◎身体によって発想された身体による物語
高木 登
多田淳之介は「今回見つめ直すのは『物語』」であると書く(本公演チラシ裏)。「僕としては希望を描いたつもりです」とも書く(当日パンフレット)。だがここには一般的に期待されよう「物語」も「希望」もない。見えない。すくなくとも表層的にはそうで、ならばそれはどこにあり、どこに込められているというのか。
舞台美術はシンプルで力強い。緞帳が上がると荒涼と汚れた壁に囲まれた座敷の中央奥に一台のiPod が置かれており、古びた大きなスピーカーがその両脇に据えられている。やや神秘的な照明が当てられたそれは何かの「祭壇」を連想させ、これから起きることが何かの「儀式」であることを暗示する。上手奥の襖から入り来て下手に鎮座する坂本絢が読み上げるのは、クローン実験により人類は老化とガンが克服できるかもしれないとか、ネット心中とか、ダイオキシンとか、代理母とか、紫外線とか、どこか「終末」を匂わせるニュースばかりである。その間、夏目慎也によって一体ずつ引きずり込まれ適当な場所に無造作に投げ置かれる出演者たちは、ただ横たわったまま死体のごとく動かない。すなわち冒頭において充満するのは「死」の匂いである。
ふたたび下りた緞帳には爆音で流れるザ・ハイロウズの『不死身のエレキマン』に乗せてタイトル映像が流れ、またそれが上がると、同曲を大声でがなり立て、踊り狂う、もうあまり若くはない若者たちの姿がある。どうやら彼らは集団自殺するためにその場所に集い、人生最後の宴に興じているらしいのだが、詳細はわからない。座敷の中央には何かの鍋と菓子、酒、ジュース類、彼らはどうでもいい会話を熱狂的にたのしみ、飲み、食べる。ハイロウズの次はRCサクセションの『スローバラード』、モーニング娘。の『恋愛レボリューション21』、浜田真理子の『ラストダンスは私に』、電気グルーヴの『Shangri-La』、iPod から奏でられるそれらの曲にあわせ、過剰なテンションで彼らは歌い、踊る。そしてひとりずつ倒れ、途切れるようにその「生」を終焉させていく。
芝居の主たる内容はほぼここまでで、この約三十分の出来事を都合三回くりかえすことが本作の趣向である。『Shangri-La』が流れるなか全員が死亡し、曲が終わってしばしの静寂、やがてふたたび『不死身のエレキマン』が流れはじめると、彼らはむくむくと起き出し、なにごともなかったかのように冒頭からの出来事をリピートし、やがてまた死んでいく。ひたすらくりかえされる「死」と「生」、『再生』というタイトルはわかりやすすぎるほどにわかりやすい。
この趣向をどうとらえるかで本作の評価は分かれた。眼前でくりひろげられるのは「物語」とも「希望」とも遠いただの絶望的な馬鹿騒ぎの光景の反復である。わたしが観た回ではひとりの退場者もなかったが、けっこうな数の観客が途中で帰ったそうだし、激しく怒った観客もいると聞く。終始本作を愉しんだ自分としては、途中退場者の論理は理解できず、なぜ怒るのかもよくわからない。
本作の魅力は多面的で、その多様な魅力が輻湊的に在ることこそが面白くかつスリリングである。まず劇構造の大胆不敵さがある。おなじことを三度くりかえす、誰でも思いつきそうなアイデアだが、それゆえにそれなりの度胸と勝算がなければなかなか実行に移せるものではない。次にショウ的な側面がある。選曲の妙もあるが、歌い踊る俳優たちの肉体の躍動感にこちらも少なからず血を騒がされる。だが本作においてもっとも重要なのは「趣向」と「俳優の肉体」の相克を観ることにある。同内容の三度の反復は意味においてそれ以上のものではない。たとえばこれが映像ならば安直と誹られもしようし、事実安直である。だがこれは演劇である。俳優の肉体は有限で、意味的に並列の時間軸も彼らにとっては直列である。つまり彼らは疲れる。したがって、ここでくりかえされ提示されるのは厳密には同内容ではなく、過酷な同内容の台本を三回演じきる俳優の姿なのである。
