上品芸術演劇団「まじめにともだちをかんがえる会の短い歴史」

◎「確かな芝居」の世界へ切り替わる 内閉した心情をぶつけるシーンで
藤原央登

「まじめにともだちをかんがえる会の短い歴史」公演のチラシ」上品芸術演劇団といういささか大時代がかったネーミングのユニットは、チラシには兵庫県のAI・HALLで長年開かれていた演劇塾の9期生(女優4人)にチーフディレクターであった劇団八時半主宰の鈴江俊郎が加わって成立したものであると書かれている。私は2月の劇団八時半公演『完璧な冬の日』で描かれた空港建設に反対運動を続ける登場人物に鈴江の演劇することの意味と倫理を感じ取り、また愚直なまでに演劇が成立する作業仮設としての劇団の堅持とその必要性を希求する姿勢に好感を持った。それは本当に今どき珍しいくらい演劇への直截な情熱を感じさせるものであるが、まさか自劇団の他に集団を持つとは予想外だった。

作品世界では自閉した人物同士による問題への取り組みがやがて暴露的なまでの破綻を迎えるという鈴江カラーが展開される。結婚詐欺の被害に遭った4人の高校教師と当の詐欺師が紡ぎ出すのは、自身が拠って立つ居場所の確認である。「正義は政治」だと書いたのは寺山修司であるが、愛も容易に移ろい易く一方的であり、時に暴力の要素を孕んだ狂気の沙汰へとそれを所有する人間を駆り立てるくらいに同じく「政治」である。この「2つの愛」はこの劇においてどのように描かれ、作用していくのであろうか。

詐欺師を呼び出したのは彼を問い詰め、総額3000万もの大金を取り戻すだけではない。近々催される文化祭のオープニング、国旗に向かっての起立と国歌斉唱が全教職員に通達されている中でただ一人それに反発し続ける英語教師を説得するためでもあった。1999年8月施行の「国旗及び国歌に関する法律」は制定時とは裏腹に「信教の自由」「思想の自由」を無視し教育現場での強制を伴ってしまう。先に書いた劇の導入部分はまさにこの問題を俎上に載せており、その「政治」性が対人間のいびつな愛と相まって展開していくという劇構造になっている。

個々人の人間性とは、性格を含めた唯一の思想がある行動を決定させて現在の自分を形成し、生涯に渡って保持されるものではない。良くも悪くも周りを取り巻く環境によって刻々と変化を余儀なくされる結果として重層的な人間が成り立っている。私は「人生は芝居」と明瞭に言い切れるようなある種あっさりとしたものではなく「芝居のようなもの」の堆積によって成り立っているのではないかと常々思っている。舞台内世界がいくら幻想や未来を描いていようとも、我々が今という平成の時代に生きている以上、観客席で観ている事柄、状況は紛れもない現実世界である。となれば当然その逆もまた真である。

特権的肉体を所有しているから俳優なのではない。我々の性格等々をひっくるめた自意識=私的幻想(エス)とは多層的な自我、それが何であるかを知らないまま自己が置かれている多種多様な状況とその状況に共に置かれている人間双方から成り立つ共同幻想から放たれた反作用として無意識にその一側面が露になっているにすぎない。両者は相互補完的に影響し、往還することで世界を形作る。特権的肉体とはそのことを自覚した者の謂いではないか。つまり「芝居のようなもの」とはその実誰しもが行っている擬態としての「演技のようなもの」で構成される世界の事である。したがってその堆積によって成り立つ虚構としての現実を我々は生きている。

4人が共闘して詐欺師をとことん追求していたかと思えば、各々男女2人だけになった途端、詐欺師に嫌われまいと懸命にアピールして取り入ろうとする女達の姿は、愛を軸にした激しい「演技」合戦を意味する。本音と建前。自己弁護と保身を目的とした抜け駆け行為がやがて場の崩壊を到来させるのは当然の成り行きである。引き金となるのは、やはり金は騙し取れたのではなくあげたものである等、他の3人の女性と位相を異にする価値観を持つ英語教師の存在である。彼女への攻撃を起点にしてこの劇は輪転し始める。穏やかであるが故に人をイライラさせてしまう英語教師がついに国旗・国歌斉唱にかたくなに反対する理由を堰き止めたダムの水が一気に流れ出すような速射砲で語りだす。その姿に私達はまた多層的な人間の一部を垣間見るのである。満州事変、盧溝橋事件から日中戦争、太平洋戦争に至る所謂15年戦争が民族紛争でも宗教戦争でもない非植民地化政策と列強思想に則った侵略戦争であること、国旗・国歌掲揚は失敗だった15年の日本の歩みを正当化し、日本民族の長である天皇の下、国家帰属という名の偽りのアイデンティティの獲得にしかならない。彼女は何かに憑かれたように檄を飛ばした。

