エジンバラ演劇祭2006-5

◎分かりやすいダンスにきわどい性描写 DANCE BASEの独自プログラム
中西理(演劇コラムニスト)

エジンバラ演劇祭は本来、演劇(特にコメディーショー)を中心にしたフェスティバルでアビニョン演劇祭などと比較したときにはダンスのプログラムにはそれほど強くない。そういうなかでDANCE BASEとAURORA NOVA FESTIVALが開催されているSt.Stephen はレベルの高いダンスやフィジカルシアターを見ることができる貴重なプログラムを提供している。


Dance Base:Scotland's National Centre for Dance今回はまずスコットランドのナショナルダンスセンターの役割を果たしているDANCE BASE について紹介してみたい。DANCE BASE はエジンバラ城のすぐ下*1、グラスマーケット通りにある施設である(写真参照)。複数のダンススタジオを備えていて、通常は各種のダンスクラス(コンテンポラリーからバレエ、ヒップホップまで幅広い)が常時開講されていて、稽古場的な施設として使われている。東京でいえばセゾン文化財団の森下スタジオ、関西で言えば京都芸術センターのような場所が常時ダンス専門として使われている、と考えてもらえばわかりやすい。このフェスティバルのシーズンだけはスタジオのうちのひとつが小劇場となり、そこで独自企画したプログラムが朝から晩まで上演されるのだ。

今回観劇することができたのはRosie Kay Dance Company 「The Wild Party」と3つのガラ形式のプログラム(「SHOW1」「SHOW2」「SHOW3」)。

「The Wild Party」は女2人、男2人、生演奏のモダンジャズバンド(ドラム、ベース、キーボード奏者の3人)による構成。冒頭でいきなり派手な色合いの服装を着たエキセントリックな女性が登場。客席にむかってなにやら叫んでみせる。観客としては「困った人がでてきたな」という感じなのだが、引き続き2人の男性ダンサーが登場(1人はスキンヘッドでマッチョ系、もうひとりは背広でしっかりと決めた典型的な二枚目)。その後で舞台の上手奥でなにかが倒れるような大きな音とともに日本語には訳しにくいような猥褻語を叫んで、真打登場とばかりにきわどい衣装(白のオール・イン・ワンの下着の上にすけすけの布のピンクのシャツ)をはおった女性が出て来る。4人とも(特に女性2人は)実生活であったらやばそうで絶対に係わり合いになりたくないような人間に見えるのだが、これはもちろん演技で普段はそんな風体とは似ても似つかぬ女性なんだろう(と思う、というかそう信じたい)。

「The Wild Party」ではこの4人の登場人物が文字通りWild Party(乱痴気騒ぎ)を引き起こす一夜の出来事のことが描かれるのだが、4人のパフォーマーはのべつ幕なしにセリフをしゃべり続けているし、ダンスを誰かが踊っている横でその踊っている人物についての紹介をナレーション風にほかのパフォーマーが入れたりと、演劇的な要素が非常に強い作品なのである。

ダンスの要素も各所に挿入はされていて、そこでのムーブメント自体は暴力的でアクロバティックなリフトとか、様々な形態でのコンタクトなどコンテンポラリーダンスの生み出した動きが取り入れられてはいるのだが、舞台はあくまでも演劇的なナラティブ(物語)によって支配されている。例えばセックスを連想させるような動きが男女ペアによるコンタクトによって表現されるなど、身体言語は強い意味性をはらんで、物語に奉仕するような構造となっている。

ダンスムーブメントの独自性はあまり感じられない。その分、分かりやすいし、大衆性を持っているともいえるが、それでいてきわどいセックス描写など扱う対象は過激。ブロードウェーミュージカルとははっきり異なる主題に対する構え方が感じられ、そのあたりが面白い。

少なくともこの作品はドイツ、フランス、ベルギーなど欧州大陸系のコンテンポラリーダンスとははっきり違うし、アメリカのモダンダンスとも違う。もっとも、当日配られたパンフやウェブでの紹介文を読んでもダンスという表現はあっても、コンテンポラリーダンスとはいっさい書いてないのでこのような作品が英国においてコンテンポラリーダンスと見なされるのかどうかというのはよく分からない。エジンバラ演劇フェスティバルで見た作品にはけっこうこれと同種に思われる表現があって、そのことが英国のダンスの方向性をうかがせる意味で興味深かった。

3つのガラ(ミックス)プログラムのなかでは「SHOW3」が充実した内容だった。Jem Treays によるソロ「Walkie Talkie」。これは文句なく面白かった。これまで何年間かFestival Fringe で見たダンス作品のなかでもToni Mira(NATS NUS DANSA)の最初に見た作品や「Pandra88」に迫るアイデアかもしれない。リアルタイムに音響も加工して操る音響デザイナーとのコラボレーションで、詳しいやりかたは分からないのだが、舞台上に配置された金属板やダンサーの身体に据え付けられたマイクから音を拾い、そこで拾った音をリアルタイムに加工して作った擬音のような音に合わせてダンスが踊られる。

それだけじゃ分からないと思うので、具体的な説明をするとダンサーのJem Treays はラフな格好をした陽気なにーちゃんのような雰囲気で舞台に登場して、踊りながら手拍子をして、観客にもそれをするように強要してしばらく元気に踊るのだが、なにか急に疲れたようになってきて、観客も当惑して手拍子もやみ、ダンスも止まる。そして、しばらくすると咳き込みはじめるのだが、そうするとこの咳がどこかに仕込まれたマイクで拾われ、増幅されてでてきて、その音に舞台上のダンサーも反応する。

このJem Treays というダンサーはダンサーである以前にエンターティナーとして卓越していて、こうした仕掛けられた音との掛け合いや場合によっては観客にも働きかけて、その反応を自分のダンスにフィードバックさせてみせるように舞台の雰囲気を自由自在に操る能力を持っている。日本のダンサーでいえばショーマンシップにおいては近藤良平や関西のヤザキタケシを彷彿とさせるところがあり、見ているうちに近藤やヤザキをここに送り込んで対決させてみたくなった(笑い)。

2番目に見たJanis Claxton「Blue」にはJem Treays とは違う意味で驚かされた。実はこの人にはこの日の公演の合間に短い時間ではあったけれど少し会話を交わして、その時の印象では普通のおとなしいおねーさんという印象だったのだが、舞台で見ると最初に登場した時から表情といい、雰囲気といい先ほどロビーで見た人とはまったくの別人に見えた。説明が難しいけれど、すごい存在感なのだ。このギャップにまずおどろかされた。ダンスもただ踊るというだけではなくて、ちょっとした表情の変化などで舞台の雰囲気を一変させてしまう。そういうダンスアクトレスとしての稀有な能力を持ったパフォーマーなのである。この人は振付家というよりはダンサーあるいは演技者であって、言葉は悪いけれど、この作品の構成・振付そのものは同じ振付でほかのダンサーが踊ったとしてもたぶん面白いとはいえないだろうと思われる類のものなのだが、それでも彼女がそれを踊ると「ドキッ」とさせられるスリリングな瞬間が何度もあり、陳腐な表現になるが、女性のオソロシさが痛感させられるようなコワイ作品でもあった

3番目の「To Have and To Hold」 by Norman Douglas & Co, Vier Starke Frauen (Four Strong Women) はちょっと不可思議な作品だった。ダンスとしては4人の女性のダンサーが登場して、いかにもコンテンポラリーダンス的なムーブメントで踊るシークエンスが挿入され、ここの部分はテイストとしてはなかなかお洒落なダンスなのだが、このシーンがなぜかこの作品では入れ子のように劇中ダンスの構造になっていて、その外側では怪しげな髭をはやして、ラテンなまりの英語をしゃべる南米の高級娼館の主人に扮したNorman Douglas が登場して、「うちにはいい子がいっぱいいいるよ」みたいな調子で客引きのようなことをやる場面から舞台ははじまる。