わたしはこの疲れていく俳優たちの姿が可笑しくてならなかった。一巡目はこのまま宴会だけで芝居が終わったら、それはそれで大したものだと思いながら観た。二巡目に入り劇構造が見えてきたとき、果たしてこの二巡目は一巡目とおなじ展開をたどるのかどうかという強烈なサスペンスにひきずられるようにして観た。そして三巡目はこのふてぶてしい構造に驚き呆れ、それを実現させるのに懸命な俳優たちの姿に笑いをかみ殺しながら観た。飽きなかった。三巡目の俳優たちは疲れを隠そうとしない。起き上がる表情はうつろだし、鍋を頬張るのに嗚咽するほど辛そうだし、もはやまともに踊ることすらできず無様に転倒してみせる。それはまさに「虚構」と「現実」の相克を観ることでもあり、その滑稽と悲惨は絶えずわたしを微苦笑させた。
それがすべて演出だとわかったのは三巡目の最後、つまり本作のラストにおいて俳優たちが血反吐を吐いて立ち尽くしたときである。ここで劇構造は鮮やかな変転を見せる。わたしの笑顔は凍った。わたしが並列構造だと思っていた本作は、実は直列構造だったのだ。彼らが疲れていく様は「現実」ではなく「虚構」だったのだ。いや、「現実」なのだが「虚構」でもあったのだ。それがあきらかになったとき、本作の「物語」がどこにあったのかもあきらかになる。それは俳優たちの肉体のうちにあったのだ。疲弊していく身体の中で「物語」が葛藤していたのだ。わたしは素直に感服した。これはまぎれもなく「演劇」で、演劇にしか不可能な試みだ。
果たして作者の多田が当初からどこまでを企図していたかはわからない。本稿を起こすにあたっての編集部の問い合わせに対し、台本はだいぶ変更されていて稽古で振りつけていった部分が多く、いまのところ上演台本が存在しないとの多田からの返答があった。机上で発想したこと以上に現場での発想が多大に本作に貢献しているのだろう。たしかにこれはそうでなければ作れない芝居である。われわれはまちがいなく貴重な試みを観た。これは「実験」などではない。身体によって発想された身体による物語の試みである。
最後に「希望」の在処はどこなのか、わたしの解釈を記す。それは血反吐を吐いてまで幾度となく死につづける彼らの狂疾のうちにこそある。そんな希望はいらないというなら途中退場するがよい。わたしは、彼らが歌いつづけ、踊りつづけるかぎり、永遠にこの芝居の観客でありつづける。(文中敬称略)
(初出:週刊マガジン・ワンダーランド第16号 2006年11月15日発行。購読手続きは登録ページから)
【筆者紹介】
高木 登(たかぎ・のぼる)
1968年7月、東京生まれ。放送大学卒。脚本家。劇団「机上風景」座付き作家。主な作品に『昆虫系』『複雑な愛の記録』『グランデリニア』など。
机上風景webサイト:http://kijoufuukei.org/
【公演記録】
東京デスロック『再生』 http://specters.net/deathlock/
アトリエ春風舎(2006年10月26日-31日)
作・演出:多田淳之介
出演:
夏目慎也
佐山和泉
石橋亜希子(青年団)
佐々木光弘(猫★魂)
宮嶋美子(風琴工房)
円谷久美子(徒花*)
美館智範
山形涼士
坂本絢
スタッフ:
舞台美術:袴田長武(ハカマ団)
照明:千田実(CHIDA OFFICE)
音響:薮公美子
宣伝美術:多田淳之介
運営:斉藤由夏
【訂正】
週刊マガジン・ワンダーランド第16号で「下手に鎮座する石橋亜希子が読み上げるのは」とあるは「下手に鎮座する坂本絢が読み上げるのは」の誤りでした。おわびして訂正します。