「まじめにともだちをかんがえる会の短い歴史」公演
【写真は公演の一場面。提供=上品芸術演劇団】

愛情を金で証明しようとすることと愛情を忠誠で証明することのアナロジーが浮揚するこの場面がこの劇の核となろう。権力側からの命令にただただ拒否し続けていた場所から一転して内閉していた心情をぶつけるこのシーンによって劇空間が「芝居のようなもの」から「確かな芝居」の世界へ間違いなく切り替わる。その「芝居」はいつしか他の教師へも伝播していき、金でつながることでしか恋愛を体験できない弱いだけの詐欺師に歌い浴びせかける君が代の合唱へと発展する。日本=詐欺師へアジア諸国=女達の構図は、最終的に詐欺師の首をベルトで締め付けて病院送りにする報復の連鎖という悲劇を結局迎えてしまう。「政治」の行使とは結局、何かを供物として抑圧・犠牲にしなければ不可能なのだ。

「暗い、厳しい、金欠」なる小劇場3Kのこの言葉は、プロデュース集団という新たな集団形態や演劇への地方自治体等の助成金の拡大とマスメディアへ進出といった内外挙げてのポップ化推進によってもはや小劇場とは言えない知名度と観客動員数を記録する者達を生み出した。しかし小劇場演劇という砦がかつて内包していたのは社会変革の実現のというテーゼではなかったか。その砦を共通コードに、フラグメント化して散らばった個々の作業仮設(劇団)の作品が連帯する共闘を支える。そういった小劇場演劇の本来の姿であった「運動性」というものを鈴江俊郎は追求してきた。いささか片手落ちの感は否めないテーマではあるが、昨今の演劇シーンに逆行するような活動それこそが鈴江俊郎の思想・活動であることを鑑みれば貴重な存在であり、また注目するに値すると思う。鈴江はじめ、若い役者達は溌剌とした真っ直ぐな演技力でそれに答え、舞台を十分な熱気で支えていた。

そんな演劇の理念というものを重視する鈴江だからこそ、上品芸術演劇団というユニットの成立意図を私は求めたいのだが冒頭に記したように深い意図は感じられない。もちろん実験の場は一つでなくてもいいが、自劇団でできることを別の集団でやってしまっては衛星劇団が一つ増えることにしかならないだろう。一人くらいポップ劇団が享受するものを供物にしてとことん「政治」的な場所で闘う存在がいても良い。だから私は2つの集団を面白いものにするため今更ながらの組織論と倫理を求める。

ホームグラウンドの劇団八時半の公演は来年の2月である。
(10月28日 ウイングフィールド マチネ)

【著者紹介】
藤原央登 (ふじわら・ひさと)
1983年大阪府生まれ。近畿大学演劇・芸能専攻卒業。演劇批評ブログ「現在形の批評 」主宰。wonderland 執筆メンバー。

【上演記録】
上品芸術演劇団 『まじめにともだちをかんがえる会の短い歴史』
ウイングフィールド(10月28・29日)

【作・演出】
鈴江俊郎

【出演】
上杉晴香
鈴江俊郎

押谷裕子
原聡子
永田香苗

【スタッフ】
照明プラン:鈴江俊郎
照明オペ:宇於崎智子(劇団rim)
音響:宇於崎智子(劇団rim)
舞台美術:脇野裕美子
宣伝美術:脇野裕美子
制作:清良砂霧

照明オペ:宇於崎智子(劇団rim)
音響:宇於崎智子(劇団rim)
舞台美術:脇野裕美子
宣伝美術:脇野裕美子
制作:清良砂霧

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA


このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください