詞によれば、この灰色の狭い部屋は「シェルター」と呼ばれている。そして、ハムに命令されたクロヴが、この部屋の高い壁面の小さな窓から外を見て、外の風景を報告するシーンでは、クロヴは「ゼロ、ゼロ、ゼロ」と述べる。つまり、何もない。この部屋の外の世界は何もないのだ。生き物はすっかり屍となり、太陽は灰色。この描写から、世界は死んでしまっている、終わっている、という終末論的な世界観が描かれていることが窺える。
そのような絶望的な状況であっても、彼らは他愛のない「対話」を続けている。いや、逆にいえば、そうであるからこそ、彼らは無意味な「対話」を繰り返し、自分たちの世界(部屋)の中で、一生懸命「物語」を紡ぎ出そうと足掻いているのかもしれない。その足掻きは、ときに幸福な一時であり、希望の一時である。
ハムは言う。「終わりは始まりの中にある。それでも人は続けるんだ。終わったら、また始めればいいんだ」。世界の終わりのただ中にあっても、ハムとクロヴの二人によって続けられる「対話」のゲームは、あたかもこのまま永遠に反復されるかのように思われる。

しかし、彼らはどこかで知っている。この「対話」というゲームが終わることを。いや、いつも繰り返される茶番劇をそろそろ終わらせなければならないことを。冒頭で、ハムは「もう終わってもいい頃だろう。でも、ためらっている、終わらせるのをためらっている」と述べていた。そう、ためらっているからこそ、彼らは茶番を続けてきた。しかし、いつかは世界が終わるように、ゲームも終わるのだ。
それは、何もハムとクロヴという二人の理不尽な関係の終わりだけではない。自らの「人生」というゲームの終わりでもある。『ゴドーを待ちながら』では、「もう行こう」といいながらもいつまでもその場を離れないヴラジーミルとエストラゴンの二人の姿が最後まで描かれていた。だが、『エンドゲーム』では、ハムとクロヴのゲームの終盤が描かれる。
ハムは突然「終わりだ!我々は終わりに辿り着いたのだ。もうお前には用はない」とクロヴに告げる。クロヴは二人の「物語」のラストを語り、部屋をでていく。
一人部屋に残されたハムは、「わたしの番じゃ」といって、ゲームを終わりにするために、一人淡々と語っていく。チェスのコマを捨てる喩えを用いながら、この世界への絶望、諦め、そして己の執着を捨て、投了にしようとする。それは、あたかも自分の人生のゲームを終わらせるかのようである。途中、何度かクロヴや父を呼ぶ。しかし、何の応答もない。
いままでであれば、ハムがクロヴを求めれば、クロヴは嫌々ながらも求めに応じただろう。しかし、いまやハムが笛を鳴らしても、クロヴの名を呼んでも、クロヴは来ない。このままクロヴは来ないのだろうか・・・
だが、最後、旅支度をしたクロヴがハムのいる部屋に入ってくる。ハムは、「クローヴ!」といままでにないとびっきりの愛情を込めてその名を呼ぶ。しかし、呆然としたまま動かず、沈黙のままのクロヴ。
ハムは、クロヴの存在に気づいているのかどうかはわからないが、「終わりにしよう、もう語るのは」といい、語るのをやめてしまう。二人の<沈黙>の中で幕は閉じる。

クロヴがハムのもとを去ってしまったのかどうかはわからない。また、ハムも自らの人生のゲームを終わらせたのかどうかはわからない。しかし、ハムが語るのをやめた後の表情は、諦めでもなく、悲しみでもなく、実に穏やかな表情にみえた。二人の<沈黙>は、決して<無>の状態ではない。それは、闘うことをやめ、語ることもやめた、ただお互い「待つ」という状態に身を委ねた人間の姿であるように思える。この姿があるからこそ、この終末論的な雰囲気を漂わせた『エンドゲーム』は、それでも『ゴドーを待ちながら』と同じく、最後の最後で救済の物語なのではないのか、と私は考える。
世界に対してどのように絶望しても、そして語ることさえできない状況のときにでも、私たちにはただ「待つ」ことはできる。そして、もしも世界が終焉してしまっても、その始まりを私たちは「待つ」ことはできる。もしかしたら、それは別の言葉でいえば、「祈り」なのかもしれないが。