不可思議と書いたのはこの純ダンス部分のクオリティーはダンサー、振付ともに高く、これだけでも勝負できるものであるのにもかかわらず、どうしてかそういうお色気ショー的な枠組みが外側についていて、それゆえダンサーはダンスを踊るだけではなくて、それぞれがひとりづつ登場して、観客に対して「飾り窓の女」のように媚態を示したりする。つまり、ダンスの場面はそこでやられているショーめいたものの一部というような設定になっているのだ。性の商品化に対する批判とか、パロディとしてあえてそういうことをやるというのならまだ理解できぬこともないのだが、舞台を見た印象はそうではなかった。演劇的な趣向で行うお色気ショーにまるでアリバイのように「コンテンポラリーダンス」が入っているという印象さえある。だからこそ観光客中心のエジンバラの観客には受けていたし、私も十分に楽しみはしたが、作品全体のテイストにはフェミニズム論者が見たら真っ先に糾弾の対象になりそうな扇情的なショーの匂いもして、だからこそ「いったいこれはなんなんだろう。これでいいんだろうか」と考え込んでしまったのだ。

演劇的要素の強さは別のプログラムで上演された「Certain Shadows on the Wall」からも感じられた。男女2人によるデュオ。机を間にして2人の男女が向かい合って椅子にすわっていて、それがしだいに相手の領域を侵犯、後退ということを繰り返しながら激しくあい争う。デュオである種の関係性を見せていくダンスとして、CRUSTACEA(濱谷由美子)や最近のMonochrome Circus(坂本公成)の作品を想起させるようなところがあった。ただ、大きな違いは表現が非常に具象的なことで、パンフに「ヴァージニア・ウルフなんかこわくない」をモチーフにした、と書いてあるのを見ると男女の葛藤を主題としたこの作品はダンス本来の抽象性への飛翔というようなことがかけらもなく、なんと分かりやすい作品を作る人たちだという印象なのだ。

ダンサーとしての身体能力は2人ともきわめて高く、動き自体はヴィム・ヴァンケイビュス(ウルティマ・ヴェス)を彷彿とさせるような鋭い暴力的な動きではあるけれど、やってることといえばマイムではないけれどもまったくの具象なのだ。ちなみにこれもフェスティバルに来ていた観光客中心と思われる客層にはこの作品はものすごく受けていたけれど「これでいいのか」という疑問の念が拭いされないものがあった。

*1 写真上の巨大な崖のような岩山の上に聳え立っているのがエジンバラ城、その下がDANCE BASE

【筆者紹介】
中西理(なかにし・おさむ)
1958年愛知県西尾市生まれ。京都大学卒。演劇・舞踊批評。演劇情報誌「jamci」、フリーペーパー「PANPRESS」、AICT関西支部批評誌「ACT」などで演劇・舞踊批評を連載。最近では「悲劇喜劇」2006年8月号に岡田利規(チェルフィッチュ)、三浦大輔(ポツドール)を取り上げた小論を執筆。演劇、ダンス、美術を取り上げるブログ「中西理の大阪日記」を主宰。

【関連情報】
http://www.edinburgh-festivals.com/
http://www.edinburgh-festivals.com/fringe/
http://www.dancebase.co.uk/content.asp?ContentId=1(Dance Base:Scotland’s National Centre for Dance )
http://www.dancebase.co.uk/content.asp?contentid=51(Performances)

http://www.rosiekay.co.uk/qcms4/(Rosie Kay Dance Company)
http://www.janisclaxton.com/pages/copages/company.htm(Janis Claxton & Co)
http://www.norman-douglas-and-company.com/norman_www_2/home/index.html(Norman Douglas & Company)
http://www.h2.dion.ne.jp/~capcr/(CRUSTACEA)
http://www1.neweb.ne.jp/wb/hot-summer/mc/(Monochrome Circus)
http://www.theatre-wales.co.uk/plays/author_playlist.asp?author=Toni%20Mira (Toni Mira)


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