現代の私たち。もはや状況は、すれ違いの「対話」さえも、まして何かを「待つ」ということさえもできなくなっているのかもしれない。生誕100年という時を迎えて、ベケット演劇が今日の私たちに語りかける声に耳を傾けたい。
(初出:週刊マガジン・ワンダーランド第16号、2006年11月15日発行。購読は登録ページから)

【註】
i) 1957年の初演は、ロンドンのロイヤル・コート・シアターにおいてフランス語で上演された。タイトルは”Fin de partie”、邦訳では『勝負の終わり』として翻訳されている。今回の『エンドゲーム』は、ベケット研究者岡室美奈子(早稲田大学教授)による英語版”Endgame”を底本にした新訳である。
ii) もちろん、この「対話」劇のスタイルは、ベケット後期作品になると変化する。後期ベケット作品は、『わたしじゃない』、『ロッカバイ』、『クワッド』といった作品が代表的であるように、様式にこだわり、抽象的で実験的な要素が色濃くなる。
iii) このハム(hamus)、クロヴ(clou)、ナッグ(Nagel)、ネル(nail)の登場人物の名は、それぞれ、ラテン語、フランス語、ドイツ語、英語で「釘」を意味する、と言われる(Vgl.『ベケット大全』、高橋康也監修、白水社、1999年)。また、その中でも、ハムは、力や創造の象徴としてのハンマーの意味も内包する。
iv) 『ベケット大全』によれば、H.Kennerは、『エンドゲーム』の舞台、すなわち、二つの小さな窓のある灰色の室内を巨大な頭蓋の内部とみなしている。それゆえ、ここで繰り広げられる物語は、物理的な世界の物語ではなく、ハムの心象風景という解釈もできる。また、ベケットの草稿から、部屋が精神病院としての機能をもつことも指摘されている。

【筆者紹介】
田中綾乃(たなか・あやの)
愛知県名古屋市生まれ。東京女子大学文理学部哲学科卒業、同大学院修士課程修了。現在、同大学院博士課程在籍、同大学非常勤講師。専門は、カント哲学、現代演劇論。哲学研究と観劇という二足の草鞋を続行中。

【公演記録】
生誕100年記念「ベケットの秋in 世田谷」
エンドゲーム』Endgame / Fin de partie
世田谷・シアタートラム(2006年9月22日-10月1日)
http://setagaya-ac.or.jp/endgame/

作:サミュエル・ベケット
翻訳:岡室美奈子
演出・美術:佐藤信
CAST:柄本明、手塚とおる、三谷昇、渡辺美佐子

ポストトーク:
9月25日(月)宮沢章夫(作家・演出家)、岡室美奈子(翻訳、早稲田大学教授)
9月26日(火)佐藤信(演出家)、谷岡健彦(東京工業大学助教授)
9月28日(木)柄本明、手塚とおる
9月29日(金)スタンリー・ゴンタースキー(フロリダ州立大学サラ・ハードン教授)

【関連情報】
・国際サミュエル・ベケットシンポジウム 東京2006
http://www.waseda.jp/prj-21coe-enpaku/temp/samuel_html/index.html
・生誕100年記念『ベケットの秋 in 世田谷』「ベケットを読む」
http://www.setagaya-ac.or.jp/sept/jouhou/06-2-4-40.html
・日本サミュエル・ベケット研究会
http://beckettjapan.org/home-j.htm

サミュエル・ベケット関連作品一覧(amazon.co.jp)


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